31──くだらない世界もういい
呼吸が苦しい。眼窩の奥が脈動して、涙腺が熱を持つ。流れた涙で袖が染まる。
250cm四方の石造りの空間。両側と後ろの面は丸く凹凸の目立つ石レンガ、正面は鉄格子。レンガ一つ分の小さな窓が、後ろの壁の天井近くに開けられている。室内には便器と、薄っぺらい布団があった。
室内は暗く。鉄格子の外にあるロウソクの明かりがかろうじて届く程度。
僕が部屋の真ん中で、膝を付いて上半身を丸めて、地面に顔を近づけている。
涙が枯れて、喉がささくれ立つ。
この世界にハックはいない。
ハックのいない世界。国はベルラ、町の名前はボルタ。警察省の留置所。
僕が嗚咽している。
魔導解放記念祭まで十三日、時間は正午。
神様のインタフェースにアクセスしてから、二十四時間は経っていない。
僕の嗚咽の声を聞いて番兵が駆けつける。
「大丈夫か」
仕事による義務感三割、思いやり一割、不安三割、めんどくささ三割の声である。
その間も僕は、僕の神経感情反射身体は悲しみの中でもがいている。
番兵から二言目が発せられるまで十秒。
「ちょっと待ってろ、今医者をつれてくる」
僕の対応を医者に丸投げするべく、駆け足で外へ出ていく。
医者を連れて戻ってくるまで、二十分四十秒。
間に合わず、僕が体力を使い果たして意識を失う。
意識が戻ると、医務室のベッドの上にいた。
「おはよう。意識はハッキリしていますか?」
白衣の医者が僕の顔を覗き込んでいる。
何を答えるのも面倒で、天井を眺めた。素材の白色に汚れの灰色、灯りの無機質な白色が重なっている。
「声は出せますか?」
自分の体との距離が遠い気がする。にも関わらず、ピントがバグったみたいに世界が細かく見える。
この世界を構成する要素はあまり多くない。僕の網膜が世界を映す仕組みも、目の前で動く人間の皮膚の裏側で起こっていることも。全部、僕の矮小な脳に収まっているのだから。
解像度の上がった視界の中でも、何をする必要性も見いだせず、僕はただ自分の自律神経を遊ばせておく。
「大丈夫ですか! 声出せますか!」
医者は僕の脈を取ったり、目の前で手を振ったりする。望んだ反応が得られないものの、生命活動に支障はなさそうなことを確認すると、それ以上は無駄だと机に行って事務仕事を始める。
「立てるか?」
今度はさっきの番兵が声をかけてくる。
しばらく放おっておいたら、ベッドの上から落とされそうになったので、しょうがなく直立する。
「ほら、戻るぞ」
背中を押されながら横並びで牢屋の方へと歩く。
右、左、右、左。
いつも通り歩けているはずなのに、反応が遠く、まるで自分の体じゃない感じがする。それでも、問題なく歩ける。何もする必要は無いのだから何も問題はないはずだ。自分が遠くへ行ってしまったように感じることも、体が世界と同化したように他人事に思えるのも。
この世界が簡単な数式の集合体であることも。
さっきの牢屋に戻って、地べたに座り込む。
鉄格子に鍵がかかる。
流石に、さっきの嗚咽の続きをする気にもなれず、かといって何を考える気にもならず。ボーっと鉄格子を構成する原子の数を数え始める。
鉄格子の原子は一定の秩序を持って並んでいるが、それでも所々に歪みが存在している。適切に力を加えていけば道具も魔術もなく、この檻を破ることも可能だろう。
では、外に出るか。外に出たところで何をするというのか。
どうでもいい。分かんないよ。
一分、五分、二十分、一時間。時間が経過する。
「はじめまして。キャニー・バーナーズですね?」
三秒、十秒、三十秒。
正装姿の男は鉄格子を強く蹴る。衝撃音が遠くまで反響していく。
「キャニー・バーナーズかって聞いてるんですよ。早く答えなさい」
三秒。
「反抗的な態度を取るとどうなるか、分からないようですね」
男は懐から円筒形の魔術具を取り出すと、僕の目に向け起動した。あまりに強い光に反射で目を閉じる。
カチカチカチと三回点滅する。
「私はカーブ・マークル。あなたの裁判を担当することになりました。すなわち、私に逆らうということは、裁判で著しく不利になるということ、陽の光を浴びたいなら大人しく……」
「ぼ、くは、裁判にかけられるんですか?」
受けた声の十分の一くらいの掠れた声を発する。
「なんだ話せるじゃないですか。流石に自分の刑罰のことは気になりますよね。そうでしょう。自分の身がかわいければ、下手に黙秘などしないことですね」
「僕は死刑になりますか?」
カーブはいくらかの思考と蔑みを抱く。
「死刑になるような心当たりが?」
十三秒。沈黙。
「たくさん人を殺しました」
「ほう? 続けなさい」
「アイロンと……アイロンと、アイロンと、」
「同名他者ですか?」
他者……、僕はたくさんのアイロンを殺した。だけど、それは全部同じ人? 別の人? 分からない。あるいは神様のインタフェースにもう一度アクセスすれば、何が同じなのかはっきりするだろうけど。そんなことに意味はあるのか。
