59 氷の魔術師が泣いた
白菜を見つめたまま、私は続けた。
「前世の自分も、今の自分も、捨てたもんじゃないって思えた」
声が小さくなった。でも、止まらなかった。
「あんたが来てくれなかったら、私はまだ自分を嫌いなままだった。前世で処刑されたことも、今生でブラック企業に潰されたことも、全部自分がダメだからだって思ってた。でも、あんたがバカみたいに命削って私を守ろうとしてくれたから……」
涙がこぼれた。
また泣いてる。最近泣きすぎだ。二十八歳の限界OLの涙腺は壊れやすい。
「だから」
顔を上げた。
エリオットの蒼い目を、正面から見た。
鍋の湯気がゆらゆら揺れている。
「ありがとう」
§ § §
エリオットが、動かなかった。
蒼い目が、大きく見開かれたまま、凍りついていた。
ポーカーフェイスの向こう側で、何かが壊れた音がした。比喩ではなく、本当にそう聞こえた。
「……」
声が出ない。
途方もない時を生きた大魔法使いが、五文字の日本語を処理できずにフリーズしている。
「エリオット? ちょっと、大丈夫?」
「……」
蒼い目から、水滴が落ちた。
一粒。
鍋の湯気に紛れるような、ほんのわずかな涙。
だが、エリオットにとって、それは「初めて」だった。
「あ…………」
自分でも驚いた顔をしていた。手を頬に当てて、濡れた指先を見つめている。
「私は……今、泣いているのか?」
「泣いてるね」
「なぜだ」
「なぜって……」
私は、思わず笑ってしまった。泣きながら。
「あんた、永い間生きてきて、誰かに『ありがとう』って言われたことないの?」
エリオットの目が、一瞬だけ揺らいだ。
「……ない」
その一言が、全てを語っていた。
魔法使いは「化け物」だった。
幼い頃から、そう呼ばれ続けた。村の子供たちは石を投げた。王宮の魔術師たちは嫌悪感を隠しもしなかった。国王は「便利な道具」としてだけ働かせた。
誰もが、エリオットの力を欲しがった。でも、エリオット自身を必要とした人間は、一人もいなかった。
唯一。たった一人だけ。
金髪碧眼の令嬢が、初めて会った日に言った。
「あなた、食事は? 一人で食べているのでしょう」
それだけだった。「化け物」でも「道具」でもなく、「一人でご飯を食べている人」として見てくれたのは、彼女だけだった。
その令嬢ですら、感謝の言葉を伝える前に処刑台に送られた。
そしてこの現代で。
あの日の令嬢が、限界OLの姿で、鍋を囲みながら――初めて「ありがとう」と言ってくれた。
永い永い孤独の果てに届いた、たった五文字。
「私の方こそ……」
エリオットの声が、完全に壊れていた。氷のポーカーフェイスが溶け落ちて、その下から現れたのは、ただの不器用な男の顔だった。
「ずっと、謝りたかった」
「何を?」
「あの日。君を……処刑した日のことを」
エリオットの喉が、一瞬だけ灼けるように痛んだ。神の呪縛だ。真相を語ろうとすると、声帯が焼かれる。
だが、白峰が捕まったことで呪縛が弱まっている。完全に語ることはできないが、断片なら。
「あの日、私は……君を守ろうとして……でも、そのために……」
言葉が途切れた。喉を押さえる。痛みに耐えている。
「いい。いいよ、無理しないで」
私が手を伸ばし、エリオットの手に自分の手を重ねた。
冷たかった。
この男の手は、いつも少しだけ冷たい。魔力が足りないからだ。毎日命を削っているからだ。
その冷たさを、私の手で温めようと思った。無意識に、両手で包み込んでいた。
エリオットの手が、微かに震えた。
そして、震えながら、握り返してきた。
壊れ物に触れるように、そっと。でも、二度と離さないとでも言うように、確かに。
「今は聞かない。でも、いつか全部聞かせて。あんたの口から、全部」
エリオットが、私の手を握り返した。さっきより、少しだけ強く。
六畳一間の鍋の前で、永い時を越えた感謝と謝罪が、不完全なまま交わされた。
でも、繋いだ手だけは、完全だった。
鍋がぐつぐつ言っている。
るんすけが台所の隅で静かに充電している。
「……うどん、入れていい?」
「……入れてくれ」
手を離した。離したくなかったけど、うどんは両手が必要だ。
「泣きながら食べるうどん、美味しいかな」
「わからない。初めてだ」
「私もだよ」
うどんをすすりながら、まだ涙は止まらない。ぐすぐすと泣きながら食べる私と、静かに涙を流しながら食べるエリオット。絵面としては最悪だ。六畳一間で、大の大人が二人、鍋の前で泣きながらうどんをすすっている。
おかしくて、笑ってしまった。
「ぷっ……ははは」
「……なぜ笑う」
「だって、あんた、万能の大魔法使いのくせに、うどんのすすり方下手すぎでしょ」
エリオットの箸の持ち方が、まだちょっとぎこちないのだ。うどんをつかもうとして、滑らせて、つゆが飛ぶ。
「……この食器は、不合理だ」
「貸して」
エリオットのお椀からうどんをつまんで、自分の碗に移した。そして、ちゃんと箸で持ち上げて、彼の口元に運んだ。
――やってから、「何してるの私」と思った。
エリオットが、固まった。
数秒後、静かに口を開けて、うどんを受け取った。
「……美味しい」
その声が、今日一番柔らかかった。
私の頬は、「ありがとう」の涙で、ぐしゃぐしゃだった。
うどんは、美味しかった。




