◆ 第10章:深海の呼吸 —《喪失》
——いなくなった人の形で、世界は歪む
1 ◇ 病室の静寂
遼がいた部屋には
シーツしか残らなかった。
機械の音が止まり、
壁の時計の針だけが動いている。
時間は続くのに、
遼の時間だけが終わっている。
それが何よりの暴力だった。
2 ◇ みさき
大学の講義室。
遼の席は空いたまま。
みさきは
スマホのメモに残った未送信の文字列を見る。
《苦しい》
《助けて》
届かなかった声。
拾えなかった救い。
返事をしなかった夜が
世界でいちばん残酷になった。
みさきは
自分の呼吸音が大きすぎると感じた。
生きている証が苦しい。
3 ◇ 海斗
帰り道。
海斗はいつも通り
自販機で缶コーヒーを買った。
隣に差し出す相手がいないまま。
(俺が、もっと強引に引き戻してれば)
怒りも悲しみも
行き場がない。
握った缶が
音を立てて潰れた。
「遼、怒ってくれよ
俺を叱ってくれよ
そうじゃなきゃダメだろ……」
声にならない叫びが
夜に滲む。
4 ◇ 母
台所のイスに沈み込む。
冷蔵庫には
遼の好きだったプリンが残ったまま。
「遼……ごめんね……」
謝罪は誰にも届かない。
でも言わずにはいられない。
あの日
「大丈夫」と言った遼を
信じてしまった自分を
許せない。
生きることすら責め続ける日々。
愛が形を失っても
痛みは消えない。
5 ◇ 大学/社会
遼の名前に
出席簿で一本線が引かれた。
教授は少し黙り、
いつも通り講義を再開する。
世界は回る。
一人の命が消えても。
何も変わらない顔をして。
それが
いちばん冷たい現実。
6 ◇ 青いリストバンド
みさきは海の近くに立つ。
手に握った青いリストバンド。
遼が好きだった、深海の色。
波音だけが耳に残る。
「遼くん……
答えてよ……」
風が泣き声を攫い、
海が呑み込む。
愛は消えない。
でも、抱きしめる相手がいない。
それが喪失だ。
みさきは
リストバンドを落とさず
強く握り締めた。
まだ、手放せない。
手放したら、本当に終わるから。
7 ◇ ラスト
夜。
路上の街灯が
少し青く滲む。
遼がいないこの世界は
やけに広くて
どこにも行き場がなかった。
それでも
誰かの中には
遼がいる。
それが
彼が残していった
最後の形。
遼の物語はここで終わった。
生きていた証だけが、今も痛い。




