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昆陽千里行  作者: 床擦れ


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4/6

更始元年 五月中旬

 昆陽こんようかえってから、ちゃんと休息を取るように、周りには伝えてあった。

 しかし、そうはならないものである。

 夜、二更にこうないし三更さんこうの頃合い、城内が騒がしくなった。劉秀りゅうしゅうまくらに頭していたが、起こさざるを得なくなった。

 声の方へと向かう。諸将が寝ている宿舎しゅくしゃへとおもむくと、ほとんどの兵が右往左往していた。中には劉秀りゅうしゅうの姿を見て、どもりながら散っていく者共も居た。

 もとどりの辺りがかゆい。爪を突っ込み、こすって、少しまぎらわせてから、原因を探ろうと考えた。

「将軍、将軍」

 そう繰り返しながら、近付いてくる者がいる。

 劉秀りゅうしゅうは、まだぼやけていたまなこを開いて、彼を見た。

 王常おうじょうである。はいにまでせ、汝南じょなんを通り、昆陽こんようへと入城していた。もしかしたら、いま劉秀りゅうしゅうの近くにいる人の中で、最も豪胆ごうたんかもしれぬ人である。

 劉秀りゅうしゅうは応じた。そして王常おうじょうが言うには、劉秀りゅうしゅうの配下というよりも、別の方面で指揮をしていた将士しょうしが、各々(おのおの)逃散とうさん吹聴ふいちょうした結果なのだ、という。

妻孥さいどが、心配だそうです」

 そう伝えられた。劉秀りゅうしゅうは少し天をあおいで、また王常おうじょうへと視線を戻した。

 城門にかんぬきを噛ませておくように、と告げた。そんな事をしても良いのか、彼らも正直なだけでしょう、などと王常おうじょうからは言われたものの、劉秀りゅうしゅうからは、これは是非ぜひでなくて、混乱のままに開門すれば、けつそのものであるから、などと理由を付加した上で、門へとはしらせた。

 陽関ようかんむらからかえってきてより、都合つごう二日である。数千を引き連れていたが、急行で往復七日ばかりであるから、ちょうど今、新軍しんぐん汝水じょすいまたぐ頃合いではないか。

 王常おうじょうかくして、劉秀りゅうしゅう馬丁ばていを呼んだ。

 書簡しょかんは持たせない。伝通でんつうをして貰いたい訳では無い。ただ汝水じょすいの辺りにまで行って、あるいはその前でも、新軍しんぐんうかがえる程度まで行って、ちょっとでもえたらかえってきて欲しい。

 劉秀りゅうしゅうから、馬丁ばていへと伝えた命である。よろいを着たい、と馬丁ばていから申し出されたが、着けさせなかった。如何いかんとせよ、はやいほうがいのだ。

 馬丁ばていは、昆陽こんようの城から出た。王常おうじょうが、かんぬきを噛ませる前であった。

 今、劉秀りゅうしゅうにできる仕事は、これが全てであろう。

 まだ、妻孥さいどうれえる声は咻々(きゅうきゅう)としている。劉秀りゅうしゅうが元々(ひき)いていた他に、後から昆陽こんようで合流した緑林りょくりん含め、合わせて八千ばかりの、兵の声である。

 劉秀りゅうしゅうは、己のねどこへ戻った。今やる事とえば、しっかり休んでおく、それだけであった。

 翌朝になると、城内は喧々囂々(けんけんごうごう)といった具合になった。

 城から出て、家族に会いたい。なのに何故なぜかんぬきが掛けられているのか。卒伍そつごばかりでなく、将とされている者たちまで、一斉に怒気を発している。

 劉秀りゅうしゅうは、よく眠れていた。

 少なくともあしたまで、意識はどこかへ飛んでいた。

 駆け込んできた王鳳おうほうという将は、己が兵の代表である、という顔をしている。

「将軍は、今をお忘れか」

 叫びはしないが、のどかすれるような声であった。劉秀りゅうしゅうからすれば、こういういかり方は怖いものである。個人ではない、と感じるのだ。

 とりあえず座れ、と劉秀りゅうしゅうむしろを差し出した。王鳳おうほうも、意図は存ずる所であったのだろう。すんなり、その上へ腰を下ろした。

「妻と、子がいるのです。会わせぬとは、どういうおつもりか」

 劉秀りゅうしゅうは目をつむりながら、聴いている。王鳳おうほうは、寝惚ねぼけるな、という叱呵しっかをしていたが、寝ている訳では無い、ちゃんと言ってくれれば良い、と伝えた。

