第1章:Zoom面接 —「聞こえてはいけない声」
月曜の午後三時。
まだ冬の名残を引きずる風が、団地の古い窓枠を薄く震わせていた。
佐伯亮介は、在宅勤務の端末に向かい、総務から届いた最新データの入力作業に没頭していた。病院事務の仕事は、今日も定型と例外が同居する。傷病手当、マイナンバー、過去データの参照不具合。老朽化した院内システムは、彼の些細な凡ミスを容赦なくエラーで叱責する。
その背後。
薄い襖一枚隔てた息子・悠人の部屋から、かすかな声が漏れていた。
イヤホン越しに誰かとかすかな会話をしている。
就活だろうか? そう思いながらも、亮介は意識的に耳を塞ごうとした。
大人として、親として、踏み込んではいけない領域。
わかっているのに——拾ってしまう声がある。
「……その経歴で、なぜ出来ないんですか?」
怜悧で冷たい、面接官の声。
息子のZoom面接が、襖越しに生々しく響く。
「あの、僕は、少し物事を同時に捉えるのが苦手で……でも、工学系の研究は……」
「苦手を言い訳にしてるのでは?」
亮介の指先が、突然止まった。
打ち込んでいた数字が、画面上で点滅したまま動かなくなる。
襖の向こうで、沈黙が伸びる。
「御社の研究部門は、発想力を求めていると伺いました。僕は、完成形から逆算する思考が得意で……」
「他の学生も同じようなことを言っていますよ?
あなたに特徴はあるんですか?」
息子の声が震える。
聞いたことのないほどの緊張。
亮介は思わず椅子から腰を浮かせた。
襖の隙間に手を伸ばしかけて、しかし止めた。
助けに入っていい場面なのか、判断がつかなかった。
息子は二十歳。
大人の世界で試されている。
父の介入は、彼をさらに傷つけるだけかもしれない。
「君さ、話が冗長なんだよ。
質問に答えられないなら終わりにしましょう」
どこか鼻で笑うような気配。
その刹那——
「あの……すみません……」
小さく掠れた謝罪。
普段は滅多に見せない、弱い表情の声。
亮介は、胸の奥がざらついた。
誰に、何に謝っている?
——今、助けてやりたい。
だが、父としてすべきは、黙って見守ることだ。
そう自分に言い聞かせる。
震える膝を押さえながら。
「もういいです。本件は不採用。以上です」
硬質なクリック音。
それで全てが切断された。
しばらくして、椅子のきしむ音と、深く息を吐く気配。
悠人は誰にも聞こえない空気に向かって、かすかに呟いた。
「……がんばった、よね……俺」
亮介は、胸が締めつけられるのを感じた。
その言葉は、どこか自己肯定の断片でありながら、
同時に、自分以外の誰からも承認されていない苦痛の証。
何かを言わなければ。
声をかけなければ。
父の出番なのではないか——?
だが、襖一枚の距離が、なぜか永遠より遠かった。
亮介は、息子が気丈に笑おうとする姿を想像した。
そして気づく。
——最近の悠人の笑顔は、どこか“作り物”じみていた。
夕食の席でも、彼はスマホを見つめ続けていた。
質問しても、返事は「うん」「別に」「あとで」。
会話は、途切れた電線のように噛み合わない。
その違和感は、確かにここ数ヶ月で強まっていたのに。
なぜ、もっと早く気付けなかった?
なぜ、「大丈夫?」の一言を言わなかった?
誰に言えなかったSOSを、父が拾わなかった?
そんな自責が、急速に胸に流れ込んでくる。
ふと、襖越しに、息子のつぶやきが漏れた。
「……なんで俺は、普通じゃないんだろう」
その言葉は、刃物のように鋭く静かだった。
亮介は、襖に手を置いた。
喉まで込み上げる言葉を、必死に飲み込む。
「普通って、なんだ……悠人」
だが、その声は、誰にも届かない。
自分に向けた問いでしかなかった。
息子の部屋から、椅子を回す音が聞こえる。
次いで、ゲームの起動音。
気持ちを紛らわせるように、イヤホンで音を塞いでいる。
耳を塞ぐ行為は、誰かに助けを求める最終段階だと、
父はまだ知らない。
◆
夕食の時間。
テーブルには、母親・さつきの作った唐揚げが並んでいる。
「今日の面接、どうだった?」
さつきは、あえて何でもない話題のように投げかける。
「ん、まあ……」
「……そう」
二言で会話は終了。
皿に添えられたレモンの香りだけが、むなしく漂っていた。
「ちゃんと食べなきゃ、体もたないよ?」
「大丈夫。食べるから」
母の心配を拒絶するのではなく、
ギリギリでつなぎ留めようとしている口調。
その繊細なサインに、亮介は気づけなかった。
「就活、焦らなくていいのよ」
「焦ってないし」
「そ、そうよね……」
親の言葉は、全て地雷に変わる。
誤解、すれ違い、傷つく未来しか見えない対話。
亮介は、沈黙の中で箸を動かすふりをしながら、
息子の視線の泳ぐ速さに怯えていた。
——まるで未来から逃れるように。
「ごちそうさま」
唐揚げを二つだけ残し、息子は席を立つ。
部屋に戻り、ドアの閉じる音が響く。
食卓に残されたのは、
レモンの酸味と、両親の鈍い不安。
◆
夜。
3LDKの狭い空間に、三人の気配が分断されて漂う。
ベランダに出た亮介は、団地の夜景を見下ろした。
遠くに、大学の研究棟の明かりが見える。
息子は、その場所で何を見てきたのか。
どんな未来を描いていたのか。
どうして今、こんなに苦しんでいるのか。
冷えた風が肌を切る。
ふと、背後の息子の部屋から——
かすかな嗚咽。
亮介は凍りついた。
いや、聞いてしまった。
だが足は、一歩も動かなかった。
——隣に行け。
——声をかけろ。
——その涙を止めてやれ。
理性は叫び続けている。
なのに、恐怖が体を縛り付ける。
何か言って、否定されたらどうする?
嫌われたらどうする?
父親として最低だと自覚した瞬間、崩れてしまう。
結局、彼は何もできなかった。
息子が一人で泣く夜を、黙って見過ごした。
団地の影に沈む星のない空が、
途切れた未来の暗闇を静かに広げていた。




