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アイデンティティの在り処  作者: 日笠彰
10/10

アイデンティティの在り処 エピローグ

 三〇三号室。その人の病室はそこでした。

 行きかう患者さんでざわつく病棟の廊下。三歳くらいの女の子がぶかぶかのスリッパを履いて私の後ろを通り過ぎていきます。目の前のドアは、まるでその先が壁であるかのようで、中からは物音一つしません。静かで、拒絶的な雰囲気が伝わってくるようでした。

 覚悟を決めて、横開きの扉を引きました。

 竜之内さんはベッドの上に体を起こして、窓の外を茫然と眺めていました。

 私が入ってきたことに気がつくと、彼はにこりと私に笑いかけてきました。

「どうも」

 彼は軽く身だしなみを整えた後、近くの椅子を私にすすめます。

「その後お加減はいかかでしょう」

 お見舞いの果物をベッドサイドに置くと、わざわざありがとう、とお礼を言われました。

「今回のことは私たちの責任でもあります。本当に、申し訳ございませんでした」

「そんなことはないよ。結果的に、君は俺を救ってくれた。あのあと弁護士の人が来て、このことは手打ちにすると言ってきたんだ。俺がストーカーでないと認めることを含めて、一件を無かったことにするらしい」

「よかったのですか」

 顛末を語る竜之内さんの顔は悲壮感に溢れ、つい先日よりも老けたように見えました。

「君の先生には驚かされたけれどね」

「あれは」

「俺の全てが否定された気分だった。自分が誰か分からなくなって、上も下も分からなくなって漂流しているようだったよ。だから逃げ出した……権力って、怖いね」

「あれはああするしかなかったのです。でないと」

 殺されていたでしょう。

 そう言いかけて、私は口を噤みました。

「最善の策だったのです。先生を責めないであげてください」

 私が病院で目覚めたとき既に、先生は姿を消していました。それまでずっと私のことを看病してくれていたらしい両親は、目が覚めると同時によかった、心配した、危ない目に遭うならバイトはやめなさいと捲し立て、最終的には涙を流して私のことを抱きしめてくれました。両親の暖かい愛は大変うれしかったのですが、私はそれに応えず、ぼうっとしたまま先生の姿を探しました。

 ベッドサイドの引き出しに隠されていた手紙には『逃げる。あとは任せた』という言葉だけが書かれていて、私はぼんやりと宇佐美社長に狙われているのかな、と想像しました。

 あれから二日経ちましたが、先生は事務所にも戻っていないようです。先生がいない間、私は探偵代理として業務をこなしています。といっても、お客様が来ないのでやることは普段と同じですが。

「美空さん、だっけ?」

「はい」

 私は竜之内さんに向き直りました。

「本当に、ありがとう」

「いえ、私は何も」

「あの時」

 竜之内さんは視線を外に投げました。

「何も分からなくなって、誰も信じられなくなって、自分すらも疑わしくなって、前も後ろも見えないままただ走っていて。本当なら俺は、あの瞬間トラックに轢かれていて死んでいた。いや、もうすでに死んでいたのかもしれないね」

 花瓶に生けられた花が微かに揺れます。薬の匂いに混じる、落ち着いた花の香り。甘い甘い、果物の香り。

「でも君が、俺を呼んでくれた。必死になって俺を追いかけてくる君を、俺は不思議な気持ちで気にしていた。君は最後まで俺を信じてくれた。だから俺は、ここにいる。戻ってこれたんだ。だから、改めて礼を言わせてほしい。ありがとう。そして、ごめん」

 竜之内さんは頭を下げました。

 何とも言えない幸せな気持ちが胸の中を満たし、気付くと私は竜之内さんの頭を優しく撫でてあげていました。驚いたように、竜之内さんが顔を上げます。

「人を信じるって、素敵なことですよね。私も、ちょっと前に友人に教えられたのです。自分が分からなくなって、何を信じればいいか分からなくなって、でも、そんな私を彼女は信じてくれたのです。あなたを信じる私を信じて、私の信じるあなたを信じてあげて」

 窓の外には、ふわふわのひつじ雲が群れを成して飛んでいます。季節はもう秋なのに、麗らかな陽気が世界を包みます。これから来るのは葉が落ち、木枯らしの吹きすさぶ厳しい季節です。でも今は小休止。ちょっとした小春日和を目いっぱい楽しみましょう。

「ねえ、竜之内さん? 人って、誰かに信じてもらって初めて、その人になれるのですよ。そう思いませんか」

 


少し長くなってしまいました

年末年始の慰みに楽しんでもらえると幸いです

良かったら感想ください


ではっ! みなさんよいお年を!

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