待てない
目を覚ますと、公爵邸の私の部屋だった。
窓から差し込む光に眩しさを覚える。
花瓶の水を換えていたリタは私の視線に気付いて声を掛けた。
「お目覚めですか?」
相変わらずの真面目な顔でそう言う彼女はどこか楽しそうで、私の怪我の心配はして無さそうだ。
「知っていたの……?」
「知っていましたよ。」
『何を』とは聴かなくても分かっているようで、どことなく愉快そうな返事に思わずムッとする。
「いつ知ったの?」
「お嬢様が連れ去られた夜、公爵様が乗った翼馬をシルヴィアと呼んだ時に。」
「そ…それは。公爵様に言った?」
「いいえ。面白すぎて言いませんでした。」
悪びれもせず言うリタに、声にならない苦情が口をパクパクと動かす。
「どうでしたか?会いたかった『シルヴィア』は。」
そんな私を気にもせず、リタは紅茶を用意しながら聞いた。
「……陛下がおっしゃる通り、見るものは心奪われるという言葉がピッタリだったわ。」
公爵様にシルヴィアに乗せられた時、あまりの乗り心地の良さと言うか、安定感に驚いた。
しっかりした筋肉は硬すぎるわけではないのに、目を見張るような張りがあり、すらりとした脚は完璧なバランスを取っている。
そこに立っているだけで、シルヴィアの纏う風格は他を圧倒する存在感だった。
風に靡く黒の鬣は、黒銀と言って良いほど光り輝いていた。
「お嬢様。もし、公爵に本当に愛人なり恋人なりがいたなら私は彼を許しませんけれど、あの手紙も、言葉も、贈り物も、あなたの為に用意されたものです。貴方が公爵様の唯一ですよ。」
優しい目でそう言いながら紅茶を渡してくれる。
――「どうされますか??」
リタの目がそう問いかけてくる。
その時ノック音がし、公爵様がドア外から声を掛けた。
「リタ、ティツィアーノの様子はどうだ?入ってもいいか?」
びくりと体が揺れ、部屋に入れないでと目で訴えるも、
「はい、どうぞ。お嬢様はお目覚めですのでお入り下さい。」
こらー!!無視をすな!無視を!!
主人の意見を無視して言ったリタを、心の中で叱りつけるも、もう逃げ場は無い。
カチャリとドアが開き、心配そうな顔をした公爵様がまっすぐこっちを見た。
私の顔を見ると、ほっとしたように綺麗な顔が緩んだ。
後ろにいたセルシオさんにドアの外で待つように伝え、部屋に入ってくる。
「よかった、目が覚めたんだね。気分はどうだい?」
近くにあった椅子をベッドの脇に寄せ、私の顔を覗き込むようにして言った。
裏切り者のリタは公爵様が椅子に腰をかけると、そのまま静かに部屋を出ていった。
室内に二人きりになり、緊張しすぎてまともに顔が見られない。
「ご心配を……おかけしました。お陰様で良くなりました。」
「本当に?」
そう言って私のおでこに手を当てる。
体がピンと伸び、顔に熱が集まるのがわかる。
ひんやりとした心地のいい手は、優しく肌に触れる。
「貧血だと医師は言っていたが、顔が赤いな。熱も出てきたのか……。今は無理をしないでくれ。……君を失うかと思って、気が気じゃなかった。」
ダークブルーの瞳が不安そうに揺らめき、胸を締め付ける。
心臓の音がドクドクと響き、うるさい。
彼の顔をまともになんて見られない。
思わず強引に視線を外した。
「リリアンとウォルアンがお礼を言いたいと言っていた。」
「い……いいえ、お礼を言うのは私です。お二人の言葉にどれだけ励まされたか。公爵様や母を連れてきてくれたのも……。無事に戻って来られたのもお二人のおかげです。」
そう言うと、ふっと柔らかく微笑む吐息が聞こえる。
視線を感じたまま目線を上げることができず沈黙が広がる。
「そういえば、さっきの話の続きだが……。」
そう言って、タッセルをポケットから取り出し、俯いていた私の顔の下に差し出した。
明るい部屋で見るそれのあまりの下手さと、恥ずかしさでタッセルを思わず奪い返そうとして避けられる。
「病人なんだから大人しくしておかないと……。」
思わず彼の顔を見ると、少しイタズラっぽい顔をした公爵様がわたしから届かない距離でタッセルを見せつける。