「申し上げますがな。我らもかん復興ふっこうの為とはいえ、もとはいち農奴のうどでもあったりする。本当は帰農きのうしたいという者も居るのです。そういう者にとって、天涯てんがい孤独こどくは辛い。その事は、よくよく案じて頂きたい」

 それは切実なものである、全くその通りであると、劉秀りゅうしゅう相槌あいづちを打ち続けた。

 ただ、その点でえば劉秀りゅうしゅうにも、家族を数十人殺されたのだ、という強力な過去があった。

「だから、帰らせるのです」

 王鳳おうほうは頭を下げた。劉秀りゅうしゅうは、下げなかった。

 王鳳おうほうの頭が上げられ、顔がうかがえるようになると、のぞかれもしなかったことに、彼は憤懣ふんまんしているようであった。

 劉秀りゅうしゅうは、諄々(じゅんじゅん)と説いた。

 既にえん定陵ていりょう、そして昆陽こんように元々あった穀糧こくりょうは、尽き掛けている。外寇がいこうは強大であって、まずは力をあわせてふせぎ、功績を立てるべきなのだ。分散すればせいともにできない。わが兄の劉縯りゅうえんが、えんを抜けたとも聞かず、お互いに救け合う情勢に無く、もしも昆陽こんようが敗れたなら、一日の内に諸処しょしょ撃破されるのみ。ここで一心に、功名を共に挙げようとしなければ、妻子も財物も、守ることはできるだろうか。

 しかし、王鳳おうほうは、そして野次馬やじうまに聞きつけてきた諸将は、一斉に怒号を挙げた。

 ならば、死ねというのか。寡婦孤児かふこじを増やすというのか。えてそうしよう、と言うのなら、将軍を殺してでも昆陽こんようから出る、とまで言い出す者が居る。

 きっと、同じ立場なら、己もこう言うのだろうなあ、などと劉秀りゅうしゅうは思っていた。

 加えて、騒がしくなった。

「将軍、大変です。新軍しんぐんがそこに」

 どうしたのか、と聞くと、城外にひとえを着た馬乗りが、大軍がすぐ其処そこに迫っている、と叫んでいるのだという。

 劉秀りゅうしゅうは、城に入れろ、と伝えた。入ってきたのは、果たして先に放った馬丁ばていで、彼の口から、城北じょうほく数十すうじゅうの軍、陣尾じんび果て無しなどという言葉が、矢継やつばやに出てきた。

 意外と早かった、などと、劉秀りゅうしゅうは思っている。汝水じょすい新軍しんぐんの百万にとって、さして問題にならなかったらしい。

 とたん、静寂せいじゃくとなった。

「将軍、逃げられぬのでは」

 誰かのつぶやきに、劉秀りゅうしゅうはこくりとうなずいた。

けいは」

 また、誰かが言った。劉秀りゅうしゅうはそれにも、うなずいた。

 そういえば財宝の中に、きぬったはずである。すみと筆があれば、それも持ってくるように伝えた。緑林りょくりんには将帥しょうすいえど、もとは農奴のうどで、字の読み書きができない者も多い。ならば文字ではなく、図をえがくのが良い。

 劉秀りゅうしゅうは、持ってこられたすみと筆を見た。そして手に取ったが、すずりが無い。すずりも持ってくるように、と劉秀りゅうしゅうは伝えた。字に馴染なじみが無ければ、これも確かに、当然であった。

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