■第4章:父の心理破綻
窓の外で、春の雨が静かに降っている。
雲は低く、時間の輪郭を曖昧にしていた。
亮介は、ソファにもたれたまま、
ただ天井を見つめていた。
天井は変わらない。
息子の死が、この家の空気を塗り替えてしまっても。
葬儀から三日。
眠っていないようで、眠っている。
夢と現実の境が崩れ、どちらで息子に会ったのかわからない。
夜になると、
襖越しに聞こえた嗚咽が、
何度でも蘇る。
「……ここにいたのに」
あの日の距離は、わずか一枚の襖だった。
それなのに、その一枚が越えられなかった。
◆
病院に行くと、精神科医が丁寧に言った。
「急性ストレス反応です。
悪夢、フラッシュバック、眠れない、食べられない……
すべて自然なことです」
自然。
この痛みが、自然。
「ご自身を責めるのは、もっと先にしていい」
もっと先?
今、責めないでどうする。
息子は死んだのだから。
亮介は、うなだれた視線の中で、
医師の言葉だけが静かに沈んでいくのを感じた。
◆
帰りのバスで、
亮介はスマホを開いた。
通知は山積みだが、息子からのものはない。
息子のスマホは、まだロックされたままだ。
解除できない画面を思い出すたび、
息子の心に触れることを拒まれたような感覚に襲われる。
その苦痛に、言葉は追いつかない。
◆
大学の研究室から連絡が入ったのは、夕方だった。
「佐伯悠人さんの、ご研究の件で……。
少しお話できればと」
亮介は翌日、大学を訪れた。
研究棟の廊下には、学生たちの笑い声が満ちていた。
誰も、息子の死を知らない。
その無邪気さがまぶしいほど、
亮介の世界は暗かった。
「……失礼します」
白衣の教授が迎えた。
黒縁の眼鏡の奥に、慎重な哀しみが見える。
「息子さんは、才能がありました。
あのアルゴリズムは、誰も真似できません」
「……そうですか」
誇りより先に、涙が滲む。
「ただ……最近は少し……
睡眠不足と、焦燥が目立っていました」
「焦燥……」
亮介の胸がつかまれる。
「彼は、未来を速く見すぎてしまうタイプなんです。
それは長所であり、時に危険でもある」
「危険……」
「未来を信じられなくなったとき、
彼は、自分自身を見失う」
その言葉は、
亮介の内側の深い痛みに、静かに触れた。
「どうして……私が気付けなかったんでしょうか」
教授は、少し間を置き、
息子の机の引き出しを開けた。
中には、研究ノートが丁寧に重なっている。
「……これを」
悠人の字。
速く、斜めで、でも理路整然とした文字。
ページをめくると、
“完成の図”が描かれていた。
その先のページが破られている。
「事故ですか?」
「わかりません。
ただ……破った跡は、落ち着いた動作のようにも見えます」
「落ち着いた?」
「はい。
衝動的というよりは、
“見せたくなかった”痕跡のような」
亮介の手が止まる。
口が乾く。
——息子は、何を隠したかった?
◆
帰宅後、亮介は息子の机の前に座った。
一冊のノートをそっと置く。
「悠人……」
声に出して呼んでみる。
返事がないことはわかっているのに、
その沈黙が、胸の奥で音を立てて割れた。
視界が滲む。
涙が机に落ち、静かに染みていく。
◆
夜。
亮介はようやく少し眠れた。
しかし、眠りの中は残酷だった。
——助けて
声は昨日と変わらず幼い。
小学生の頃の悠人の声だ。
水泳の大会で、
スタート台の上から父を見つけて手を振った、
あの時の声。
夢の中で、亮介は走る。
息子に向かって走る。
しかし距離が縮まらない。
無数の襖が立ちはだかり、
開けようとした瞬間、
その向こうが深淵に変わる。
そこで、目が覚めた。
心臓が、ひどく速い。
「間に合わなかった……」
その言葉だけが、はっきり口をついて出た。
◆
キッチンに立つと、
さつきが冷めた味噌汁を見つめていた。
「全部、終わったのよね……」
「終わってない」
声が震える。
「俺は……知りたい。
なぜあの夜、あんなにも静かだったのか。
なぜ、最後に助けを求めなかったのか」
「亮介さん……」
父の言葉は、弱さでもある。
強さでもある。
「スマホ……
解析してもらえないかな」
さつきが顔を上げる。
「解析……?」
「中に、答えがある気がする。
何かが隠れている」
その声は、まだ細い。
今にも折れそうな枝のよう。
でも、確かに支えようと伸びている。
「息子の心は、まだどこかにある」
父はそう信じようとしていた。
それは、
自分を救うための言い訳でもあり、
息子を救うための願いでもある。
第4章 完




