■第10章:復元—「消えた声が示したもの」
夜明けの気配は、いつもより遅れて訪れた。
団地の窓に薄い灰色が流れ込むその前に、亮介は既に目を開けていた。
寝室の隅で、さつきは背を向けたまま丸くなっている。
布団の形が小さく見えた。
「さつき」
そっと呼ぶと、微かな肩の震えが返ってきた。
しかし、それ以上は何もない。
亮介は、そっと扉を閉め、キッチンへ向かった。
味噌汁を温め直しながら、
携帯に目を落とすと、白石からの未読メッセージがあった。
“help_02 ほぼ復元。
聞く準備ができたら教えてください”
父は深く呼吸を整えた。
聞く準備。
その言葉が、胸の奥で重く響いた。
◆
朝食をテーブルに置くと、
さつきはやっと体を起こした。
しかし椅子には座らず、立ったままだった。
「味……しないかもしれないけど」
「……ありがとう」
か細い声。
わずかな礼。
その両方が、消え入りそうだった。
亮介は大学へ向かう支度をしながら、
靴擦れのように痛む言葉を飲み込んだ。
「すぐ戻る。
お昼には帰るから」
「行けばいいじゃない」
「さつき……」
「行けば?」
まなざしは、
悲しみで濁りながら、鋭く尖っていた。
亮介は、それ以上言えなかった。
◆
研究室の空気は明るい蛍光灯に満ちている。
それなのに、その光がいつもより冷たかった。
「お父さん……これが今の進捗です」
白石がPCを指差した。
画面には、息子の脳波データと、
解析途中の音声波形が並ぶ。
「再生しますか?」
問いかけは穏やかだった。
だが、その穏やかさが余計に心を締めつける。
「……すまない。もう少し……時間をくれないか」
「もちろん」
白石は、理解したように一度だけ強く頷いた。
◆
父は研究ノートを手に、廊下の窓際へ移動した。
春の陽光は外を明るくしている。
人々は動いている。
未来へ進んでいる。
なのに、自分の時間は止まっている。
止まったまま、息子の痕跡だけを手繰っている。
ノートの端にある息子の走り書き。
「未来の速度が、人に合えばいい」
この一行が、
一度失われた息を、ゆっくりと呼び戻していく。
「……お前は諦めなかったんだな」
その言葉を、
誰に向けて発したのか分からない。
◆
そのとき、スマホが震えた。
さつきからのメッセージ。
「不安。
早く帰ってきて」
文字が、震えを持って届いたように見えた。
胸の奥に冷たい指が触れる。
「白石、今日は戻る。また連絡する」
「お母さん……ですか?」
「ああ……」
「行ってください。
ご家族が最優先です」
白石の表情は、とても静かだった。
◆
家に戻ると、
玄関が半開きになっていた。
「……さつき?」
呼んでも返事がない。
キッチンにも、リビングにも姿がない。
洗面所で、水の音がする。
扉を開けると——
浴槽の中に、さつきが服を着たまま、膝を抱えて座っていた。
ぬるい水が、ゆっくりと彼女を沈めていく。
「さつきっ!!」
亮介は迷いなく駆け寄って抱き起こした。
「触らないで……」
「触る。絶対に」
「放っておいて……」
「放っておけるわけないだろ」
さつきは、父の胸を弱く叩いた。
「ごめんね……
どうしていいか分からなくて……」
その声は、
もう限界の音だった。
「分からなくていい。
生きていてくれれば……それでいい」
浴槽から出て、バスタオルで包む。
彼女の体は、氷のようだった。
◆
リビングに戻り、
彼女をソファに座らせ、毛布をかける。
「一度、病院に——」
「やだ」
即答だった。
「薬飲んだらね……
息子のこと、忘れちゃいそうで怖いの」
その恐怖は、余りにも正しい。
だからこそ、残酷だった。
「忘れない。
薬を飲んでも、忘れない。
俺たちが忘れない限り、悠人は生きてる」
「ほんとに……?」
「ほんとだ」
その言葉には、
父の祈りがすべて含まれていた。
◆
さつきが眠りにつくと、
亮介は机に向かった。
スマホをUSBケーブルで繋ぐ。
画面には解析ソフトが開かれている。
白石からのメッセージが再び届いていた。
「help_02 95%復元
help_03 一部復元
聞くなら、今です」
亮介は一度だけ深呼吸をした。
胸が痛いほど膨らむ。
聞いたら、戻れない。
その理解を抱えたまま、
再生ボタンを押した。
◆
——深い呼吸。
「……父さん。
今度は、ちゃんと聞いてね」
息子の声だ。
誰がなんと言おうと、息子の声。
「俺……生きたかった。
ちゃんと、未来に行きたかった。
だから、この研究……
止めたくなかった」
喉の奥で言葉が絡まり、
それでも必死に続けようとする声。
「でも……
追いつけなかった」
数秒の無音。
そして。
「父さん。
ありがとう。
生まれてきてよかったって……
思わせてくれたから」
音声はそこで途切れた。
しかし、心には続きが聞こえる気がした。
「大好きだよ、父さん」
亮介は息を押し殺した。
涙が頬を伝い、落ちた。
「……生きたかったんだな」
父の声は震えていた。
震えながらも、確かだった。
「お前は、自分を捨てたんじゃない。
未来を……信じてたんだな」
その理解が、
父の胸の底で静かに灯った光を
少しだけ強くした。
◆
再生ウィンドウに、新しい通知が入る。
「help_03 一部再生可能」
亮介はそっと手を伸ばした。
だが、再生は押さなかった。
「今日はここまでにしよう」
それは逃避ではなかった。
守るための選択だった。
リビングのソファで眠る妻の側へ戻る。
彼女の呼吸が、
今は何よりの証だった。
「救わなきゃいけない未来は……
ふたつあるんだな」
息子と——
妻の未来。
◆
団地の窓の外に、
夜がゆっくり明けていく。
今日も、時間は進む。
未来は進む。
亮介は静かに呟く。
「俺が……速度を合わせる」
それは、父の生き直しの宣言だった。
第10章 完




