17
「ふぅ…」
胸に溜め込んでいた息を吐き出し、アルは額の汗を拭う。
ずいぶんと緊張していたのか、拭った手の甲は汗でびっしょりと濡れていた。
アルの目の前には全身の毛を刈られ、さっぱりとした姿になった仔羊がいる。
だがよく見ると所々毛の刈り残しがあって斑模様になっていたり、逆に刈りすぎてピンク色の地肌が見えていたりと、お世辞にも上手く出来ているとは言い難い。
ゆっくりとそんな仔羊の様子を確認したルートが、頷きながら口を開く。
「………良し。まぁ初めてにしては上出来だ」
「よっしゃーーー!いててっ」
それまで羊を押さえ、あれこれとやり方を教えてくれていたルート。
そんな彼から上出来との評価を貰い、アルは喜びのあまり思わず両腕を上げる。だがその直後に顔をしかめて右腕を押さえた。
「うぁ~………、腕いってぇ」
ずっと重い鉄のハサミを握っていたのだ。アルの幼い指と二の腕はぷるぷると痙攣し、動かそうとすると鈍い痛みが走った。そしてその拍子に手に持ったままだったハサミを取り落す。
手のひらを見てみると親指の付け根あたり、ハサミを握っていた場所がずる剥けていて血がにじんでいた。
「ほら無理すんな、初めはみんなそうなるもんだ。後は任せてお前はちょっと休んでろ」
「………うん、わかった。そうする」
落ちたハサミを拾って仔羊に向くルートの言葉に、アルは軽口も叩かず素直に従う。こんな状態では手伝いなんて出来ないと分かっていた。
仔羊はこれからルートによって毛を綺麗に整えられるのだろう。はっきり言ってしまえば2度手間、アルの後始末、アルの尻拭いだ。
自分は果たして手伝ったと言えるのだろうか?むしろ邪魔だったんじゃないのか…とアルは不安になってしまった。
ルートからは上出来と言われたが『初めてにしては』とも言われているし、控え目に見ても甘すぎる評価だろう。
流石に『もう一人前だ!次からは一人で出来るな!』なんて言われるとは思っていなかったが、自分の頭の中のイメージではもっとスマートに、上手に出来ると勝手に思っていた。
なので実際にやってみて、現実と想像のギャップに戸惑ってしまった。
5才の子供が、しかも生まれて初めてやる作業だ。普通に考えれば上手く行かないのが当たり前なのだが。
「アル」
そんな事を悶々と考え、言葉少なくその場から立ち去ろうとしていたアル。そこにルートが声をかけて足を止めさせた。
「………よくやったな。来年も頼むぞ」
「っ!」
振り向くとアルに背中を向けたままのルートが、作業をしながらぶっきらぼうに『来年も』と言ってくれた。
「おう!来年もまた教えて!」
素っ気ない言葉だが面と向かってでは照れ臭かったのだろう。それはアルも同じだったので、ルートの背中に向かって素直な言葉で答えられた。
だがやはり恥ずかしかったのか、その耳は赤く染まっている。
まだまだ一人前には程遠いが、取りあえずのスタートラインには立てたようだ。
(うえへへ、褒められるとやっぱり嬉しいね!これから少しずつ羊の世話を覚えて、立派な大人の男になってやる!)
と腕の痛みも忘れ、鼻息荒くずんずんと歩き出すアル。
すると隣で同じように毛刈りをしていたグループから、アルと同じくらいの年齢の子供が立ち上がり腰に手を当てて伸びをするのが見えた。
「よぉ」
ばっちり目が合い、アルに声を掛ける少年。
「っ!? よ、よぉ………」
(な、何で俺話しかけられてるの?これどういう状況!?ってか誰だっけ!?知り合いじゃないよね!?)
