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黒と黒のコントラスト  作者: じっぴー
第一章
3/45

3

 そしてまた、夏がやってきた。そして夏を、思い出した。

 地下鉄の改札を出たあたりから、モワッとした空気が私を包んだ。肌触りの悪さに私は思わず舌打ちをした。

 エレベーターで地上に上がろうと考えたが、何か張り紙が見えた時点で、ああ、故障なんだなと思い、諦めて階段を使うことにした。一瞬しか張り紙は見えなかったが「修理中」と書かれていた気がする。昔から電車の窓から通過する駅の名前を読むことが得意だった。今でも初めて乗る路線の特急に乗る時は、自分の動体視力を確かめる意味でも実施している。

 階段を上りきると、目に入ってくる眩しい光が私を照らした。まるで神だと崇められている気分だ。ほんと、私が神だったらこんな暑い日は作らないのに。

 カバンからハンカチを取り出し、額の汗を拭う。それにしても暑い。太陽が近づいてきているのではないかと疑ってしまう。

 私は留美子と待ち合わせをしている喫茶店へと歩を進めた。

 ネットの情報では駅から徒歩五分。

 しかし暑さから早く解放されたいとの強い願いから三分ほどで到着した。いつもはのんびりと左右に立ち並ぶ建物を見ながら歩くので、その倍はかかっている。

 約束の時間まであと十分はある。携帯を確認したが、留美子からの連絡はまだなかった。

 私は無料で提供されている水に氷を二個落とし、窓際の外が見える席に座った。マジックミラーではない為、道行く人たちからも私の姿が見える。

 ぼんやりと外から見た自分の見え方を想像した。どうしてこの人はこんな気だるそうな表情をしているのだろう、きっとそう思うに違いない。

 私だって好きでやっているわけではない。一人でいるとき、考え事をしているとき、どうしてそんなに不機嫌なの、とよく言われるけれど、まったくそんな気持ちはない。

 そんなことを考えていると、突然肩を叩かれた。

「あ、今日はレポートやってないじゃん! 余裕だね」

 こんなに暑いのにパーカーにジーンズという出で立ちで留美子が現れた。なんとフードも被っている。減量中のボクサーか、ちょっと雨がぱらつき始めたか、どちらでもないのに。少しおかしくて思わず吹き出した。

「ちょっとー! 何がおかしいの?」留美子も笑った。

 ああ、この笑顔が留美子なんだと私は思う。

 私と違って留美子はいつもニコニコしていて愛想がいい、と周りにいわれることが多い。でもそれは、何もしてないのにニヤついている、ただの怪しい人ともとれるのではないだろうか。その差は一体どこにあるのだろう?

「それより哲学のレポート終わったってことだよね? 見せてよ~」

「まだ終わってないよ」

「じゃあなんで? いつもやってるのに?」

「あてがあるから」

「あて……?」

 相変わらず留美子はニコニコ顔をしている。鼻に指をあて、考えていますというポーズをとりながら。

 そして何かに気づいたのか、息を吸い込んだ。

「あー外川君のことでしょ。もー卑怯なんだから」

 私は答えなかった。それが答えになっているのだが。答えないことが答えになる。そんな便利な技を身につけたのは、半年前のことだった。それは、彼と出会って一週間も経っていない頃だった。

「いやいや留美子だって、しゅんちゃんいるでしょ」

「いや、あの人はバリバリの理系だから。あ、でも理屈っぽいから哲学とか得意かも」

「ふにゃふにゃしてるけどね」

「確かに。ってそれどうしてみかんが言うの?」

 もちろん私の名前はみかんではない。

「じゃあ、そろそろ行く?」私は提案する。

「あ、私も水もらっていいー?」

 私が頷くと留美子は踵を返し、水を取りに行った。まだフードを被っている。いつもだけど、改めて考えると不思議で理由を訊きたくなるのに、本人が目の前にいると訊くことを忘れてしまう。彼女がこちらに戻り、水を飲み始めた頃には粒子レベルでさえ残っていないだろう。

 留美子が水を飲み終わった後、私たちは店を出た。

 いつも私たちは無料で喉を潤す目的を達成するためだけに、この喫茶店を待ち合わせ場所に選ぶ。店側からしたら迷惑かもしれないが、無料で提供している以上、このような客を想定しないわけがないだろう。しかしお金を持っていない大学生にとって文字通りオアシス的な存在であることに変わりはない。

 店を出て、留美子が開口一番、暑いねーと声を漏らした。

 確かに、店に入る前と比べて、いくらか気温が上がったように感じる。しかし留美子の身なりは変わっていない。日焼け対策と言われれば、一瞬納得しかけるのだが、肌を見て、思い直す。留美子は日に焼けることに抵抗がない。

