第2章 光の錯視
——触れたら、きっと暖かい
1
遼は朝、鏡の前で髪を整えた。
いつもより少しだけ丁寧に。
湿った前髪を指で梳き、
ワックスを控えめに馴染ませる。
鏡に映る顔が
昨日より「まし」に見えた。
(……まあ、悪くない)
声に出すほど自信はない。
でも、会いたい顔がある。
2
講義室へ向かう廊下で、
みさきは先に気づいて手を振った。
「安藤くん!今日、髪、いい感じ」
「え、あ……う、うん」
不器用な返事に
みさきはクスッと微笑む。
「ちゃんと、見てるからね」
その言葉が、
胸のどこかを優しく押した。
もっと話したい。
その思いは、深海の底にも届く光。
3
昼休み。
学食の窓際の席。
みさきが、トレイを持って隣に座った。
「ここ、座っていい?」
断る理由なんてない。
むしろ、隣が空いていたことに
少し胸を撫で下ろす。
「唐揚げ派なんだね」
「うん。好き。
……って、なんか子供っぽい」
「いいじゃん。美味しいのが一番」
みさきはそう言って
自分のハンバーグを半分に切る。
「味、交換しない?」
その自然さが、
遼の心を緩ませていく。
他愛のない会話が
こんなに甘く響く日がくるなんて。
4
大学の前のバス停。
みさきはバスを待つ遼に
ポケットから小さなものを取り出す。
手首につけていた
青いリストバンド。
「これ、誕生日おそくなっちゃったけど」
「え……どうして?」
「安藤くんって青が似合うから。
それに、ほら。
深海魚の色って、青が多いじゃん?」
遼は受け取りながら、
言葉が喉に詰まった。
「ありがとう。大事にする」
心臓の奥が、熱くなる。
青い光が、
暗い海の中で浮かび上がっていく。
5
夜。
遼は手首のバンドを見つめた。
柔らかいシリコン。
少し大きいけれど、
軽さが心地いい。
「似合うかもな」
自分に言い聞かせるような声。
照明の白い光が
手首に落ちて、反射する。
スマホが震えた。
メッセージ。
《今日、楽しかったね。また明日》
指先が震えた。
(また、会いたい)
その願いが
初めて自然に生まれた。
6
ベッドに潜り込み、
目を閉じる。
胸の穴は、
今日はほとんど気にならなかった。
みさきの言葉が
何度も反芻する。
「ちゃんと、見てるからね」
その一言が、
遼の世界を一日だけ
生き延びさせてくれた。
光がある。
明日を待ちたくなる光。
でも、それが
錯視だと気づくのは
まだずっと先のこと。
第2章「光の錯視」完