アルは少年に見覚えが無いかと観察しながら必死に記憶を探る。
背はアルよりも少し高く、体つきもわりとがっしりとしている。短く切られた髪と活発そうな瞳ははしばみ色で、アルの事を興味津々といった様子で見つめている。
ルート以外から話しかけられる事なんて滅多に無い事だ。しかも同年代の子供からとなるとほぼ記憶に無い。だがどこかで見たことが有るような気もする。
(えーっと確か、そう確か。俺と同い年の5才で、子供達にレイと呼ばれていた子………だったと思う。自信ないけど)
子供達のグループの中でもわりとやんちゃな子、というか悪ガキで大人に怒られているのを何度も見た事があった。全く悪びれた様子も無くイタズラやらを繰り返していたので印象に残っている。
もちろんアルはそれを遠くから見ているだけだったので殆ど面識は無いはずだ。会話はもちろん、こんなに近くで面と向かって会ったことも無い。
「お前も今日初めてだったのか?」
おおおぉ俺話しかけられてる!とアルの頭はプチパニックだ。しかしその内心の動揺を悟られないように必死に取り繕い、何とか返事をする。
「う、うん」
よく見ると少年も痛そうに右手を押さえている。それに加え『お前も』と言っていたので、恐らくはアルと同じく今年から毛刈りに参加したのだろう。
「レ、レイ…も毛刈り、初めてだったの?」
(名前呼んじゃった!名乗ってもないのに名前呼んじゃったら何でコイツ俺の名前知ってるんだ?気持ち悪いヤツ!って思われないかな!?そもそも名前間違ってたらどうしよう!?)
「あれ、オレの名前知ってた?話したことあったっけ」
(ぎゃぁ!馴れ馴れしく話しかけてごめんなさい!やっぱり知らないフリして初対面ですってしてれば良かった!実際話すの初めてだし俺が一方的に知ってただけだし!)
「まぁいいか。お前もここ座れよ、疲れてるだろ?」
首をひねって不思議がっていたレイだが、草の上にだらしなく足を投げ出すようにして座り、アルにも隣に座るよう促した。
「お、おぅ…」
(隣に座れって、どのくらいの距離に座ればいいの!?近すぎるとなんか気まずいし、遠すぎると避けてるみたいだし!どの位置に座るのが正解なのか分からないよ!?)
頭の中で色々な事がぐるぐると回り出すが、結局は言われるままに隣―――近すぎず遠すぎない微妙な位置に座るアル。
慣れない作業の連続で体は疲れ切っていたのか、一度座ってしまうと力が抜け、しばらくは立ち上がれそうにない。
だがそれとは逆に頭はせわしなく働き、この状況を理解しようと必死に回転、いや空回りしていた。
「…」
「…」
(き、気まずいッ!何か話すこと考えないと…!この沈黙は今の俺には辛すぎる…っ!)
アルが一人であたふたしている間に隣のレイはすっかりくつろぎ、脱力しきっていた。そして突然何かを思い出したのか懐に手を突っ込み、そこから握りこぶしほどの大きさの麻袋を取り出す。
(…袋?なんだろ?)
アルが不思議そうに見つめているとレイは袋の口をほどき、中から小さな種のような物を取り出してそのまま口にぽいっと放り込んだ。
次々と口に入れボリボリと噛み砕くレイ。
その姿をじーっと見られている事に気付くと「あぁ、これか」とつぶやき、袋の口をアルに向けた。
「ただの炒り豆だけど、いるか?」
「あ、ありがとう。ちょっと貰う」
アルは遠慮がちに袋から数粒つまみ上げ、レイと同じようにボリボリと音を立てて噛む。すると途端に炒った豆の香ばしい香りが口一杯に広がった。
「美味いなこれ!」
どこか懐かしい、豆の素朴な風味が後を引く。ほのかに感じられる塩味も疲れた体にちょうど良い。
「だろ。もっと食うか?」
「食う食う!」
思わずそう答えてしまったアルだったが、流石に遠慮なくごそっと貰ったら悪いだろうと思い、先程と同じく数粒つまむ。
「…(ボリボリ)」
「…(ボリボリ)」
あっという間に食べ終え、手持ち無沙汰になってしまうと沈黙が余計に重く感じられた。相変わらずレイは豆を食べているが、そこに会話は無い。
(あれ?さっきと状況変わって無くね?むしろ悪くなってね?どうしよう、美味しかったーとか言うべき!?でもそれってなんかもっと豆くれって催促してるみたいじゃないか!?)
