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アイデンティティの在り処  作者: 日笠彰
7/10

アイデンティティの在り処 6

 午前中は身の入らないままテスト勉強をしていました。どうにか集中して単語を記憶しようと努めるものの、口にした単語は右から左へ抜けるばかりでてんで進みません。私は匙を投げました。机の上にぽいと投げたシャーペンはころころと転がり続け、端に置いていた携帯にぶつかって止まりました。

 私は一向に鳴る気配のない携帯を注視しました。

 数時間後には、竜之内さんと宇佐美社長が対面します。私は竜之内さんを信じています。どうにか彼を応援したいのですが、彼にコンタクトを取る手段がありません。事前に対策を練ろうとももう手遅れです。現地で宇佐美社長に気取られぬよう手を打たねばなりません。

 宇佐美社長は本気で竜之内さんをストーカーに仕立て上げるつもりなのでしょうか。私は頭を振ります。ここに議論の余地はない気がしたからです。あの人は本気です。あの冷たい目は、そういうことを全く厭わない人の目です。私は自分の感性に思考を委ねました。

 あの人を止めなくてはならない。

 私の投じた一石が荒波を立ててしまうことになろうとも、宇佐美社長の計画は阻止しなければならないと思いますし、そして私はその波に責任を持つつもりです。どんなことがあっても、私は竜之内さんを信じ続ける。彼を信じる私を信じる。私を信じてくれている椿ちゃんを信じる。

 結局、私は逃げているのかもしれませんね。

 私は小さくため息をつきました。

 そうは思いたくありませんが、自分に嘘はつけません。私は椿ちゃんという逃げ場ができたから自信を持って動けるようになったのかもしれない。何かあれば椿ちゃんのせいにできる。どうあがいても、やはり私は卑怯者なのです。

 でも、そんな私を椿ちゃんは信じてくれている。

 ならやはり、私は自分の道を貫かなくてはいけない。卑怯で卑劣で後ろめたいことを考えてしまうこともあるけれど、でも自分から目を背けるようなことはしたくない。土壇場で逃げるわけにはいかないのです。私は私に嘘をつかない。きっと、責任を持って果たしてみせるのです。

 私は私であるために、私らしく、信じる道を進むのです。

 あ、そっか。

 私はある一つのことに気付いてしまいました。

 うふふ、そっか。

 そういうことだったんだ。

 机上の携帯が振動をし始めました。液晶が淡く光ってメールの着信を知らせます。

 私はそれを意気揚々と確認しました。

 一五時丁度、海浜幕張のMホテルロビーへ。

 開きっぱなしだった教科書の類を鞄に仕舞い、私は身支度もそこそこに家を出ました。勉強を始める前から既に用意は万全です。あとは連絡を待つだけだったのです。海浜幕張までは少し距離がありますが、歩いていくことにしました。

 秋晴れの空は手が届きそうなほどに低くて、うろこ雲が群れを成して東に泳いでいるところでした。

 

 国道一四号を越え、さらに東関東自動車道を跨ぐ陸橋を越えればもう新都心です。

 テクノガーデンからの照り返しに目を細めながら私はMホテルを目指して歩きました。Mホテルは海沿いに並ぶ超一流のホテルには勝るとも劣らず、そこそこ格式の高いホテルです。宇佐美社長に言わせれば相応の場所なのでしょう。私たちの時とは大違いですが、此度は宇佐美社長自身も役者に含まれています。それも考慮に入れた上の選択。どこまでも自分の考えに真っ直ぐな人です。

 アスファルトだった地面が大理石へと変わります。制服をきっちりと着込んだベルボーイが私を一瞥し、それから恭しく頭を下げました。そしてようこそ、と品のいい笑みを浮かべて、青年は硝子のドアを開けて私を待ってくれました。

 何という高級感。

 私も一礼しながらロビーへ入りました。

 落ち着いたピアノの演奏が私を迎え入れました。

 足元の大理石はぴかぴかに磨き上げられ、柱は頬ずりをしてしまいたいほどに滑らかです。鏡でもないのに、うっすらと人の影が映っています。私はすぐ横にあった大理石の柱を手で撫でながら天井を見上げました。すると、中世の宮殿にありそうなシャンデリアが荘厳な輝きを放ちながら、吹き抜けの天井に吊り下がっています。私は口を半開きにしたまま立ちすくみました。

