観察者:ハーミスの不安
◆「観察者:ハーミスの不安」
温室は、朝露で濡れた庭園のような匂いを放っていた。
薬草の葉が擦れ合う音が、囁き声のように微かに響く。
魔法学主任ハーミスは、計測機を抱えて温室の中心へ足を踏み入れた。
針が跳ね上がる。
彼は眉を寄せ、指で魔力濃度計を二度叩く。
――変わらない。
液晶には、動かぬ数字が冷ややかに刻まれていた。
自然魔力濃度:36%上昇
周囲で風が吹いたわけでも、魔術師が儀式を行ったわけでもない。
ただ植物が繁茂し、葉を震わせ、根が土を吸っているだけ。
それなのに、この値は戦闘訓練場や傷病者回復施設、あるいは禁忌級の魔力集中地帯でしか観測されないものだった。
「……植物が“魔法陣”の役割を果たしている」
自分の声が、温室の湿気に吸い込まれていく。
ハーミスは立ち尽くした。
魔法陣には始点と終点がある。設計者がいる。
術式構造、焦点、意図――いずれかが存在する。
だがここには、どれもない。
「ただし――誰もそれを描いていない」
目の前の薬草は、まるで意思を持つかのように正しい角度で葉を開き、最適な栄養を吸収し、弱い個体を生まず、強い個体を育て続けた。
“偶然”が常態化したとき、それはもはや現象ではなく設計だ。
だが設計者の姿はどこにもない。
◆報告書の空白
研究室に戻ったハーミスは、机の端に積み上がった報告書フォーマットに目を落とす。
欄は淡々と埋められていく。
有害性:なし
魔力過飽和:兆候なし
監視の必要:継続
整った文面。整いすぎた世界。
書けば書くほど、安心の形に近づくはずだった。
しかし、紙にペンが触れるたびに、胸の奥で鈍い音が鳴った。
――これは異常の自己免疫だ。
危険がない。だから誰も身構えない。
それが、最も悪質な崩壊の予兆であるという事実に、同僚たちは誰も触れようとしなかった。
ペン先が止まった。
ハーミスは机の下で吐息を押し殺し、低く呟いた。
「幸福は毒より遅く効く」
ゆっくりと、しかし確実に。
毒は体内に馴染み、免疫という抵抗を忘却させる。
幸福を装った異常は、警戒を奪い、思考を奪い、最後に意思を奪う。
◆崩壊理由が生まれない世界
温室は、翌日も美しく整っていた。
萎れた葉は一枚もなく、病斑は一つもない。
害虫は近づかず、風は常に優しい。
“繁栄”は崩壊の前兆より質が悪い。
破綻の予兆がなければ、人は立ち止まらない。
誰も悲鳴を上げず、誰も異議を唱えず――問題そのものが成立しない。
だからこそ、それは止められない。
ハーミスは窓を閉め、白衣の袖を握りしめた。
彼だけが抱えている違和感は、言語化できない。
証拠は美しさだけ。
幸福という鎖は、目に見えない。
彼は観察を続けるしかなかった。
観察者だけが、まだ眠り込んではいなかった。




