第6話 未来
日が暮れると、ラーズは砦の外に出て、麓にある村へ向かった。
村には砦の守備兵たちがたむろする酒場がある。今夜、ウォーレンたちがそこで飲んでいることは従者から聞いて把握してあった。
明朝の出発だと準備に割ける時間はほとんどない。そんな条件で過酷な任務をこなせる者がいるとすれば、彼ら以外に考えられなかった。
店に入るなり、下品な笑い声が聞こえてきた。広い店内には男どもが放つむせ返るような熱気とアルコールの臭いが充満しており、息苦しく感じられる。
ラーズは素早く店内を見回した。
すると、背中に赤子を背負い、盆を片手にくるくると忙しそうに店内を行き来する若い女が目に入った。
その背に近づくと、いきなり女が振り返った。
「きゃっ!」
よろめく女をラーズは素早く手を伸ばして支えた。
「ちょっと気を付けなさいよ!」
女はキッと睨みつけてきたが、ラーズの顔を見て表情を一変させた。そして近くのテーブルに盆を置いてから、がばっと抱き着いてくる。
「兄さん!」
「アニーネ」
ラーズは優しく抱きしめ返した。
アニーネはラーズの妹だった。兄と違って背は低いが、顔は母親似で目鼻立ちが整っていて愛嬌もある。性格がややきついのが玉に瑕だ、というのが仲間内からの忖度抜きの評価である。
「ちょうど良かった。イダのことお願い」
アニーネは身体を離すと、背負っていた赤子をラーズに押し付けた。
「はーい、ラーズおじちゃんでちゅよー。ちっとも顔を出してくれない薄情なおじちゃんだけど、しばらく相手をしてあげてねー」
「お、おい」
「ウォーレンたちならあっちのテーブルにいるから!」
アニーネは奥のテーブルを指して、慌ただしく仕事に戻っていった。
「まったく……。イダ、元気にしていたか?」
ラーズは慣れない手つきで赤子を抱き直し、顔を覗き込む。イダは少し嫌がる素振りを見せたが、すぐに慣れたのか、顔に手を伸ばしてきた。
イダはアニーネの娘……つまりラーズにとっての姪である。
父を帝国に奪われ、五年前に母を病で亡くしたラーズにとって、アニーネとイダは残された数少ない肉親だ。
ちなみに、イダの父親はウォーレンである。
ラーズとウォーレンは十四の時からの付き合いだから、ウォーレンにとってもアニーネは妹みたいなものだ。ウォーレンは常にアニーネを気遣い、アニーネもウォーレンに懐いていた。やがてふたりが愛を育み、子を成すことも自然な成り行きだったのだろう。
ラーズとしてはウォーレンが義弟となることに違和感はあったが、大切な妹を託すことができる数少ない男だとも思っていた。
奥のテーブルへと向かうと、そこには義弟だけでなく、馴染みのある部下たちがくつろいだ様子で酒を飲んでいた。
真っ先にラーズに気付いたのは、やはりイームクレンだった。黙って杯を掲げて挨拶を寄こし、周囲の仲間に「ラーズだ」と告げた。
「おお、隊長がここに来るなんて珍しいね」
オッシが上気した顔をほころばせながら言った。その隣では、明らかに酔っているウォーレンが、じとっとした目でラーズを睨んでいた。
「おい、ラーズ。なんでお前がイダを抱いているんだ。俺の子だぞ」
「俺の姪でもある」
「イダは俺の姫様だ。いいからこっちに寄こせ」
乱暴に伸びてくるウォーレンの手を、ラーズは軽く払った。
「ダメだ。アニーネから飲んでいるときのお前にイダを抱かせるなと厳命を受けているんでな」
曰く、ウォーレンは酔うと抱き方が雑になり、興が乗ると抱っこしていることを忘れるから、とのことだった。
「妹の言いなりとは情けない奴め。そんな命令無視しろよ」
「今はお前の妻だ。自分で説得しろ」
ウォーレンは「ちっ」と舌打ちしつつも大人しく引き下がった。一応、自分が酔うとどうなるかを自覚してはいるのだ。
「とりあえず、せっかく来たんだから隊長も飲みなよ」
オッシが酒がなみなみと入った杯を差し出してくる。
ラーズはそれを受け取り、口を付けた。
中身はエールではなく、葡萄酒だった。ハルディ名産の葡萄酒は、穏やかな酸味とやさしい味わいが特徴で、生産量はあまり多くないが、遠方から行商人が仕入れにくる程度には好事家の間で評判になっている逸品である。
(いずれこの酒も飲めなくなるのか……)
ふいに失われるものの多さを思い知らされ、ラーズは表情を硬くした。
「どうした? お前のしけた面は見慣れてるが、今日はいつにも増して酷いぞ」
ウォーレンの表情が、やや真顔に戻る。さすが長年の付き合いと言うべきか、わずかな変化すら見逃してはくれないようだった。
「……新しい任務だ。明日の朝、ガラトに向けて出発する」
ラーズはなるべくいつも通りの口調でそう告げた。
「新しい任務だぁ?」ウォーレンが顔を歪める。「どうせいつもの逃げ遅れたガラト人どもへの避難勧告と、黒い霧の見学会だろ?」
「楽しい楽しい怪物狩りってのもあるよ」とオッシが付け加える。
「今回は違う。帝都から来た聖者一行の護衛任務だ」
ラーズは詳しい任務内容を説明する。話が進むにつれ、ウォーレンの顔がみるみる険しくなっていった。
