アイデンティティの在り処 7
「それは偽装です! その手紙は、竜之内さんがちゃんと唯さんに渡した物です。ストーカーが投函して言った物とは全くの別物です」
「それがどうしてわかる」
「唯さんは竜之内さんから手紙を貰ったことがある、と証言しています。そしてそれを、中を見る前に父であるあなたに取り上げられたことも。唯さんに聞けば分かることです」
ちっ、と宇佐美社長は舌打ちをしました。
此度のこと、これはほとんど全て宇佐美社長の独断で行われていることです。当の本人である宇佐美唯さんは大まかなことしか事態を把握していません。だからこそ、そこに勝機がある。
「その後に来た手紙を、唯さんは確認せずに捨てています。全部、あなたがそうしろと言ったからです。でも、それは本当に竜之内さんが書いたものだったのでしょうか? いいえ、そもそもあれは手紙だったのでしょうか」
「何が言いたい」
宇佐美社長の眉がぴくぴくと引き攣りました。金剛力士像の顔が少しずつひび割れていくようです。
「私たちはあの夜、唯さんのポストからストーカーの投函した手紙を取り出しました。そして中を確認したところ……あれは全くの白紙でした」
「例え中身が書かれていなかったとしても、それは娘を怖がらせる行為に値する。むしろ白紙の紙の方が気持ち悪いこともあるだろう。それがストーカー行為でない言い訳にはならないな」
「ではどうして一連のことをはなから竜之内さんのやったことと決めることができたのですか? 同じ便箋を使った物ならともかく、最初の一枚以外投函された手紙は無記名無内容のものです。彼がストーカーだという決定的な証拠にはならないはず」
知らず知らずのうちに、私は饒舌になっていました。
こちらを見つめる竜之内さんが、ほっとしたような驚いたような、複雑な顔をしているのが見えました。そしてそこに、恐怖といった感情は見受けられないように思いました。
「なにより」
私はそこで言葉を切りました。
「ストーカーの住所は竜之内さんの住所とは異なっています」
「何?」
宇佐美社長の目が一瞬見開かれました。
「私たちが最初に依頼を受けたあの夜、私たちはストーカーを尾行したのです」
余計なことを、と宇佐美社長のきつい視線が、今度は先生を射抜きます。先生はそれを知らん顔で躱しました。
私は続けます。
「竜之内さんの住所は一〇四号室。そしてあの夜、唯さんのポストに手紙を入れた人物が帰っていったのは五〇一号室です。そしてその部屋に住んでいるのは宇佐美社長、あなたの子会社に勤めている男性、そうですよね」
私は勝ち誇ったように宇佐美社長を見下しました。気付かないうちに立ち上がっていたようです。
宇佐美社長は苦虫を噛み潰したような表情で、私と先生を交互にねめつけました。その横で、高野さんが固まっていました。
「美空さん」
竜之内さんが今日初めて私の名を呼んでくれました。
「君は……」
「言いましたよね? 私はあなたを信じていると」
やっと、私はそのことをもう一度竜之内さんに伝えることができました。胸のつかえがとれたような、すっとした気持ちになります。
私は腰を落ち着けました。
「惜しいですね」
ふいに、高野さんが口を開きました。
「あなたの理論はまだ甘い。本当に惜しいところまで行った」
「どういうことです」
私は攻撃的な口調で聞き返しました。
「確かに、現状手紙は証拠として力を為さない。しかしそれは、彼がストーカーでないという立場でも同じこと。今それらは、天秤の上に置かれている。どちらに動くかはまだ決まってはいないのですよ」
「そういうわけだ」
先生が足元の鞄から紙の束を取り出しました。
「ここからは僕の仕事だ」
「何をするつもりですか」
私の声に、竜之内さんがびくりと震えたのが分かりました。
「彼には竜之内くん。君の犯罪を裏付ける証拠を用意してもらっている。何も探すだけが探偵の仕事ではない、ということだよ」