 既に格が違います。

 駅前の喫茶店とは天地の差、月とすっぽんです。むしろすっぽんすらおこがましい。タニシです。月とタニシ。

 私が底辺近くまで自分を卑下していると、やにわに背後から声が掛かりました。

「何しているのだね」

「先生」

 振り向くと、滅多に着用しないスーツでめかし込んだ先生があきれ顔で立っていました。

 黒のアルマーニに中は紫色のワイシャツ。ネクタイは一応絞めていますが襟元が緩んでいます。

 何を洒落こんでいるのだか。

 まあ、かくいう私も実はお出かけ用の服で来ています。

「時間だ。早く来たまえ」

 先生は右手に嵌めた銀色の時計を確認すると、さっさと歩きだしました。

 先生が向かった先はカウンターから見て右手、待合用の喫茶店でした。そこだけ絨毯が敷かれており、足を踏み入れると雲の上のようにふわふわとしました。吹き抜けになっている二階から硝子の螺旋階段が下りていて、どうやら二階もお店の一部の様子。私は二階に行きたかったのですが、先生はもう既に一階窓際角の席に陣取っていました。本当に隅っこが好きな日陰者ですこと。私は上からシャンデリアを覗いてみたかったのに。

「上はバーになっているのだよ」

 隣に腰掛けた私に、先生は言いました。

「未成年は駄目ですか」

「そりゃそうだろうが……ふむ、今日の君の服装ならあるいは大丈夫かもしれないね」

 先生は顎を触りながら、値踏みするように私を見ます。

 今日の私は緑のワンピースにカーディガンという落ち着いた雰囲気を演出しています。これにハイヒールも合わせれば大人っぽさがぐっと出たと思うのですが、ここまでの移動を考えてそれは断念。非常に残念。

「そんなに大人っぽいですか」

 いつまでもしげしげと私を見つめている先生に、私は流し目で答えます。いつもより上から目線の気分です。

「しゃべらなければ十分見える」

「どういう意味ですか」

「自分で考えたまえ。さあ、ほら。無駄話は終わりにしよう。メインキャストの登場だ」

 硝子窓の向こうを黒塗りのベンツが通り過ぎていきました。エントランスの前で止まると、後部座席から仕立ての良い鼠色のスーツに身を包んだ宇佐美社長が降りたちました。びっしりと髪をポマードで固め、余裕ある笑みを浮かべてこちらに向かってきます。

「おや、宇佐美さんは一緒ではないのでしょうか」

「仮にも娘のストーカー犯人と会うのだ。被害者である娘同伴と言う訳にはいかないのだろう」

「でも宇佐美さんは一連の張本人ですよね」

「社長にとっては違うのかもしれないさ」

 宇佐美社長の後ろからは、これまた頭の切れそうな細身の男性が降りてきました。こちらはダークスーツに黒の革鞄。頭頂部は全体的に白んできており歳も還暦を迎えようかというところ。だとすると現在舞台にいる人間の中では最年長です。見たところ宇佐美家専属の執事長というわけではなさそうです。

「弁護士だな」

「顧問弁護士というやつですか」

「不安になってきた」

 先生がそれを言ったらおしまいだと思います。

 宇佐美社長と宇佐美弁護士が入ってきたのとほぼ同時に、竜之内さんが姿を現しました。

 竜之内さんはチェックのシャツにジーパンと言ういかにもな出で立ちでした。周囲をきょろきょろと警戒しながら外を歩いています。

 私が竜之内さんに注視していると、いつの間にか宇佐美社長達がそばまで来ていました。

「今日はよき日和で」

 と先生は仰々しく礼をします。

「ふん、格好だけは一人前だな」

 宇佐美社長はそう言うと、私たちのはす向かいである、通路側の席に座りました。

「この度宇佐美様の弁護士を務めさせていただきます、高野と申します。よろしくお願いします」

「挨拶は僕でなく、彼にやったほうがいいのではないかい」

 名刺を取り出した高野さんに向かって、先生はちらりと手を振りました。訝しげに高野さんが振り返り、そして彼は視線の先に竜之内さんを見つけました。

「これは、これは」

 喫茶店の入口の、大理石の床とふわふわの絨毯のちょうど境目のところで竜之内さんは棒立ちしていました。

 緊張と、戸惑いと、義憤、疑惑、それともう一つ。

 おそらく様々な感情が彼の中で渦巻いているのでしょう。

 私がこの場でできるのは、そのうちの一つを晴らしてあげることだけです。彼の胸中にある負の感情の全てを消すことはできないけれど、せめて一つだけ、彼の恐怖心だけは癒してあげたい。

 信頼だけが、私の武器です。

 私はやっていないと言う竜之内さんを、先生を、私を信じてくれているといった椿ちゃんを、そして私自身を信じます。

「どうぞ、こちらへ」

 私は竜之内さんに笑いかけ、宇佐美社長と対面になる窓側の席を示しました。

 竜之内さんはきっ、ときつい視線を私にくれると、無言のまま席に座りました。

 今ここで直接言うことはできないけれど、伝わってくれるといい。そう思いながら、私も腰を下ろしました。

「全員揃ったようですね」

 高野さんが口を開きました。

「この度宇佐美様の弁護士を務めさせていただきます、高野と申します。どうぞ、よろしくお願いします」

 高野さんは人数分の名刺を取りだし、それぞれに渡しました。

「さて、本日の会談は全て録音させていただきますがよろしいですかな」

「俺は構わない」

「どうぞ」

 先生が小さく顎を引きます。

 話し合いの始まりです。

「どうも。それでは、今日は示談ということで」

「示談も何も、僕は何もしていない!」

 開口一番、竜之内さんが高野さんを遮りました。当の高野さんはにこやかな表情を崩さないままで、一方宇佐美社長はふんぞり返り眉間に皺を寄せています。社会科の時間に見た、金剛力士像を私は思い出しました。

