◆ 第3章:心の摩耗
——幸せなのに、息が苦しい
1
六月。
梅雨の湿気がキャンパスを包む。
みさきが傘を差し出す。
「一緒に入る?」
「……いいの?」
「いいの。むしろ、入ってほしい」
肩が触れた。
雨音が、少し遠くなる。
(近い)
それだけで胸が跳ねる。
それが
悪いことの始まりだとも知らずに。
2
講義中、遼は気づく。
みさきが自分を見て笑うと、
集中が途切れてしまうことに。
(あ、また板書追い付かない)
ページをめくる手が遅れる。
視線を戻したときには、
もう次の式に進んでいた。
海斗が横目で囁く。
「お前、最近ふわふわしてね?」
「そうかな」
「……悪くないけどさ。
ただ、お前らしさは消えてきてる」
(お前らしさって、何だ?)
答えは見つからない。
3
昼休み。
みさきが笑って言う。
「安藤くん、私といると楽しそう」
「うん、楽しいよ」
それは本当だ。
でも——
(楽しそうに“見せないと”)
そう無意識に思ってしまう自分が
怖かった。
胸の穴が
小さな歪みをつくる。
笑顔の裏で、
何かが摩耗していく。
4
夜。
課題が終わらない。
(どうして?
前はもっとできたのに)
みさきとの時間を
優先してしまった日。
本当は
少しでも休みたかった。
でも、
みさきの笑顔を失うことが
何より怖い。
スマホが震える。
《明日、水族館いかない?》
本当は
断りたかった。
疲れていた。
でも指は、勝手に動く。
《行きたい!》
瞬間、
罪悪感が胸を刺す。
(学業がまた崩れる……
でも、みさきといたい……)
光は確かにある。
けれど、
それを掴む腕が
少しずつ痺れていく。
5
深夜。
デスクライトの下、
教科書を見つめ続ける。
(わからない)
ページがぼやける。
瞼が重い。
でも、やめられない。
「遼、もう寝なさい」
スマホ越しの母の声。
優しいはずなのに
責められている気がした。
「大丈夫」
短い言葉で会話が終わる。
通話後の静けさが
遼の背中を冷やす。
優しささえ、負担になる。
そんな自分が
一番嫌いだった。
6
布団に潜り、
手首の青いバンドを見る。
今日は
可愛い光には見えなかった。
沈んでいく色。
深海の色。
(僕は変わってる?
みっともない?
嫌われる?)
思考が勝手に
増殖していく。
恋をすると、
人は強くなると聞いた。
でも今の遼は、
細くなっていく糸を
必死で握りしめているだけだった。
明日も会いたい。
でも、
明日が怖い。
第3章「心の摩耗」完