まさか、と私と竜之内さんは先生のほうを見ます。
「その人にはその人に相応しいものを用意する。それが私の役目だ。全く、事を荒げなければ君も無事で済んだのに」
宇佐美さんは不敵な笑みを浮かべました。
嘘です。この人は最初からそうするつもりだったのです。
だとしたら、私はやはり宇佐美さんの思惑通りに動いてしまった道化なのでしょうか。私は、あらぬ一石を投じてしまったのでしょうか。
突然、目の前が暗く歪みました。情けなくて、涙が零れそうになります。
そして先生の瞳が鈍く光りました。
「竜之内一。現在独身。小学生の頃に家族で渡米。中学高校と現地で進学するが一八歳の時に両親を事故で無くす。これを機に日本に帰国するが、その際ある家庭と養子縁組をしている」
先生が資料を捲りました。
「ここに住民票のコピーがあります。中学時代はトラック競技に勤しむもハイスクールで挫折。そこそこ一般的なティーンエイジャーとして生活し家庭関係も上々。初めての彼女はラテン系のメリッサちゃん。そのまま順風満帆な大学生活に進むかと思いきや不幸な事故に見舞われてしまう。日本に帰ってきてからは一年で大学を中退し、その後は義父の経営する建設会社に入社。
そうですね、ここからは蛇足ですが住宅企業、林業、最終的にはホテルの経理として就職。さらに、実はこのホテルが宇佐美商事の関連子会社で、たまたまホテルに来ていた宇佐美唯に竜の内一氏は一目ぼれをしてしまうが身分違いの恋であるあまり、ストーカー行為に走ってしまう、と。こんな感じでいかがでしょう」
「出鱈目を。俺はそんな風じゃない!」
「見たでしょう? 住民票もちゃんと作ってあるのですよ」
恐れ震える竜之内さんの前に、先生が資料を叩きつけました。そこには竜之内一名義のIDが写されています。
私は目を見張りました。
「君……これはどこで?」
「僕は使えるものはもれなく使い切る立場でしてね。無礼とは承知で、予め社長のところから持ち出させていただきました。まあ、経費と言うことで。どうせ使わない戸籍なのでしょう」
余計なことを、と宇佐美社長はぎりっと歯を噛みしめていました。
「さて、竜之内くん。これで君の経歴は上書きされてしまった。平衡を保っていた天秤は君に分が悪い方へ傾いていくだろう。でも仕方がない。君が望んだのだ」
「違う、こんなの俺の歴史じゃ」
竜之内さんの声は消え入りそうでした。
「君の歴史とは何だね。それは君の来歴か? それは誰が語る。誰が語れば史実となるのだ? どの情報が正しいかなど傍目には分かり得ないことだ。それが言葉によって伝わるものならなおさらだ。確かなことはここにある。紙に記載されていることが全てで、君を成り立たせる真実だ」
「俺は……」
「違うと思うのなら、法廷でそう主張すればいい。ちなみにこれはもう役所ですり替えておいたから、そのつもりでいてくれたまえ」
「先生!」
「俺は!」
私が叫ぶのと、竜之内さんが脱兎のごとく逃げ出すのは同時でした。私が声を上げてしまったがために、周囲の反応が一瞬遅れてしまったのです。竜之内さんは我々の制止―――先生は身動き一つしませんでしたが―――を振り切って、脇目もふらずにエントランスへ走り抜けていきました。
「まずい! 私は伊能に連絡する。お前は市役所に確認を取れ」
「かしこまりました」
宇佐美社長と高野さんが慌ただしく電話を取り乱します。
「本当に余計なことをしてくれたな」
「余計? 何かシナリオでもあったのですか」
先生は涼しい顔で椅子に座っていました。そして、私と目を合わせました。影っている、けれど奥底に宝石を隠し持っているような瞳が私と対面します。
「美空君、あとは君の仕事だ」
「先生……私、今日スカートですからね」
捨て台詞を残し、私は竜之内さんの後を追いました。
あとで絶対に手当を請求してやる。
でもその前に。
なんとしても彼に追いつかなければなりません。