「俺は俺の無実を証明するためにここにきた。話はそこにいる子から全部聞いている。お前らのやっていることは犯罪だ。そっちがこれ以上何かしようと言うのなら、俺にだって訴える用意がある」

 金剛力士像の目が一瞬私を睥睨しました。彼が深くため息をつくと、彫刻の様だった宇佐美社長の顔が幾分か人間らしくなりました。

「まあ、それも折り込み済みではあるが、面倒は最小限に留めておきたかった」

 眉間に皺は寄ったままです。

「いいかね、今日私たちは君と話し合うためにこの場を設けた。今日君がここで自分の非を認めて、そしてこれ以上娘に付きまとわないと約束するなら、私たちもこれ以上話を大きくしないつもりだ」

 おや?

 小さな違和感が私の頭を小突きました。

 宇佐美社長の目的は、娘がストーカーに遭っていたという事実をでっち上げて、娘さんに客観的価値をつけようというものではなかったのでしょうか。

 改めて思うと、ものすごい見当はずれな計画に感じられます。

 どうしてこんな回りくどいことを。不器用にもほどがあります。

 それは私から話を聞いていた竜之内さんも感じたようで、

「どうだか。お前たちの計画は知っているんだ。どうせあとから事を公表するつもりだろ?」

と反論します。

「それにストーカーされていたのは僕の方だ。監視されて、個人情報まで探られた。俺はこの場で、お前たちの謝罪を要求する。それができなければ、反対に俺が訴えてもいいんだ」

「君が? ストーカーを? 一体どうして?」

 宇佐美社長が煽るように、わざと軽快な口調で竜之内さんに聞き返しました。

「どこにそんな証拠がある」

「それは、そこの子がそう言っていて」

「物証は無いだろう?」

 宇佐美社長の声色が一転、凄みを持ったものに変わりました。低くて重々しい声が場を支配します。金剛力士像の迫力が竜之内さんを圧倒します。

 竜之内さんは怖気づいたように口をつぐみました。

「こちらはあなたがストーカー行為に及んでいたという証拠を掴んでいます。ですよね、探偵さん?」

 弁護士高野さんが先生に問いかけると、先生は待っていましたと言わんばかりに頷きました。

 驚いて、私は先生を見上げます。

 一体先生は、この流れをどこに持っていくつもりなのでしょう。

「彼にはあなたのここ最近の行動を調べてもらいました。そして私たちはあなたが宇佐美唯さんに渡した手紙の数々があります」

「私たちは君に謝るつもりなんてない。なぜなら私たちは君が娘のストーカーだという確固たる証拠を持っているからだ。裁判沙汰にするつもりはさらさらなかったんだがね、そちらがどうしても、というならばすぐにでも法廷でやりなおそうではないか」

 宇佐美社長の魂胆が見えました。

 やはりこの人は最初から事を大きくするつもりだったのです。ただそれを自分からではなく、あくまでも不可抗力でそうなったという形で。

 どこまでも腹の内が真っ黒な人です。

「俺は手紙なんて出していない」

 もう一度、竜之内さんは答えました。

 さっきと打って変わり、今度は震えて消え入りそうな声で。

 どうして。

 私は心の中で尋ねます。

 どうしてそんな風に言うのですか? あなたはやっていないのですよね?

「いるだろう? その後の何十枚はともかく、最初の一枚は君の物のはずだ」

「違う、あれは!」

「中身がどうであれ、君が手紙を出したということは事実だ」

 私は先生を見ます。先生はまだ動きません。

「こちらが手紙になります」

 高野さんが取り出したのは、一通の青い封筒と便箋でした。封筒の裏面には『竜之内一』という拙い一筆があります。

「娘の不注意でね。中を確認してすぐに怖くなって捨ててしまったそうだ。まあ仕方のないことだが。それでもなんとか封筒だけは確保できた」

「それは……」

 それは、竜之内さんがちゃんとした形で宇佐美さんに渡した物のようでした。先生が言っていたように、それは宇佐美さんが拝見する前に社長が取り上げてしまったはずです。

 きっとこの日のためにずっと用意していたのでしょう。

 全ては虚構、宇佐美社長のシナリオなのです。

「先生」

「まだだ」

 先生は小さな声で私を制しました。

「でも」

「どうしたね?」

 宇佐美社長が矛先を私たちに向けました。

 竜之内さんが縋るような目で私たちを見てきます。

 先生が仕方ない、と言う風に頷きました。

 好きなようにやりなさい、そう先生の口が動きました。

「それは」

 よし。

 あの時できなかったこと、今ここでやり直させていただきます。


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