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「………はい?」
あまりに唐突で、そして現実感の無いフェルマーの言葉をアルは呆然と聞いていた。
しかし首筋に伝わる冷たいナイフの感触がこれが夢では無いと告げている。
「えっ? 冗談ですよね?」
そんな訳は無い。
貴族の、それも年端もいかない子供の首筋にナイフを当てるなんて冗談で済まされる事ではない。それでもアルは聞かずには居られなかった。
「私が冗談でこんな事をすると思いますか?」
「………思わないです。でも、何故…?」
この期に及んでアルの頭に浮かぶのは『何故?』だった。こんな事をして一体何の得が有るのか全く分からなかった。
そしてその『理由が分からない』という事が、アルに初めて『恐怖』という感情を芽生えさせた。
「わ、私を殺してしまったら交渉どころじゃなくなります。か、街道の利益も兵の派遣だって…それ以前にヘ、ヘイルムーンとヴァイツェッカーの関係が…いや、その他にもいろいろと、えっと―――」
アルは必死に自分を殺してしまったらヴァイツェッカーの不利益になると説明し、その根拠を次々と上げる。しかし焦りからかしだいに早口になり支離滅裂になっていた。
「君は頭が良い。だが知っている世界が狭すぎるな」
そんなアルを見透かしてかフェルマーは薄く笑う。
「ここは『ヴァイツェッカー領の城』だ。君と事務官、そして付き添いのヘイルムーン兵10人以外は全て私達ヴァイツェッカーの味方だ。隠蔽などどうとでも出来る」
―――例えばこんなのはどうかな?とフェルマーは前置きし、恐ろしい計画を話し始めた。
「君の首を斬り、すぐさま部屋にいる事務官を始末する。そしてこちらが用意した部屋に詰めているヘイルムーン兵の寝込みを襲い皆殺しにする。死体を全て馬車に積み、領境を超え『ヘイルムーン側に』棄てる。死体は野生の獣に良いように喰い散らかされるだろうね」
アルは自分の体を獣に貪られる光景をありありと想像してしまい、ごくりと唾を飲んだ。こんな時ばかりは自分の豊かな想像力が恨めしい。
「帰りの遅い君達を心配したディルトラント殿が捜索し、変わり果てた遺体を見つけるだろう。しかしそこで我らはこう言うんだ『アルフリート殿一行は無事訪問を終えられ、しっかりとヘイルムーン領まで送らせて頂いた』とね」
「ち、父は必ず疑います。そんな事件が起これば王家だって調べに来るかも…」
「そうだろうね。だが証拠は無い。それに―――」
フェルマーは感情の籠もっていない、まるで波の無い湖面のような静かな目でアルを見下ろす。
「君が『死んだ後の事』を心配したって、君には意味が無いだろう?だって君はもうこの世に居ないのだから」
「…っ!」
その冷たい視線に晒されたアルは背筋を凍らせ、言葉を詰まらせる。鼓動が早鐘を打ち、呼吸が浅くそして早くなる。しかし何とか気力を振り絞り声を出す。
「な、なぜ…何故そんな事を…いったい何の理由があって………」
自分が殺される理由も知らず、それにどんな意味が有るのかも分からない。そんなままでは死んでも死に切れない。
せめて、せめて理由だけでも…と震える声でアルは問いかけるが、フェルマーは表情を変える事はなかった。
「そこだ。そこだよアルフリート君。君は『何か理由が無いと自分は殺されない』とでも思っているのかい?随分とおめでたい頭だな」
「えっ…!?」
「君は野生の獣に襲われた時、もしくは行きずり野盗に襲撃された時もそう言うのか?」
「それは…今とは状況が―――」
野生の獣に「なぜ襲うのか」と聞いたところで答えは無いだろう。もし話せたとしても「腹が減ったから」と答えるだけだろうが。
野盗にしたって同じだ。
金目の物が欲しいから、もしくは貴族の子供を捕まえて身代金を奪おうとでも思ったか。そんな程度だろう。
それは別にアルフリート・ヘイルムーンだから襲った訳では無い。ただそこにいただけ、偶然出会っただけという単純な話だ。
「私が何かの利益の為に君を殺そうとしていると何故考える?ただ『気に食わない』からだと何故思わない?」
「そ、そんな理由の訳が!」
「絶対にそうでは無いと言い切れるのか?私の事を何も知らない君が?」
フェルマー、フェルトマイト・ヴァイツェッカー。