 出会って最初のゴールデンウィーク。私たちは大学の新歓BBQに参加する為、とある川に出かけた。私は基本的に外に出ないし、それに元々色白であることも手伝って、肌がとても白い。それを見た留美子が「ちょっとー! オセロみたいじゃーん」と言ったので、彼女の肌の焼け具合に気がついた。それまではそんなこと気にしたことなかった。女性はみんな、日焼け防止のクリームを塗るものだと思っていたし、その方が女性らしいと捉えていたからだ。

 その時留美子に、どうして日焼けを防止しないのか訊いたことを覚えている。日に焼けることで、皮膚ガンのリスクが高まるだとか、肌が荒れるだとか、特に将来、何かしらの不具合となって身体に現れると、テレビでどこかの大学教授がダミ声で話していた、と付け加えて。

 留美子はいつにも増して気だるそうな感じを前面に出して言った。反面表情はいつにも増してニコニコしている。

「えー! 焼けてる方が健康的に見えないー? まあそれは表面上の話で……ってほんとに表面の話じゃん! あ、ちょっと面白い? ああ、ごめーん。てかさー色んなリスクが高まるってそれ、私のじゃないじゃん? 一般論ってあるけど、全員に当てはまるわけないじゃん? 現実として起こってないことを、どうしてみんな心配するのかな? 心が疲れちゃいそうだけど」

 私は反論できなかった。

 先のことなんて、誰にもわからない。そんなことわかってる。反論できなかったのは、そんなことを考えたこともなかったからだ。いつもニコニコして周りに合わせているところしか見たことがなかった、というのもあるかもしれなかった。

 先のことがわからないからこそ、考え、不安になり、その反対にワクワクする。今日の晩御飯なんだろう? そんな小さなことでさえも、留美子は心が疲れると言っていたのだろうか?

 とにかくこの時、私は留美子のことをもっと知りたいと思ったのだ。そのいつも笑いが崩れない、薄化粧の下にどんな素顔が隠されているのか、見たくなってしまったのだ。

 留美子はさっき、しゅんちゃんは理系だと言った。基本的に留美子の中に、一般論は存在しない。「文系」や「理系」という言葉は、留美子の中では大層一般化された言葉だろう。なぜなら何十億人いる人間を、たった二種類に分けるからだ。

 しかしほとんどの人は、言葉を使う瞬間は、そんなこと意識しない。留美子もその類の人種なのだろうか。

 誰だって昨日と今日で言っていることが違うなんてことはよくある。言うな言うなと、自制しても、止まらないことだって往々にしてよくある。

 私だってそうだ。区別をすることに意味がないと理解していても、嫌気が指していても、私の方が、あなたの方がと比べてしまっている。

 しかし留美子は違う。どこか相手を選んでいるような、私を試しているような気さえする。存在しない一般論を、相手に合わせて存在させている、という感じ。 

 本当の彼女は一体どこにいるのだろう?

「ねえ、あれって、外川君じゃない?」

 突然話しかけられて、心臓が飛び上がりそうになった。「嘘? どこ?」

「ほら、あそこ」留美子が指をさした先、理髪店と紳士服店の間の路地裏に、男が二人見えた。一人は直立し、もう一人は紳士服店の壁にもたれかかっている。留美子が外川君と指さしたのは、シルエット的に直立している男の方だろう。

「えー。違うような気がするけどなあ」

「いや、何照れちゃってんのさー! 絶対そうだって!」

 留美子は日差しの強いこちらとは対照的な薄暗い空間に足をすべらせる。私も留美子の後を追う。道幅は一メートルないくらいだろうか。先ほどまでと同様、留美子と隣り合わせで歩くことはできたが、後ろにピッタリついていった。どうしてか私は外川君を直視することができなかった。そしてどこか嫌な予感がした。

 彼らまで残り五メートルというところで、向こうからこちらに気づいたようで、外川君がこちらをギロっと見た。

 ――外川……君……?

 私は声にならなかった。顔は確かにそう見える。身長も服装も、髪型もメガネも、いつも左手につけている数珠も同じだ。しかし、表情がまるで違う、獲物を前にした猛獣のような目つき。一度も見たことがなかった。呆気にとられた私は、思わず足を止める。

 怖い。

 それだけだった。何が怖いかはわからないけれど。もしかすると肉食動物を眼前に迎えた草食動物はこんな気持ちなのかもしれない。

 構わず留美子はグングン進み、いつものように間延びした感じで話しかけた。

「卑怯よー外川くーん! 私の哲学レポートもやってよー」

 留美子の声にビクっと体をのけぞらせた外川君は、一瞬理髪店に寄りかかっている男に目線をやり、走り出した。

 しばらく私たちだけ時間が止まっていたような気がした。

「……どういうこと……?」

 静寂を破ったのは留美子の声。あまりに低く、こちらも初めて聞く声だったが、恐怖は感じなかった。

 取り残された一人の男。私は目を疑う。

 脳が現状を認識するのに、かなりの処理時間を要しているようだった。そのうちに留美子が悲鳴を上げる。

 甲高い音でようやく、一気に読み込み、そして、周りが見えるようになった。

「外川君……」私はどうしてか、目に入っている人の状態を、信じたくないのか、どうして外川君が走っていったのだろうか考えていた。

「違うよ、みかん! アレ見てよ!」今にも泣きそうな声で留美子が叫ぶ。

 それは、私がこれまで見たどの赤よりも、赤いと感じた。そして、まったく関係ないけれど、信号機の止まれが、どうして赤色をしているのかが分かった気がした。身体がまるっきり動かない。

