第18話 浄化
「アイラッ!」
フィリスの悲鳴は、激しい金属音によって掻き消された。
怪物の剣はアイラではなく地面を穿っていた。
惨劇を防いだのはラーズだった。横から剣を叩きつけて攻撃の軌道を変えたのだ。
「下がってろッ!」
ラーズはそう叫びつつ怪物と交戦する。
その隙に、フィリスはアイラのもとへ駆け寄った。
「アイラ!」
「お、お嬢様、お逃げくださいと申し上げたはず……」
「いいから傷を見せて」
「私は……大丈夫です……それよりも神託の子を連れて――ごふッ!?」
アイラの口から大量の血が吐き出される。怪物の剛剣は盾では完全に防げず、ダメージが内臓にまで及んでいるのだ。
だが、あの鎧の怪物をどうにかしなければ治療どころではなかった。
フィリスは顔を上げてラーズの方を見た。
驚いたことに、彼はひとりで鎧の怪物と渡り合っていた。
ハルディ最高の戦士と謳われる騎士は、その名に恥じぬ卓越した剣技で怪物の斬撃をすべていなしている。
だが、それでも勝てるとは到底思えなかった。
フィリスは鎧の怪物からとてつもなく強い邪悪な気を感じた。人が持つ悪意や殺意といった感情とはまるで違う。この世の理から外れた闇の意思そのもののような、得体の知れない何か……。
案の定、徐々にラーズが押され始める。このままでは彼だけでなく、この場にいる全員があの怪物に殺されてしまうだろう。
「どうか、お嬢様だけでも……お逃げください……」
アイラが必死に訴えてくる。
「いいえ、わたくしは逃げません。そして、誰ひとりとして死なせません!」
フィリスは敢然と立ち上がった。
たとえアイラの願いでも、ひとりで逃げるなど論外だった。光と秩序の守護神ロセヌに仕える聖者として、闇の力に屈することなどあってはならない。
なにより、自身のわがままで皆を危険に晒すことになってしまったのだ。
必ずあの闇の怪物を倒し、皆を守る。
そのためなら、この命など惜しくはなかった。
「ロセヌよ。光と秩序を守護する至高神よ。我が願いを聞き届け、偉大なる奇跡を起こし、この地を闇に染めんとする邪悪な意思を払いたまえ――」
静かに瞑目し、祈りの言葉を紡いでいく。
あれほどの強い邪気を宿した悪魔だ。生半可な術では祓えないだろう。
後先は考えるな。全身の気力を振り絞れ――フィリスは己のすべて捧げるように、力強く両手を前に突き出した。
「――浄化!」
次の瞬間、フィリスの身体から白い光が放たれる。
触れる者すべてを癒すような、暖かい、慈愛に満ちた輝き。
だが、それは闇の眷属にとっては凶器に他ならなかった。
光に触れた途端、怪物は苦悶の声をあげながら身もだえた。身体を纏う瘴気が光と溶けあうように宙に消えてゆく。
「ラーズ殿、今ですッ!」
その声よりも先にラーズは動いていた。
会心の斬撃が、うなりをあげて怪物の首を刎ね飛ばした。
兜を被ったままの頭部が地面を転がる。残された胴体は、その後を追うようにゆっくりと横なぎに倒れていった。
光が収まると、フィリスはその場にへなへなとしゃがみ込んだ。
「フィリス殿!」
すぐさま駆け寄ろうとするラーズを、フィリスは手で制した。
「だ、大丈夫です。少し力が抜けただけですから……それよりも早く怪我人の手当てをしなくては……」
その言葉でラーズはオッシのことを思い出し、彼の方を見た。
すでにウォーレンが駆け寄って介抱していた。安堵したような表情から、どうやら大事には至っていないようだった。
ほっと息を吐き出してから、ラーズはあらためて周囲を見渡した。
驚くべきことに、この場にいたすべてのメッサーが抜け殻のように地面に横たわっていた。怪物どもがまき散らした瘴気も跡形もなく消え去っている。静寂を取り戻した森には、どこか神聖な空気が満ちているようにさえ思えた。
「これが神の奇跡……」
聖者が扱う聖霊術には、怪物の瘴気を浄化する力がある……その事実を知れたことは大きな収穫と言えた。
再びフィリスの方を振り返ると、彼女はふらふらになりながらも、アイラの治療を行なっていた。
ラーズは彼女を手伝おうと足を向けかけて、思いとどまった。
それよりも先にやらねばならないことがあった。よもや生きているとは思えないが、念のため怪物の頭を破壊しておかねば安心できない。
甲冑に身を包んだ怪物は、操り手を失った人形のように力なく横たわっていた。
これまでにこのような怪物と遭遇したことはない。書物に記載されていた未確認人型種『イドナム』……この怪物がひょっとしたらそうなのだろうか。
ラーズは近くに転がっていた頭部の兜を慎重に外した。
「こ、これは……!」
中身を見て、ラーズは愕然とした。
現れたのは人間の顔だった。
髪の毛の代わりに触手こそ生えているが、目や鼻、口などは間違いなく人間のそれである。なにより、ラーズはこの顔に見覚えがあった。ガラト王国の将軍だ。戦場で何度か相まみえ、実際に剣を交えたこともあるので間違いなかった。
「どうやら悪い予想が当たってしまいましたねぇ」
いつのまにかトーキルが背後から覗き込むように立っていた。
「実は先日、村で怪物の死体を解剖したんですがね、身体の構造が随分と人間に近かったんですよ。その時からもしやとは思っていましたが、これを見て確信できました」
ラーズが目で続きを促すと、トーキルは声を落として言った。
「……メッサーは人間の死体を素に作られている、ということです」
「……」
そうではないか、という予感はラーズの中にもあった。
これまでに何度か怪物どもに襲われたと思しき村を訪れたことがあったが、生存者はおろか、一度として死体を見たことがなかった。避難したか、喰われたのだと勝手に思い込んでいたが、そうではなかったのだ。
先日の村で見た、あの死体の山……あれはおそらく黒い霧の中に殺した人間を運ぶために一か所に集めていたに違いない。
なんのために?