ヴァイツェッカー家の嫡男で元国境警備隊に所属し、50人隊長を任せられている。身分を隠して軍に所属しているが、部下との関係は冗談を言い合えるほど良好。同じく軍に所属する弟と、フレイニーヤという妹がいる。
アルが知っているのはこの程度。ほとんど上辺だけの情報で、その内面は全く分からない。人当たりの良い笑顔の下で彼が何を考えているかなんて知りようがない。
「人が人を殺す理由なんてほとんどが怨恨だろう。綿密に計画を立て、自分が疑われないようにする者もいれば、衝動的にその場の勢いで殺してしまう者もいる。もちろんそんな者はすぐに捕らえられ、極刑に処されるだろうがね。しかし君を殺した者がその後どうなろうが『死んでいる君』にはもう関係ない事だ」
「関係ない…?」
「貴族同士の抗争だろうが、場末の酒場での喧嘩だろうが、荒野で狼の群れに襲われようが『死ぬ』という結果が同じなら、死んだ者にとってその過程に意味は無い。死んだらそれで終わりだ」
「………」
確かに死んだら終わりだ。
殺した相手にどんな理由や思惑が有ろうが、殺された側にはもう知りようが無いし出来る事も無い。
「君のように利害や損得、理屈で固めて身を守るやり方は、同じように理屈で行動する者には有効だろう。しかしそれが通じない者には全くの無力だ」
フェルマーの話を聞くうちにアルは次第に冷静さを取り戻し、客観的にこの状況を見れるようになってきた。
フェルマーは何故こんなに悠長に喋っているのか。
会談の準備が整えばヴァイツェッカー卿が中庭に人を寄越すと言っていた。それがいつ来るか分からないが、そんなに時間が掛かるとは思えない。
ヴァイツェッカー家の者はフェルマーの言う通り彼に味方するだろう。
しかしだからと言って子供の首筋にナイフを当てている場面に出くわして何もしないというのは考えにくい。取り敢えずは止めに入ったり、何事かと聞いてくるのではないだろうか。
(ヴァイツェッカー卿もグルで俺を殺す気だった?…いや、もしそうなら書庫に行くように勧めてフレイさんに会わせようとはしないはず。フレイさんとの仲を取り持とうとしているメイベラージュ様もそうだ。だったらこれはフェルマーさんの独断?)
「君は初めからそうだった。わずか10人の、兵とも呼べないような者達だけを連れてここまで来た。出迎えたのはヴァイツェッカーの精鋭20人の兵だ。もし初めから私が君を殺す気だったら瞬く間に皆殺しに出来ただろう」
「………」
確かにその通りだ。兵の質が明らかに違ううえに人数も倍の20人、ヴァイツェッカーの兵に本気で襲い掛かられたらひとたまりも無い。
無事にこの城までたどり着いたのはヴァイツェッカー側にその気が無かっただけという結果論だ。そんな事は会うまで、いや会ったとしても分かりはしないだろう。
アルも、そして送り出したディルトも、ヴァイツェッカーがそんな事をする訳が無いと一方的に信用していただけだ。
「それだけじゃない。移動中に狼にでも襲われたらどうする気だった?放棄された砦に野盗が潜んでいたら?………君が今生きているのは狼に出会わなかった、野盗が居なかったという『偶然』でしかない」
移動中警戒はしていた筈だが、実際狼に襲われたらどうなっていただろうか。砦を調べた時もたった1人の兵が探索しただけで、実際に野盗が潜んでいたらと考えると今更ながらゾッとする。
始めから『居る筈が無い』と決めてかかって行動していた。
「今もそうだ。今日初めて会っただけの男を信用し、こんな人気の無い場所まで一人でのこのこと付いてくる。その結果がこの状況だ」
「…つまり、自覚が。危機感が足りないと」
フェルマーの意図がようやく読めて来た。
何故こんなに長々と周りくどく、今回のアルの行動が不用意で無警戒だったのかと丁寧に説明しているのか。
そう、説明しているのだ。
もし本当に殺す気なら「ここで死んでもらう」なんて宣言せずに問答無用で首を掻き切ればいい。
長々とこの状況に陥った理由を説明するなんて意味の無い事をする必要も無い。
「…自分が迂闊で浅はかでした。今までどれほど自分の周りが平和だったのか、そして守られていたのかを思い知りました」
「………」
アルは理屈で固め、利益によって自らの身を守っていた。損得勘定で『こいつは使える』と相手に思わせる事で十分だと考えていたのだ。
しかしこの世界はそんなに甘く無い。
相手がアルに対して脅威を感じたり、こいつは邪魔だと思えば『暴力』によっていとも簡単に排除出来てしまう状況だった。
