ユーフェミアの出現 ― トリガー崩壊
足音は、まるで水面に落ちる羽の音だった。
規則正しく、しかし主張を持たない。
ユーフェミア・アルステラは、角を曲がって現れた。
しなやかな歩幅で、制服の裾がわずかに揺れる。
その一切に、敵意も悪意も――物語で聞いていた“劇性”すら欠けていた。
彼女は立ち止まり、ただ観察した。
質問もためらいもなく、結論だけが瞬時に形成される。
「顔色が優れないわね。授業は後でいいわ。まず横になりましょう?」
その声音は柔らかく、騙しも芝居も含まない。
校医室の看護師か、寮の年長生のような物腰だった。
反射的に、エリーは身を引いた。
背中が石壁にぶつかり、心臓が跳ねる。
(来ないで……来ないで。あなたは私を追い詰める役のはずなのに)
本来なら――ここは開幕の地獄だ。
ユーフェミアは取り巻きを連れ、弱者を嘲笑する。
その圧力に押し潰され、王子の救済が輝く舞台が完成する。
その「ゲーム知識」は、この世界における唯一の羅針盤だった。
だから、目の前の少女の微笑みは致命的なノイズだった。
ユーフェミアは、距離を詰めない。
腕を掴むこともなく、力を込めてもこない。
ただ、生徒を守る教師のような声色で言葉を継ぐ。
「歩くのが辛いなら、手を貸すわ。声を出すのも大変でしょうから、黙って頷くだけでいいの。」
“指示”ではない。“命令”でもない。
拒否の余白だけを丁寧に残した誘導。
それは、悪役の姿とは似ても似つかない。
奪うのではなく支える。
脅すのではなく包む。
恐怖ではなく安堵を植え付ける。
なのに、エリーの胸は締め付けられた。
(やめて……そんなふうに優しくされたら……私はどこにも逃げられない)
期待した悪意が見つからない。
役割が発火しない。
被害者として燃え上がるはずの心が、ただ沈黙する。
毒は常に痛みを伴うとは限らない。
甘い香りで肺を満たし、抵抗力を溶かす毒だってある。
そして今、ユーフェミアの手の届く範囲は――
エリーの「ゲーム的な未来」を、静かに解体し始めていた。