一つの魂を二度殺すことも、二つの魂を一度ずつ殺すことも、同じじゃあないか? そうか。何が同じなのか。罪に重さはあるのだろうか。同じことって、なんだろうか。
「アロと、」
カーブは、イラつき、少し逡巡して、メモを取り出し僕の言葉をメモし始める。
「リヒューズ、パイライト、アフレイデッド、ニューキッド、」
名前を覚えるつもりはなかった。なぜ忘れられなかったのか。神様のインタフェースに接続するときに流れ込んできた情報の中にも、きっとあったのだろう。そのせいなのか、忘れることはできなくなってしまった。
「イー、ニーパー、プリコット、ジャス……、クロマ、ツカマ、ゴウマ……、サクハリ、ヴィーチ、ラジロ、シラビ、」
「おい、ちょっと待った、誰だそれは」
知らない名前が大量に出てきて疑問を持っている。そんな事情は知らないので、次々と頭に浮かぶ名前を列挙する。
「アキュバ、……ハモミ、ウチワ、アムア、タヤ、ニッコ、ソメイ…………ホプボ、アルダー、バーチ、ミズメ、ニグル、」
「まだいるのか、終わったか? なぁ、おい」
まったく、こんな供述を信頼していいのか。そう悪態付きながらもメモを取る手を止めていない。
「アイロンと、」
「それはさっき聞いた」
うるさい。うるさい。うるさい。
「アイロンと、」
あの瞬間を数え上げる。
「アイロンと……、アイロンと、アイロンと、アイロンと、アイロンと、アイロンと、アイロンとアイロンと──、アイロン、アイロン、アイロン、…………、アイロン、アイロン、アイロン、アイロン、アイロン、アイロン、アイロン、アイロン、アイロン、アイロン、アイロン、アイロン、それから、アイロンと、アイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンと、アイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンとアイロンと、」
カミを自称するウィザードを取り囲む名前も擦り切れた者たち。
「jk43wl2、24gggjl、fa4e3fjkj、42fg#QW、D$))、43f-00、0-0、df23fl3kff32fekfj、)))))))!!!!!!、、、そして、アイロン、その後、カミを自称するウィザード」
ああ、僕が使い潰してしまった。
「…………ハック」
計、二百七名。
数え終わると、体が完全に感情に乗っ取られ、喉をいっぱいに、はち切れんばかりに叫んだ。思考の部分が幽体離脱したみたいに切り離されて、声を上げるしかない僕を見つめていた。
番兵が駆けつけてくるのを、カーブが止める。何の対処も不要だと、後少しで自分の仕事は終わるのだから捨て置けと、淡々と事務事項を読み上げる。
「今日から七日後の夜。第二秘密法廷にて、被票者、キャニー・バーナーズの仮想裁判を執り行う。起票内容については、追って通達される。以上」
それだけ伝えると、目の前でうずくまる僕などいないもののように、その場を立ち去る。
誰もいなくなる。
そこから、僕が静かになって眠りにつくまで二時間十三分三秒を要した。
次の日、僕は土下座のように体を折りたたんで、気絶していた。
地面が冷たい。
顔が重くて地面にくっついていた。
体の節々に負担がかかっている。
独房の後ろにある格子窓から、朝日が差し込んで、どんどん光が強くなる。
十四時三十分、一人の少女が牢屋の前に立つ。
「久しぶり」
声に反応して、体が起きる。
合わす顔もないから、両目がどこでもない場所を見ている。
目から入ってくる情報が役に立たない。
「キャニー? わたしのこと分かる?」
「ああ、オペラか」
彼女がこの場所にいる理由はない。
もう会わないはずだった。
「もう、やっと分かったの。そうだよオペラだよ」
彼女は我慢してそこに立っている。微細に震えている。
「ねぇキャニー。前の告白の返事を貰いに来たよ」
「告白か。やめておいた方がいい。僕はムゴい罪人なんだ」
僕は淡々と事実を告げた。そんな辛いなら今すぐ僕の前から立ち去ればいい。
全部終わりなんだ。
「そんなことないよ。キャニーはわたしを救ってくれたし、キャニーのしてきたことも罰はないって、そうなるんだって。だから、気にしなくていいんだよ」
「そうなんだね」
罰がない。ないわけがない。
苦しいね。苦しいね。
何もなくなることは苦しいんだ。
彼女はとてもつらがっている。
なのに、まだそこにいる。
「そういえば、キャニーと初めて会ったの、この街だったね」
「オペラ、僕なんかに構うな」
話しかける必要などない。僕はもう誰も必要としない。もう何もない。何もなければ何も要らない。
「キャニー。キャニーのこと助けたいんだ」
「構わないで。寝かせてくれ」
早くいなくなれ。
僕は眠いなぁ。
僕は眠くなった。
僕は眠くなるんだ。
「そんなこと言って、さっきまで寝てたんじゃないの?」
無理して声を出さなくていいんだ。
「とにかく……眠いんだ」
「そっか」
ようやくどこかに行くらしい。
また寝よう。
「おやすみ。キャニー」
次に眠るにつくまで三時間五十分を要した。




