愛人の存在
それから数日間、王は毎夜王妃の元を訪ねていた。
それはもちろん、王宮内に広まりすぐに噂になった。
世継ぎもそろそろかという声が、あちこちに呟かれ、アリソンの耳にも入っていた。
(世継ぎなんて夢のまた夢よ!)
と心の中で思いながら、アリソンは庭園をアイシャと歩いていた。
庭園は砂漠特有の花々が咲き誇り、異国出身のアリソンにとって唯一の癒しだった。
仕事の合間に、こうして庭園を歩き回ったり、ゆっくりとお茶を飲んだりすることが、アリソンは好きだった。
「あ、アイシャ。この紫の花は何て言うの?」
「はい。そちらは…」
アリソンは噂のことは忘れて、アイシャに花のことを教えてもらう。
二人で楽しく、庭園を歩き回っている時…ー
「あら、王妃様ではありませんか」
アリソンは、声がした方を振り向いた。すると、一人の女性が背後に数人の侍女を引き連れて、こちらへと歩いてくる。
アリソンと同様に顔だけさらす布で、全身を覆い、頭上には歩く度にしゃらりと揺れるアクセサリーをつけている。
顔の彫りが深く、目元もきれいな二重でまつげも長い典型的な美人だ。
肌も健康的な程よい小麦色で、ふっくらとした真っ赤な唇が印象的だった。
布で覆われているが、豊満な肉体は布でも隠しきれず、女性らしい丸みが目立つ。
切れ長の黒目は細められ、侮蔑が込められている気もする。
(確か…この方は)
「ウルスラ様」
「あら、王妃様に覚えていただけていたなんて。光栄でございます」
異様に爪が長い片手を頬に当てながら、女性は鼻で笑いながら言う。
アリソンは、この国に嫁いでから大臣や重臣たち、その家族の名前、親戚の顔など全て頭に入っていた。
ウルスラと呼ばれた女性は、大臣の娘であり、王の愛人とも呼ばれている女性だった。
アリソンが、女性と夫が一緒のところは見たことはないが、他の人たちは確信があって言っているらしいので、夫の愛人と認識していた。
それにしても、アリソンとは真逆のタイプだった。
(夫の好みは、こういう女性なのか)
アリソンは、ため息を吐きたくなるのを堪える。
「…何か用でしょうか」
「ふふ…もちろん。でなければ、私がこうしてあなた様に会いに来るはずがございませんわ」
嫌みを含んだ口調で言い、目元は相変わらず侮蔑を含んでいた。
「それで、何でしょうか」
「…最近、陛下があなた様の元へ通っているとの噂を聞きました」
「…はい」
「事実ですか?」
「…まあ、はい」
「ふうん。でも、思い上がりにならない方が身のためですわ。あの方のお心は、私のものですから。あなた様が嫁いでくる前から、あの方は私に愛を囁き続けていますから」
彼女の美しい顔が、侮蔑と恍惚を表し、真っ赤な唇を大きく開けて高らかに笑う。
つまり、これは堂々と王の愛人宣言をして、アリソンを警戒しているのだろう。
アリソンは、今度こそため息を吐いた。
「ご心配なく。あなたの王を奪う気はありません」
「あら。身の程はご存じのようね。分かればよろしいのよ」
再び高笑いをしながら、数人の侍女を引き連れて王宮内に戻っていった。
「なんですか!あれ!王妃様、もっとガツンとおっしゃりませんと」
「いいの」
二人きりになると、我慢が爆発したようにアイシャが怒る。
アリソンは、静かに空を仰ぎ見た。
◇◇◇
トントン…ー
「はい」
「入るぞ」
今夜もゆっくりと、自分の入れたお茶を飲みながら本を読んでいると、夫がやって来た。
アリソンは、窓際にある一人用の椅子に腰かけており、数人座れるソファーに夫が腰かけると、静かに立ち上がる。
そのまま何も言わずに、台所に行き数分でスープを作った後、夫の元へ向かった。
「どうぞ」
「ああ」
