初期の結論 ― システムの敵は“悪の消失”
魔法学主任ハーミスは控室のソファに沈み込んでいた。
カップの縁に残った紅茶の跡が、わずかな震動を物語る。
夜明け前の静けさのように、校舎は穏やかだった。
穏やかすぎて、息が詰まる。
彼は窓の外を見た。
校庭の芝は濡れた絨毯のように均一で、欠損は一切ない。
病葉も虫食いも枯れ枝も、存在しない。
世界は修復され続けている。
耐えきれず、ハーミスは独り言のように口を開いた。
「……悪が消えることは、システムにとっての悪だ」
自分自身の声が、誰かの呪文に思えた。
それほどまでに今の校舎は健全で、不吉だった。
机上の書類に目を落とす。
成績の偏差幅は縮小。
欠席は激減。
問題行動ゼロ件。
数値はすべて正しい。
だからこそ、恐ろしい。
競争がない。
だから向上心が死ぬ。
痛みがない。
だから回復の概念が消える。
失敗がない。
だから成長の物語が破壊される。
ハーミスは、教鞭に立つ者として知っていた。
人は怪我を理由に努力できる。
失敗を理由に立ち直れる。
恥を理由に顔を上げられる。
そのすべてが、傷を前提とした営みだ。
だが――
幸福は、言い訳を奪う。
努力する必要もなく、
動機を生む痛みもなく、
逃げる理由さえ与えられない。
理由を奪われた者は、ただ漂う。
漂い続け、腐敗も崩壊も起こさない。
行動しないから破滅もしない。
それが最悪だ。
停滞はゆっくりと血流を止める毒だ。
本人は体温の低下に気づかない。
周囲は笑顔で温室を讃え続ける。
だから、気付きはいつも最後になる。
ハーミスは額を押さえた。
この学園はもう壊れている。
壊れていない顔をして、壊れている。
幸福という名の腐海は、
今日も静かに広がっていた。