現にフェルマー1人でアルは命の危険に晒されている。
身の回りには危険が無数に潜んでおり、人の命は想像以上に軽い。
アルは現代日本で病気による『ゆるやかな死』しか経験した事が無かった。理不尽な暴力はもちろん他人の悪意や、まして殺意に晒された事も無い。
こちらの世界でも幸いまだそんな経験は無かったが、それは大人達に守られていたからであり、そしてただ単純に運が良かったに過ぎない。
薄いヴェールの向こう、アルがまだ知らないこの世界は理不尽な死で満ちている。
「私は世界を知りませんね…。私の周りの平和な世界が、どこまでも地続きで繋がっているのだと勝手に思っていました」
「………」
フェルマーはアルの首筋に当てていたナイフをそっと離した。見るとナイフの刃ではなく、背を当てていたようだ。
「どうやら理解して頂けたようですね。重ね重ねのご無礼、どうかお許し下さい」
フェルマーは一歩後ろへ下がり、深々と頭を下げた。その姿を見たアルは慌てて押し留める。
「フェ、フェルマーさん!許すも何も感謝しか有りませんよ。そりゃ最初は殺されるかと思って情けなく取り乱しましたけど…」
ははは…っとアルは力無く笑い、かき抱くように自らの両腕をかかえた。長い時間夜風に当たっていたので少し肌寒くなって来たようだ。
「中に戻りましょう。そろそろ誰か呼びに来てくれる筈です」
「あ、はいそうですね」
フェルマーに促されて城内に戻ったアルは大きく安堵の息を吐いた。そうするとようやく緊張が解けたのか足がガクガクと震え出してしまう。
もうフェルマーには色々とバレているだろうから今更見栄を張る必要も無いか…と開き直ったアルは両足をさする。
「そ、そう言えばずいぶん遅いですね。部屋の準備なんてすぐに終わりそうな物なのですが………あっ、何か話があるんだろうとヴァイツェッカー卿が気を使ってくれたのでしょうか」
「えぇ私が父に言って時間を作って貰いました。会食の後に話し合いが有るのは分かっていた事ですし、部屋の準備はすでに終わっていますよ」
「うぅ、まんまと手のひらの上ですね…」
交渉や腹の探り合いはまだまだ未熟だとアルは痛感する。
しかしそれを利用しようとせず、むしろ気付かせ成長する機会を与えてくれたフェルマーには心から感謝した。
もちろんフェルマーにも思惑は有る。
この交渉で手玉に取り、一時の利益を得る代わりにアルに不信感を抱かれるより、恩を売ってこれからも良い関係を築く方が有益だと考えたのだろう。
彼もアルと同じく利害や損得、理屈で動く人間だったのだ。
だからこそ分かり易いとも言える。アルが利益を示し続ける限り、彼に裏切られる事は無い。
それが無くなればあっさりと見限られるだろうが。
「ところで先ほどから私を全く警戒していませんが、教訓はもう忘れてしまいましたか?」
「い、いえまさか!そんなすぐに忘れるわけないじゃないですか!」
「そうですか、それは良かった。盲目的に私の事を信じ、警戒心を忘れていたら『思い出させて』あげようと思っていたのですが、必要無さそうですね」
「と、当然ですよ!冗談だと分かっていてもナイフを当てられるのは心臓に悪いです!」
正直すっかり安心し、アルはフェルマーを信じ切っていた。だが最後にもう一言『警戒心を忘れるな』という忠告を受け姿勢を正す。
しかしアルの心の中では完全に『フェルマーさんは教え導いてくれる俺の味方!』という位置付けが出来上がってしまっていた。
それを覆すのは容易な事ではなく、そしてそれこそがフェルマーの真の目的だった。
「流石に同じ手は二度と使いませんよ。まぁ妹に近づく悪い虫や、悲しませるような輩には容赦無く『刃』を当てますが」
「あはは、それは怖い冗談ですね」
場を和ませるフェルマーの冗談だろうとアルは笑い飛ばす。フェルマーも目を細め低く笑うが、何故か空気が重々しい。
「………」
「………」
ナイフを首筋に当てられていた時よりも圧力を感じるのは気のせいだろうか…
「えっ? 冗談ですよね?」
「私が冗談でこんな事を言うと思いますか?」
アルはフェルマーと今日会ったばかりで、その内面は殆ど知らない。だが一つだけ分かった事が有る。
(こ、この人………)
今思い返せばフレイに『大嫌い!』と言われた時、表情が凍り付いていた気がする。
(めちゃくちゃシスコンだーーーッ!)




