更始元年 五月中旬
昆陽に還ってから、ちゃんと休息を取るように、周りには伝えてあった。
しかし、そうはならないものである。
夜、二更ないし三更の頃合い、城内が騒がしくなった。劉秀は枕に頭していたが、起こさざるを得なくなった。
声の方へと向かう。諸将が寝ている宿舎へと赴くと、殆どの兵が右往左往していた。中には劉秀の姿を見て、吃りながら散っていく者共も居た。
髻の辺りが痒い。爪を突っ込み、擦って、少し紛らわせてから、原因を探ろうと考えた。
「将軍、将軍」
そう繰り返しながら、近付いてくる者がいる。
劉秀は、まだぼやけていた眼を開いて、彼を見た。
王常である。沛にまで馳せ、汝南を通り、昆陽へと入城していた。もしかしたら、いま劉秀の近くにいる人の中で、最も豪胆かもしれぬ人である。
劉秀は応じた。そして王常が言うには、劉秀の配下というよりも、別の方面で指揮をしていた将士が、各々に逃散を吹聴した結果なのだ、という。
「妻孥が、心配だそうです」
そう伝えられた。劉秀は少し天を仰いで、また王常へと視線を戻した。
城門に閂を噛ませておくように、と告げた。そんな事をしても良いのか、彼らも正直なだけでしょう、などと王常からは言われたものの、劉秀からは、これは是非でなくて、混乱のままに開門すれば、闕そのものであるから、などと理由を付加した上で、門へと奔らせた。
陽関の聚から還ってきてより、都合二日である。数千を引き連れていたが、急行で往復七日ばかりであるから、ちょうど今、新軍は汝水を跨ぐ頃合いではないか。
王常に匿して、劉秀は馬丁を呼んだ。
書簡は持たせない。伝通をして貰いたい訳では無い。ただ汝水の辺りにまで行って、或いはその前でも、新軍が窺える程度まで行って、ちょっとでも瞥えたら還ってきて欲しい。
劉秀から、馬丁へと伝えた命である。甲を着たい、と馬丁から申し出されたが、着けさせなかった。如何とせよ、疾いほうが善いのだ。
馬丁は、昆陽の城から出た。王常が、閂を噛ませる前であった。
今、劉秀にできる仕事は、これが全てであろう。
まだ、妻孥を憂える声は咻々としている。劉秀が元々率いていた他に、後から昆陽で合流した緑林含め、合わせて八千ばかりの、兵の声である。
劉秀は、己の牀へ戻った。今やる事と謂えば、しっかり休んでおく、それだけであった。
翌朝になると、城内は喧々囂々といった具合になった。
城から出て、家族に会いたい。なのに何故、閂が掛けられているのか。卒伍ばかりでなく、将とされている者たちまで、一斉に怒気を発している。
劉秀は、よく眠れていた。
少なくとも旦まで、意識はどこかへ飛んでいた。
駆け込んできた王鳳という将は、己が兵の代表である、という顔をしている。
「将軍は、今をお忘れか」
叫びはしないが、喉が掠れるような声であった。劉秀からすれば、こういう嗔り方は怖いものである。個人ではない、と感じるのだ。
とりあえず座れ、と劉秀は蓆を差し出した。王鳳も、意図は存ずる所であったのだろう。すんなり、その上へ腰を下ろした。
「妻と、子がいるのです。会わせぬとは、どういうおつもりか」
劉秀は目を瞑りながら、聴いている。王鳳は、寝惚けるな、という叱呵をしていたが、寝ている訳では無い、ちゃんと言ってくれれば良い、と伝えた。
「申し上げますがな。我らも漢復興の為とはいえ、もとは一農奴でもあったりする。本当は帰農したいという者も居るのです。そういう者にとって、天涯孤独は辛い。その事は、よくよく案じて頂きたい」
それは切実なものである、全くその通りであると、劉秀は相槌を打ち続けた。
ただ、その点で謂えば劉秀にも、家族を数十人殺されたのだ、という強力な過去があった。
「だから、帰らせるのです」
王鳳は頭を下げた。劉秀は、下げなかった。
王鳳の頭が上げられ、顔が窺えるようになると、覗かれもしなかったことに、彼は憤懣しているようであった。
劉秀は、諄々と説いた。
既に郾や定陵、そして昆陽に元々あった穀糧は、尽き掛けている。外寇は強大であって、まずは力を併せて禦ぎ、功績を立てるべきなのだ。分散すれば勢を倶にできない。わが兄の劉縯が、宛を抜けたとも聞かず、お互いに救け合う情勢に無く、もしも昆陽が敗れたなら、一日の内に諸処撃破されるのみ。ここで一心に、功名を共に挙げようとしなければ、妻子も財物も、守ることはできるだろうか。
しかし、王鳳は、そして野次馬に聞きつけてきた諸将は、一斉に怒号を挙げた。
ならば、死ねというのか。寡婦孤児を増やすというのか。敢えてそうしよう、と言うのなら、将軍を殺してでも昆陽から出る、とまで言い出す者が居る。
きっと、同じ立場なら、己もこう言うのだろうなあ、などと劉秀は思っていた。
加えて、騒がしくなった。
「将軍、大変です。新軍がそこに」
どうしたのか、と聞くと、城外に襌を着た馬乗りが、大軍がすぐ其処に迫っている、と叫んでいるのだという。
劉秀は、城に入れろ、と伝えた。入ってきたのは、果たして先に放った馬丁で、彼の口から、城北数十里の軍、陣尾果て無しなどという言葉が、矢継ぎ早に出てきた。
意外と早かった、などと、劉秀は思っている。汝水は新軍の百万にとって、さして問題にならなかったらしい。
とたん、静寂となった。
「将軍、逃げられぬのでは」
誰かの呟きに、劉秀はこくりと肯いた。
「計は」
また、誰かが言った。劉秀はそれにも、肯いた。
そういえば財宝の中に、絹が在ったはずである。墨と筆があれば、それも持ってくるように伝えた。緑林には将帥と謂えど、もとは農奴で、字の読み書きができない者も多い。ならば文字ではなく、図を描くのが良い。
劉秀は、持ってこられた墨と筆を見た。そして手に取ったが、硯が無い。硯も持ってくるように、と劉秀は伝えた。字に馴染みが無ければ、これも確かに、当然であった。




