アイデンティティの在り処 8
私が喫茶店を出るころには、竜之内さんはもうホテルの外でした。ハイヒールでなくて本当に良かった、と自身の先見の明に惚れ惚れとしながら私は必死で大理石の床を蹴ります。突然飛び出して行った竜之内さんと、あとから走ってくる私を見て察してくれたのか、ドアボーイさんが扉を押さえていてくれていました。私は軽く一礼をしながらホテルの外に出ます。
竜之内さんは一つ先の角を曲がったところでした。
相手は男性で、しかも元陸上部です。
それでも私は、追いつけないなどとは毛ほどにも思っていませんでした。私は私を信じているのです。私は彼を救えると、そう信じているのです。
諦めるわけにはいかないのです。それは、自分のことすら否定してしまうのと同じことなのですから。
悲鳴を上げる肺や心臓に頑張ってくださいと懇願しながら、私はホテル前の道路を走ります。角を曲がった直後、死角に止まっていたトラックに衝突しそうになりました。つんのめった姿勢のまま右に避けて、そのまま地面へとダイブです。痛みを堪え立ち上がり、私は運転席を瞥見しました。
点けっぱなしのハザード。運転席にいるのに帽子を被ったままの運転手。どこかに電話をしながら私を恨めしそうに睨み付ける柄の悪い目つき。特徴の無い顔……。
まさか、と思いながら私は足を動かしました。擦りむいたのか、膝が焼けるように痛みます。
伊能に連絡する。
宇佐美社長の言葉は、五〇一号室の伊能何某とのつながりを裏付けるもの。つまり彼は、やはり伊能にストーカーを頼んでいたのです。伊能は立場的に弱い人間なのでしょう。宇佐美社長の命令には逆らえない。そしてもし仮に、あそこに駐車していたトラックの運転手が伊能だったとしたら、おそらく彼は何らかの命令を受けてあそこに待機していたと考えられます。ホテルの出口からちょうど死角になる、不自然なあの場所に。
先生は伊能さんの経歴を丸々竜之内さんの詐称に用いました。あれはきっと、宇佐美さんのシナリオにはなかったことです。あの場での会話は全て録音され、裁判の場合には公的な証拠として使われたでしょう。それ故に宇佐美社長はあえて、自分からは核心に触れなかった。上手く誘導しながら、話を有利に進めていた。
だから伊能の経歴が他の場所で使われてはならなかったのです。あくまでも彼は、伊能として存在していなければならない。そうなれば、宇佐美社長の思惑通りに事が運ぶことになる。
もしあそこで先生がアドリブを挟まなかったら。
宇佐美社長の電話。トラックで待機していた男の可能性。彼が受けていた電話の相手。
全部が私の推理通りだとしたら。
もしかしたら事態は最悪の展開を迎えていたかもしれません。
死人に口なし、です。
私は前を見ました。
大通りに向かって、竜之内さんは変わらぬスピードで走っています。
私の肺は破裂寸前で、酸素が足りないのか視界がちらついて虫が飛んでいるようにも見えます。喉が張り付きそうで、さっき転んだときに解れたのかスカートの裾がちょっと破けていて。
自分でも意識しないまま、私は自らスカートの裾を引き裂いていました。見えるか見えないかのぎりぎりで、十分な足の可動範囲が得られるところまで布を破きます。気分はチャイナドレス。これでもっと早く走れる。
あの人に追いつける。
早鐘のように打ち付ける心臓を叱咤激励して、私はさらにスピードを上げました。
ショッピングモールの横を抜け、人通りも多い国道沿いの道へ。
朦朧とする意識と暗転しそうな視界のなかで、呼吸と血流が噛みあって視野が広くなったその刹那、私は今まさに道路に飛び出そうとしている竜之内さんを捉えました。
トラック、電話、伊能、命令。
あらゆる単語が頭の中で雷光のように光っては消え全てを埋め尽くします。光の後には雷鳴が来るものです。鼓膜を破らんばかりの衝撃が、私のお腹の底から吐き出されました。
「だめぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえ!」
私の声が届いたのか、それともただの天の気まぐれか。
ぜんまいの切れたからくり細工のように、座り込むしかなくなった私の視線の先で、竜之内さんは撃ちぬかれたかのように体を跳ねらせて後ろに跳び退き、その目の前をワゴンが猛スピードで通り過ぎていき、竜之内さんはゆっくりと道路に倒れ込みました。
私は大きく息を吸い込みました。肺の中が空っぽでした。
よかった。
助けられた。
私の空っぽの肺は、安堵の気持ちでいっぱいに膨らみました。
未だくらくらする頭を抱えながら私は立ち上がりました。
あ―――。
目の前が急に真っ暗になりました。
貧血。そう思う間もなく、私は膝から崩れ落ちました。
意識を失うまでのその刹那、私は近づいてくる地面と急に止まった体を認識していました。暖かい何かが私を支えてくれているようでした。
天使だな。私はそう直感しました。
夢の中の天使は、椿ちゃんによく似ていました。