チラチラと隣の様子を伺っていると、その視線に気が付いたレイは「しょうがねーな」と言いながら再び袋をアルに向けた。
その顔はどことなくほっとしたような表情をしている。もしかしたらレイのほうも会話の切っ掛けを探していたのかもしれない。
「あっ!べ、別にそういうつもりじゃなかったんだけど、ありがとう………」
「遠慮すんなよ。ほら手出せ、手」
また豆を摘まみ上げようとしたアルだが、レイに促されて手の平を出す。するとニヤリと笑ったレイが豆の入った袋を突然逆さにして中身をぶちまけた。
「おりゃ!」
「うわ!?多いよ!ちょっと落ちたし!」
もちろんアルの小さな片手では収まりきらず、慌てて両手で受け止める。
「あっはっは!引っかかったな!変に遠慮してるからだぜ、ほら半分にしようぜ」
アルは大笑いしているレイに豆を半分返し、地面に落ちてしまった物をぶつぶつと文句を言いながら拾う。
「まったくもう、びっくりしたよ!落ちた豆これで全部?もっとあったような気がするけど…」
「少しぐらいいいじゃん。きっと来年芽が出るぜ」
「あ、それもそうか………って、炒ってあるから芽出ないよね!?」
「じゃあきっと羊か他の動物が食べるさ。気にすんなよ」
レイはそうカラカラと笑いながら一気に豆を頬張る。
「適当だなぁ…」
そんなレイを見ながらアルも豆を食べ始める。
不思議とさっきまでの緊張は消え、自然に話すことが出来た。
「この豆すっごく美味いんだけど、どこで作ってるの?」
「ん?ウチの庭の畑だぜ。お前のとこは作って無いのか?」
「あー、野菜は何種類かあったけど、豆は無かった気がする。こんど頼んでみようかな」
「煎っておけば日持ちして便利だからなー。多分ほとんどの家で作って食べてると思うぜ。パンは贅沢品だからなー」
「う、贅沢品………か」
村人達の家には庭があり、そこに小さな畑を作ったり鶏等の家畜を飼育したりしている。小さな畑なのでその収穫量は微々たる物だが、それらは『庭の中で作られる限り』彼ら個人の物だ。
自分達で食べるのは勿論、物々交換や売ってお金に換えることだって許されている。
それとは違い、黒麦を作っている広大な畑は領主の物だ。
麦畑は村人全員で管理し、出来た作物は一旦全て穀物庫に納められる。そこから領主の取り分と税でごっそり抜かれ、残った黒麦はようやく領民達の元へ届く。
作っているのは彼らなのに、その口に入るのはごく僅かだ。
5年間の税の免除があるため国に納税するのは来年からなのだが、とある理由からこの5年間、本来の納める量より少ないが『税』として麦を抜いている。このことはちゃんと領民達とディルト、フィン達事務官で話し合って決めた事だ。
西方辺境領では白麦パンが贅沢品で黒麦パンが毎日普通に食べられていたのに、ここヘイルムーンではその黒麦パンですら毎日毎食という訳にはいかない。
アルもその事は知っていたし、ディルトだって領民達の現状を何とかしたいと思い領主として行動を起こしている。しかしまだ5才の子供でしかなく、何の力もないアルには出来る事なんて何も無い。
(………いや、俺にも出来ることはある。文字通り『芽』が出たばかりだけど成果も上がり始めている。早く何とかしないと、近い将来―――)
「そういや知ってたみたいだけど、一応自己紹介な。オレはレイロフ。レイでいいぜ」
思考の海に深く沈んでいた所をレイの言葉で引き上げられた。
何を言われたのか一瞬分からず、ぽかーんとしてしまったが自己紹介されたのだと気付くと慌ててアルも名乗る。
「お、おぉぉ俺はアルフリート………。ア、アルでいいよっ!」
「おう、よろしくな。アル」
「よ、よろしく!」
右手を差し出し握手を求めてくるレイ。アルは慌てて手の平を服で拭い、おずおずと手を握る。
するとレイの口がニヤリと形を変え、手の中で何か『むにゅん』と感触がした。しかもそれがもぞもぞと蠢く。
「うぎゃー!」
突然の事に驚き、弾かれたように離した手には緑色の小さな生き物がひっ付いていた。
「うわカエルだ!?このヤローびっくりしただろーっ!」
「あっはっは!」
カエルをぽいっと草の上に逃がし、レイに食って掛かるが当の本人はどこ吹く風だ。
ぎゃーぎゃーと騒ぎながらアルはこの5年間で初めての出来事に、そして初めての期待に胸を膨らませていた。
(と、友達に………っ!レイと友達になれるかな?なれると、いいな!)
「ほっとけば大丈夫だって言ったろ?ほら泣くなよオヤジさん。30手前なのにみっともない」
「うっうぅ、だってアルが、あるがぁー………っ!」
遠くの草むらに隠れ、そんな二人をこっそり覗いていた者がいたが、それはまた別の話。