「……つまりなんだ? 俺らはガラトの奥地へ向かう聖者様御一行のお守をしつつ、その神託の子とやらを無事にここまで連れ帰ってこなけりゃならないってことか?」
「そうだ」
「クソだな」
ウォーレンは容赦なく切って捨てた。
「今のガラトに帝都でのうのうと暮らしてる素人どもを引き連れて行って無事に帰ってこられるわけがねぇ。自殺行為だ」
「目的地はまだ黒い霧に覆われていない地域だ。やってやれないことはないだろう」
「馬鹿を言え。国境付近をうろちょろするのとはわけが違う。ガラトはもう怪物どもの楽園だ。矢が降り注ぐ戦場を盾なしで歩くようなもんだ。行きたきゃそいつらだけで勝手に行かせりゃいいんだよ」
「そういうわけにはいかない」
「なぜだ? 命令だからか?」
「そうだ」
と頷くラーズに、ウォーレンは大げさにため息を吐いてみせる。
「お前はいつだってそうだ。命令ならどんなことにも従うのか?」
「ああ」
「ふざけんなッ!」
ウォーレンが拳をテーブルに叩きつけた。衝撃でテーブルから落ちそうになった杯をイームクレンが素早く掴み、さりげなく元の位置に戻す。
「だいたいなんなんだよ、その神託の子ってのは! お前はそんな与太話を本気で信じているのか? 仮に本物だったとして、その赤子が成長するのに何年かかる? ああ? 立派に育つ頃には俺らは黒い霧の中で仲良く骸を晒しているだろうよ。そんな馬鹿げた話に付き合う必要がどこにある!?」
「司令は人員の選抜を俺に一任された。今回に限っては強制するつもりはない。不満があるなら断ってくれて構わない」
「……おい、それ本気で言っているのか?」
ウォーレンの纏う空気に剣呑なものが混じる。
すると、おもむろにイームクレンが席を立った。そして一言、「支度する」と告げて、立て掛けてあった剣を手に取って店を出ていった。
「おい待て、イームクレン!」
ウォーレンが呼び止めるも、イームクレンは一度も振り返らなかった。
「隊長とイームだけだと道中の会話が盛り上がらないだろうから、俺も行くよ」
それまで黙ってやり取りを聞いていたオッシが朗らかに言った。
「オッシ、てめぇ正気か!?」
「正気だったら騎士なんてやってないよ」
「クソッたれが! 馬鹿ばっかだ!」
「そう言うウォーレンはどうするのさ。残るの?」
「行くに決まってるだろう!」ウォーレンは間髪容れずに答えた。
「あれだけ文句を言ってたのに、結局は行くんだね」
「文句を言うことと、行く行かないは別の話だ。だいたい、俺が行かなきゃ誰がこの馬鹿の背中を守るんだ!」
ウォーレンはラーズに指を突きつけながら言った。
「面倒な性格してるなぁ」と肩をすくめるオッシ。
「……いいのか?」
ラーズの問いに、ウォーレンは鼻を鳴らした。
「俺たちは運命共同体だ。どんな不利な戦いも、絶望的な状況も、いつだって四人で乗り越えてきた。今回も同じだ。何も変わらない」
そう言うと、ウォーレンはラーズの手から強引にイダを奪い取り、その柔らかな頬にキスした。そして再び娘をラーズに預け、大股で店を出ていく。
オッシも「それじゃまた明日」と手を振って後に続いた。
ひとり残されたラーズは、手元の杯を見つめながら深く息を吐き出した。
しばらくすると、アニーネがテーブルの片づけをするために近寄ってきた。
「また任務に行くの?」
「ああ、明日の朝出発する」
「そう……。気を付けてね。あとウォーレンのこと、お願いね」
「わかってる。妹を未亡人にするつもりはないよ。もっとも、助けられているのはいつだって俺の方なんだがな」
アニーネが、ふふっと笑った。
「ウォーレンも前に今の兄さんと同じことを言ってたわ」
「そうか……」
「もうしばらく、イダの相手をしてあげて」
アニーネはそう言うと、ラーズ、イダの順で頬にキスをしてから、大量の皿を抱えて厨房へと戻っていった。
気丈に振舞ってはいても、アニーネが無理をしているは嫌でもわかった。そしてそれは彼女だけではない。この地で暮らす誰もが言い知れぬ不安を抱いている。
ウォーレンが言ったことは、すべてラーズの気持ちを代弁していた。
聖者フィリスは、大陸に暮らす人々の未来のために力を貸してくれと言った。そしてその言葉が嘘ではないことを示すように、命懸けの旅に出ようとしている。
だが、彼女の言う未来の中に、このハルディの地は含まれていない。そう遠くない将来、この地は闇に呑まれ、人の住めない死の大地と化してしまうだろう。
一方で、エレニール帝国は強大だ。兵力はもとより、帝都にはあらゆる分野の識者、賢者が揃っている。本気で対策を講じれば、信託の子が成長するまで持ちこたえられる可能性は十分にある。
結局のところ、今回の任務は憎むべき帝国を救うためのものに過ぎないのだ。
それでも――
ラーズは腕の中のイダを見つめる。
新しく生まれた幼き命。
この子が犠牲となるような未来は見たくなかった。
「……イダ、お前はここで父親の無事を祈っててくれ」
イダは返事の代わりに、小さな手をラーズの頬に伸ばしてきた。