夫は、アリソンから器を受け取り、目を閉じてスープを飲む。ただ飲んでいるだけなのに、その所作は美しく洗練されていた。
夫は、ほっと一息ついた後、立ちっぱなしのアリソンを仰ぎ見る。
「座らないのか?」
「…はい」
アリソンは、窓際にある一人用の椅子に座ろうと、夫から離れるが、夫は「こっちだ」と自分の隣を指差す。
アリソンは驚くが、仕方なく夫から二人分空けて腰かけた。
夫は、そんなアリソンにムッと眉を寄せたが、アリソンは気にしないことにする。
「何故、離れて座っている?俺たちは夫婦だろう」
「…公務以外で、夫婦になりきる必要はないでしょう?」
「……やはり、お前は可愛いげがないな」
「可愛いげのある妻が欲しいのでしたら、愛人の元へ行って差し上げたらどうですか」
「は?そんなものはいない」
夫は、怪訝そうに眉間のしわを深める。
「今日、ウルスラ様が訪ねてこられました」
「ウルスラ?…ああ、大臣の娘か…。別に、お前が思っているような関係じゃない」
「でも、彼女はそう思っています」
「一夜過ごしただけだ。それも、昔のことだ。お前が嫁いでくる前の…」
「彼女は、まだ陛下を好いているようです。女性に未練を持たせるならば、妻として迎えて差し上げたらどうですか」
「……」
アリソンが夫の言葉を遮って言うと、夫は益々眉間のしわを深くする。
アリソンは、構わずにソファーから立ち上がろうとすると、片腕をぐいっと引かれた。
「あっ」
アリソンは中腰になった状態で、間近にある夫のきれいな顔を見下ろすことになっていた。
片腕は夫の大きな手が、掴んでいる。
かあっと顔に熱が上がるのを感じ、アリソンは慌てて夫から離れようとした。しかし、掴まれた片腕が痛いくらいにぎゅっと握られる。
「っはな…」
「砂漠の掟を知らないのか?砂漠の民は、一夫一婦制だ。つまり、俺は正妃しか持てない」
「っ知っています!ですから、私と離縁されたらいいでしょう」
「…何か勘違いをしているようだな」
ぐっと今度はもう片腕も掴まれ、ドサッとソファーに寝転がる体制にされた。
夫が上から、アリソンを見下ろす体制になり、恐怖を感じる。
「離縁もできない。互いが死を別つまで、俺たちは夫婦だ」
有無を言わさない低い声で言われ、アリソンはじわりと涙が溜まるのを感じて、顔を背ける。
夫は、視線をそらすのを許さないとばかりに、アリソンの顎を親指と人差し指で掴み、正面を向かせた。
「二度と離縁の言葉を言うな。今度は、許さない」
力強い瞳で射ぬかれ、ついにアリソンは涙を流す。口からも小さく嗚咽が出た。
「っ…ひっく…」
目を閉じて、ポロポロと涙を流していると、硬い指がおずおずと目元の涙を拭く感触がした。
アリソンが涙で溜まった瞼をそうっと開けると、正面には少し傷ついたような顔をした夫が見下ろしていた。
再び涙が込み上げるのを感じて、夫を拒絶する。
「いや」
腕を掴んでいる手から、少し力が緩み、その隙にアリソンは夫から離れた。
「あ、おい」
背後から夫が呼ぶが、アリソンは何も言わずに寝室へと駆けつけた。
ベッドへと飛び込むと、涙が次から次へとあふれ、枕を濡らす。
***
寝室へと走っていった妻を、ラビはただ見ていた。
何故、妻の涙を見てこんなに胸が締め付けられるのか分からなかった。
今まで、女の涙はたくさん見てきたが、こんな経験はなかった。
(なんだこれは…)
ラビは寝室の扉の前に立つが、中から泣くのを堪えている声がして、自分を殴りたくなった。
扉を開けようとするが、何故か妻の泣き顔を見たくないと思い、静かに手を下ろす。
「すまない」
妻には聞こえない程の小声で呟き、ラビは自己嫌悪に陥っていった。