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未来の速度で  作者: 未世遙輝
エピソード1
4/31

■第4章:父の心理破綻


 窓の外で、春の雨が静かに降っている。

 雲は低く、時間の輪郭を曖昧にしていた。


 亮介は、ソファにもたれたまま、

 ただ天井を見つめていた。

 天井は変わらない。

 息子の死が、この家の空気を塗り替えてしまっても。


 葬儀から三日。

 眠っていないようで、眠っている。

 夢と現実の境が崩れ、どちらで息子に会ったのかわからない。


 夜になると、

 襖越しに聞こえた嗚咽が、

 何度でも蘇る。


「……ここにいたのに」


 あの日の距離は、わずか一枚の襖だった。

 それなのに、その一枚が越えられなかった。



 病院に行くと、精神科医が丁寧に言った。


「急性ストレス反応です。

 悪夢、フラッシュバック、眠れない、食べられない……

 すべて自然なことです」


 自然。

 この痛みが、自然。


「ご自身を責めるのは、もっと先にしていい」


 もっと先?

 今、責めないでどうする。

 息子は死んだのだから。


 亮介は、うなだれた視線の中で、

 医師の言葉だけが静かに沈んでいくのを感じた。



 帰りのバスで、

 亮介はスマホを開いた。

 通知は山積みだが、息子からのものはない。


 息子のスマホは、まだロックされたままだ。


 解除できない画面を思い出すたび、

 息子の心に触れることを拒まれたような感覚に襲われる。


 その苦痛に、言葉は追いつかない。



 大学の研究室から連絡が入ったのは、夕方だった。


「佐伯悠人さんの、ご研究の件で……。

 少しお話できればと」


 亮介は翌日、大学を訪れた。


 研究棟の廊下には、学生たちの笑い声が満ちていた。

 誰も、息子の死を知らない。

 その無邪気さがまぶしいほど、

 亮介の世界は暗かった。


「……失礼します」


 白衣の教授が迎えた。

 黒縁の眼鏡の奥に、慎重な哀しみが見える。


「息子さんは、才能がありました。

 あのアルゴリズムは、誰も真似できません」


「……そうですか」


 誇りより先に、涙が滲む。


「ただ……最近は少し……

 睡眠不足と、焦燥が目立っていました」


「焦燥……」


 亮介の胸がつかまれる。


「彼は、未来を速く見すぎてしまうタイプなんです。

 それは長所であり、時に危険でもある」


「危険……」


「未来を信じられなくなったとき、

 彼は、自分自身を見失う」


 その言葉は、

 亮介の内側の深い痛みに、静かに触れた。


「どうして……私が気付けなかったんでしょうか」


 教授は、少し間を置き、

 息子の机の引き出しを開けた。


 中には、研究ノートが丁寧に重なっている。


「……これを」


 悠人の字。

 速く、斜めで、でも理路整然とした文字。


 ページをめくると、

 “完成の図”が描かれていた。


 その先のページが破られている。


「事故ですか?」

「わかりません。

 ただ……破った跡は、落ち着いた動作のようにも見えます」


「落ち着いた?」


「はい。

 衝動的というよりは、

 “見せたくなかった”痕跡のような」


 亮介の手が止まる。

 口が乾く。


 ——息子は、何を隠したかった?



 帰宅後、亮介は息子の机の前に座った。

 一冊のノートをそっと置く。


「悠人……」


 声に出して呼んでみる。


 返事がないことはわかっているのに、

 その沈黙が、胸の奥で音を立てて割れた。


 視界が滲む。

 涙が机に落ち、静かに染みていく。



 夜。

 亮介はようやく少し眠れた。

 しかし、眠りの中は残酷だった。


——助けて


 声は昨日と変わらず幼い。

 小学生の頃の悠人の声だ。


 水泳の大会で、

 スタート台の上から父を見つけて手を振った、

 あの時の声。


 夢の中で、亮介は走る。

 息子に向かって走る。

 しかし距離が縮まらない。


 無数の襖が立ちはだかり、

 開けようとした瞬間、

 その向こうが深淵に変わる。


 そこで、目が覚めた。


 心臓が、ひどく速い。


「間に合わなかった……」


 その言葉だけが、はっきり口をついて出た。



 キッチンに立つと、

 さつきが冷めた味噌汁を見つめていた。


「全部、終わったのよね……」


「終わってない」


 声が震える。


「俺は……知りたい。

 なぜあの夜、あんなにも静かだったのか。

 なぜ、最後に助けを求めなかったのか」


「亮介さん……」


 父の言葉は、弱さでもある。

 強さでもある。


「スマホ……

 解析してもらえないかな」


 さつきが顔を上げる。


「解析……?」


「中に、答えがある気がする。

 何かが隠れている」


 その声は、まだ細い。

 今にも折れそうな枝のよう。

 でも、確かに支えようと伸びている。


「息子の心は、まだどこかにある」


 父はそう信じようとしていた。


 それは、

 自分を救うための言い訳でもあり、

 息子を救うための願いでもある。


第4章 完

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