表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
未来の速度で  作者: 未世遙輝
エピソード1
10/31

■第10章:復元—「消えた声が示したもの」




 夜明けの気配は、いつもより遅れて訪れた。

 団地の窓に薄い灰色が流れ込むその前に、亮介は既に目を開けていた。


 寝室の隅で、さつきは背を向けたまま丸くなっている。

 布団の形が小さく見えた。


「さつき」


 そっと呼ぶと、微かな肩の震えが返ってきた。

 しかし、それ以上は何もない。


 亮介は、そっと扉を閉め、キッチンへ向かった。


 味噌汁を温め直しながら、

 携帯に目を落とすと、白石からの未読メッセージがあった。


“help_02 ほぼ復元。

聞く準備ができたら教えてください”


 父は深く呼吸を整えた。


聞く準備。


 その言葉が、胸の奥で重く響いた。



朝食をテーブルに置くと、

さつきはやっと体を起こした。

しかし椅子には座らず、立ったままだった。


「味……しないかもしれないけど」


「……ありがとう」


 か細い声。

 わずかな礼。

 その両方が、消え入りそうだった。


 亮介は大学へ向かう支度をしながら、

 靴擦れのように痛む言葉を飲み込んだ。


「すぐ戻る。

 お昼には帰るから」


「行けばいいじゃない」


「さつき……」


「行けば?」


 まなざしは、

 悲しみで濁りながら、鋭く尖っていた。


 亮介は、それ以上言えなかった。



 研究室の空気は明るい蛍光灯に満ちている。

 それなのに、その光がいつもより冷たかった。


「お父さん……これが今の進捗です」


 白石がPCを指差した。


 画面には、息子の脳波データと、

 解析途中の音声波形が並ぶ。


「再生しますか?」


 問いかけは穏やかだった。

 だが、その穏やかさが余計に心を締めつける。


「……すまない。もう少し……時間をくれないか」


「もちろん」


 白石は、理解したように一度だけ強く頷いた。



 父は研究ノートを手に、廊下の窓際へ移動した。


 春の陽光は外を明るくしている。

 人々は動いている。

 未来へ進んでいる。


 なのに、自分の時間は止まっている。

 止まったまま、息子の痕跡だけを手繰っている。


 ノートの端にある息子の走り書き。


「未来の速度が、人に合えばいい」


 この一行が、

 一度失われた息を、ゆっくりと呼び戻していく。


「……お前は諦めなかったんだな」


 その言葉を、

 誰に向けて発したのか分からない。



 そのとき、スマホが震えた。


さつきからのメッセージ。


「不安。

早く帰ってきて」


 文字が、震えを持って届いたように見えた。


 胸の奥に冷たい指が触れる。


「白石、今日は戻る。また連絡する」


「お母さん……ですか?」


「ああ……」


「行ってください。

 ご家族が最優先です」


 白石の表情は、とても静かだった。



 家に戻ると、

 玄関が半開きになっていた。


「……さつき?」


 呼んでも返事がない。

 キッチンにも、リビングにも姿がない。


 洗面所で、水の音がする。

 扉を開けると——

 浴槽の中に、さつきが服を着たまま、膝を抱えて座っていた。


 ぬるい水が、ゆっくりと彼女を沈めていく。


「さつきっ!!」


 亮介は迷いなく駆け寄って抱き起こした。


「触らないで……」

「触る。絶対に」


「放っておいて……」

「放っておけるわけないだろ」


 さつきは、父の胸を弱く叩いた。


「ごめんね……

 どうしていいか分からなくて……」


 その声は、

 もう限界の音だった。


「分からなくていい。

 生きていてくれれば……それでいい」


 浴槽から出て、バスタオルで包む。

 彼女の体は、氷のようだった。



 リビングに戻り、

 彼女をソファに座らせ、毛布をかける。


「一度、病院に——」


「やだ」


 即答だった。


「薬飲んだらね……

 息子のこと、忘れちゃいそうで怖いの」


 その恐怖は、余りにも正しい。

 だからこそ、残酷だった。


「忘れない。

 薬を飲んでも、忘れない。

 俺たちが忘れない限り、悠人は生きてる」


「ほんとに……?」


「ほんとだ」


 その言葉には、

 父の祈りがすべて含まれていた。



 さつきが眠りにつくと、

 亮介は机に向かった。


 スマホをUSBケーブルで繋ぐ。

 画面には解析ソフトが開かれている。


 白石からのメッセージが再び届いていた。


「help_02 95%復元

help_03 一部復元

聞くなら、今です」


 亮介は一度だけ深呼吸をした。

 胸が痛いほど膨らむ。


聞いたら、戻れない。


 その理解を抱えたまま、

 再生ボタンを押した。



 ——深い呼吸。


「……父さん。

 今度は、ちゃんと聞いてね」


 息子の声だ。

 誰がなんと言おうと、息子の声。


「俺……生きたかった。

 ちゃんと、未来に行きたかった。

 だから、この研究……

 止めたくなかった」


 喉の奥で言葉が絡まり、

 それでも必死に続けようとする声。


「でも……

 追いつけなかった」


 数秒の無音。

 そして。


「父さん。

 ありがとう。

 生まれてきてよかったって……

 思わせてくれたから」


 音声はそこで途切れた。

 しかし、心には続きが聞こえる気がした。


「大好きだよ、父さん」


 亮介は息を押し殺した。

 涙が頬を伝い、落ちた。


「……生きたかったんだな」


 父の声は震えていた。

 震えながらも、確かだった。


「お前は、自分を捨てたんじゃない。

 未来を……信じてたんだな」


 その理解が、

 父の胸の底で静かに灯った光を

 少しだけ強くした。



 再生ウィンドウに、新しい通知が入る。


「help_03 一部再生可能」


 亮介はそっと手を伸ばした。

 だが、再生は押さなかった。


「今日はここまでにしよう」


 それは逃避ではなかった。

 守るための選択だった。


 リビングのソファで眠る妻の側へ戻る。

 彼女の呼吸が、

 今は何よりの証だった。


「救わなきゃいけない未来は……

 ふたつあるんだな」


 息子と——

 妻の未来。



 団地の窓の外に、

 夜がゆっくり明けていく。


 今日も、時間は進む。

 未来は進む。


 亮介は静かに呟く。


「俺が……速度を合わせる」


 それは、父の生き直しの宣言だった。


第10章 完


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