「いえ……。ほんと、おかげさまで元気に……。」
じっと私を見つめる彼の瞳から悪戯っぽさが消え、真剣な瞳に変わる。
「……胸に光る星は、獅子の心臓を表すレグルス家の家紋に間違いないと思ってる。もう一度……結婚出来ないと言った理由を聞いても?」
もう逃げられない。
「あの…結婚式の日、国王陛下や公爵様達が控室で話しているのが聞こえて……。」
あぁ、この先を言うのが恥ずかしい…。
「『貴方はシルヴィア一筋』……だと。」
「は……?シルヴィア?」
穴があったら入りたい。
でもでも、ここで逃げるわけにはいかない。
「ずっと憧れだった貴方に求婚されて、舞い上がって、でも貴方には他に愛する人がいたのに、王家の命令で私と結婚しなくちゃいけないって。……耐えられなかった。好きな人のそばにいるのに、その人が他の人を大事にする姿なんて見たくなかった。だから、シルヴィアという人がどんな人なのか見て、貴方が大事にしている人みたいに魅力的な女性に……。」
その先は何かに口を塞がれて何も言えなかった。
彼の長いまつ毛が目の前にある。
温かく、柔らかい唇が自分のそれを塞ぐ。
「公……っん。」
上手く呼吸をすることができず、言葉も発せない。
後頭部を支えている手は強引だけど、大切なものを触るように優しい。
「君に……他に愛する人がいると思っていた……。」
「そんな人……いません。」
「でも、君はウォルアン達に『私も愛する人の為に生きていく』って言っただろう?」
「あ……それは、愛する人の前に『いつか』ってつけ忘れて……。」
すると、公爵様は目を見開き、固まった。
「……いや、一番重要だろう?」
「公爵様に好きな人がいるなら、言い直さなくても良いかなって。」
「いや、言い直して?」
「ご、ごめんなさい。」
そう謝ると、公爵様はわたしをぎゅっと抱きしめて言った。
それで、また心臓が跳ね上がる。
これ以上早く動くと絶対死ぬ!
そう思えるほど胸が苦しい。
「ティツィ、……君を愛してる。どんな時もまっすぐ前を向く君も、自分の命を、人生を軽んじてきた中で、君のくれた言葉は私の世界に命を与えてくれた。君だけが私の世界だ。」
「私も、公爵様が私の目標でした。いつ恋に変わったかなんて分からないけど、貴方を見るたびに……っんぅ。」
彼の唇が私のそれに重なり、言葉が継げなくなる。
「ちょっ……待って、待ってくだ……。」
まだ話の途中だ。
というか、心臓の音は煩いし、顔が熱いし、もうどうしたら良いのか分からない。
とりあえず外に出て新鮮な空気を吸って落ち着きたい!!
「待てない。どれだけ待たされたと思ってるんだ。目の前にいるのに、触れられない、抱きしめられないもどかしさに耐えるのがどれだけ辛かったか…。」
「こ、公爵さ…」
「『レオン』……と。公爵では無く、名前で呼んで欲しい。」
そう言う彼は、先程とは違い、獰猛な目をして私の目を覗き込んだ。
熱を帯びたその目は逸らすことを許されていない。
体の奥底から不快では無いゾクリとしたものが駆け上がる。
彼の柔らかな唇が頬に触れ、吐息が頬を撫でる。
「レ、レオン……。待っ……。」
恥ずかしくて、どうにかなりそうだ。
「無理だ。」
頬にあったそれが、耳に移動し、柔らかなリップ音を、立てる。
完全に自分のキャパを超えている。
「はいはいはいはいはいー!!待ちましょうねー。」
場にそぐわない飄々としたテトの声がドアの入り口から響き、思わず両手で公爵様を押し返す。
「貴様……。」
彼は、怒りに殺意を含んだような目でテトを、睨みつける。
「だって、止めないとサリエ様に殺されそうだから。」
「そうだ、結婚もしていないのにうちの可愛い娘に何をしてくれているんだ、貴様は。」
そう言って、母もテトの後ろから剣に手を添えて言った。
いつから、そこに!?
「おい、セルシオ、こいつらを追い出せ。」
外で控えていたセルシオさんは真顔で
「私も自分の命は惜しいので無理です。」
と、超絶真面目な顔で断った。