その答えが、ここにあった。
「これを見てください」
トーキルが懐から透明な小瓶を取り出した。中には植物の種子のような物が収められてあった。
「それは?」
「解剖したメッサーの頭の中にあった物です。おそらくこれを死んだ人間の頭に埋め込んで怪物に変えていたのではないかと私は推測しています」
「では、この男も?」
ラーズは首だけとなった男を見下ろし尋ねた。
「おそらくは」
「だが、この男とメッサーには明確な違いがあった。その差はなんだ?」
「私が答えなくとも、あなたにはもう察しがついているのではないですか?」
ラーズは沈黙した。
メッサーが死体を素に作られた意思のないバケモノだとしたら、剣術を操り、人のように戦ったこの鎧の怪物は――
「……生きた人間を使ったということか」
トーキルは肯定も否定もしなかった。
「こいつが魔王で、すべての黒幕……という線もないわけではないですが、さすがに可能性は低いでしょう。とはいえ、万が一ということもあります。念のため頭を開いて中を確認したいのですが、許可いただけます?」
けろりと言ってのけるトーキルに、ラーズは「頼む」と答え、その場を離れた。とてもその作業を見守る気にはなれなかった。
死体だけに飽き足らず、生きた人間を怪物に変える……。人の尊厳を踏みにじる、決して許すことのできない蛮行である。
ラーズは知らず知らずのうちに拳を強く握りしめていた。
「――ラーズ」
その声に振り返えると、いつのまにかイームクレンが傍に立っていた。
「イームクレン、無事だったか。フーガーは?」
「すべて片づけた。それよりもまずいことになった」
これ以上どんなまずいことがあるというのか。ラーズはうんざりした気分になるが、イームクレンの表情はこれまでに見たことがないほど厳しいもので、話を聞かないわけにもいかなかった。
やはりと言うべきか、イームクレンが次に放った一言は、ラーズを絶望の淵に突き落とすに十分なものだった。
「馬がやられた」
「なんだと?」
「一頭残らずだ。俺たちが戦っている間に――」
聞き終えるよりも先にラーズは走り出していた。戦いの疲れも忘れ、馬を繋いでおいた場所に全速力で向かう。
視界に入ってきたのは、血塗れになって無残な姿を晒した愛馬たちだった。
「やったのはベスティアだ。俺が駆けつけたとき、走り去る姿を見た」
言葉を失っているラーズに、イームクレンがそう補足した。
ベスティアとは狼のような姿をした四足歩行の怪物である。猟犬のように狙った獲物をどこまでも追いかける。木の幹に繋いでおいた馬は逃げることもできず、一方的に惨殺されてしまったに違いなかった。
「くそッ!」
激情を抑えきれず、ラーズは木の幹に拳を叩きつける。痛みは感じなかった。
騎士にとって愛馬は長い時間を共に過ごし、手塩にかけて育てた我が子同然の存在なのだ。愛馬を失うことは、まさに半身をもがれたようなものだった。
だが、怒りに身を任せている場合ではなかった。
馬を失ったのは致命的だった。徒歩で怪物どもの襲撃を避けながら森を抜けることなど不可能に近い。それも子供たちを連れているとなれば尚更である。
そこまで考えたところで、ラーズははっとした。
「まさか、最初からこれが狙いだったのか……?」
そうとしか考えられなかった。
あの乱戦のなか、ベスティアは人間を無視して馬だけを狙った。
つまり、獲物に優先順位を付けていたのだ。
足さえ奪ってしまえばいつでも襲撃できる……奴らが人間を利用している可能性があると知れた今、それくらいのことを考えていたとしてもおかしくなかった。
「……イームクレン、皆を馬車のところに集めてくれ」
ラーズはそれだけ指示すると、重い足取りでその場を後にした。