 血だ。

 どんどん地面を浸食し、私のミュールに今にも届きそうだ。

 理髪店にもたれかかっていた男は、左方向に傾き、ドサッという音と共に地面と接触した。カッと見開かれた目と、にやついているような口元が、異様で不気味だと思った。

「け……警察……」留美子の声に私は頷き、携帯のボタンを押そうとした。しかし指が震える。私は冷静になろうと、思いっきり空気を吐き出した。昔、持久走の時に息が苦しくなったら、吸うことではなく吐くことを意識しろ、と陸上部の同級生に教わった方法を実践した。

 緊張を吐き出すと同時に新鮮な空気が入ってくる。

 ゆっくりと、確実に1、1、0の順番に番号を押した。

 呼び出し音が二回。私は幾分落ち着いたように思えた。

 スピーカの向こうから声が聞こえる。

 私はしどろもどろになりながらも、場所と、男が倒れているという客観的な情報をしっかりと伝えた。

 そして電話を切り、改めて今起こったことを整理しようとした。

 まず二人の男が路地裏にいた。何をしていたのだろう? こういった状況で思いつくのは麻薬取引とか……。

 その一人が、外川君にそっくりだった。

 いや、そっくりどころの騒ぎではない。おそらく本人だろう。しかし、初めて見る表情をしていた。とても怖かった。

 そして留美子の言葉に驚き、この場を去った。言葉に驚いたからか? いや、そうとは限らない。むしろ声をかけられたことに驚いたようにも思える。

 確かに私と目は合った。けれど、彼がはたして私を私と認識してくれていただろうか?

 そして彼が去った後、取り残されたもう一人の男は、腹部から血を流し倒れた。

 いつから血を流していた?

 凶器は一体なんだろう? いや、その前に、誰がこの状況を生み出したか、だ。外川君か、彼自身か、それとも留美子……? 私……? いや、私でないことだけは分かる。無意識下で行動したことはこれまでに一度もない。もちろん今回も例外ではない。外川君や留美子がやったというのは考えたくない。できれば彼の自殺であってほしい。私は強くそう思っていた。

 根本的に違う可能性もある。事故だ。

 私は上を仰いでみた。両隣の紳士服店と理髪店の建物の屋上で耐震工事などの工事が行われている可能性もあると思ったからだ。しかし私の目にはこの路地裏という空間の薄暗さとは対照的に明るい空が映されただけだった。

 続々と野次馬が集まってくる。

「みかん。気分悪い。ちょっと道に出よ」

「うん」

 私は短く応え、口元を押さえている留美子の肩を支えながら、人ごみをかき分けた。

 紳士服店の隣の、レディース専門店の前に腰を下ろす。店員も何事かと野次馬の方をずっと見ており、私たちが店の前で座っていることなんて気にならないようだった。

「大丈夫? 留美子?」

「多分」

 多分か、便利な言葉だ。この場に相応しくないくらい私は落ち着いていた。あの場所に、パニックを置き忘れてきたかのようだ。もしかすると、全てのパニックを使い果たしたのかもしれない。次に使うためには、ポイントを貯める必要があるかも。

「吐きそう?」

「うん」

「あ、ここはマズイね」

 私はトイレを借りることができないか、レディース専門店の店員に確認をとることにする。

「警察の人たち、まだ来ないのかな?」留美子はポツリと言った。

 ……警察?

 そういえば留美子は、救急車ではなく、警察を呼ぶように私に言った。

 どうして? あの状況で事故である可能性は結構あったはずなのに。

 あの時は気が動転していて、全然気がつかなかった。

 ああ、違う。

 救急車は留美子が呼んでいたはずだ。

 きっとそうだ。私が電話をしている間、留美子も何か話していた気がする。

 考え過ぎか。こんな状況だ。どうしても変なことを考えてしまう。

「みかん! 危ない!!」

 私は留美子を見た。しかし留美子は私を見ていなかった。

 ほんの刹那だったが、私は確かに見た。留美子の瞳に映る、ピンク色の車を。

 振り返っても、もう遅い。けれど、何もわからないまま、終わるのは嫌だ。

 ……留美子は……?

 ああ、そこならもう巻き込まれないか。ほんの少し安心。

 軽自動車なのに、とても大きく見えた。どうしてこんな死ぬ直前まで、私は冷静なんだろう。

 まあいっか。こういうことを考えられるのも、もう終わりなのだから。 


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