エデンの旅
次の逢瀬は冬だった。
この日の出張はまるで方向違いだったけど、それでも彼の街に寄ってしまう。
たびたびだけどいいかな?と彼に確認すると、勿論と答えてくれたから。
この関係は、いつもわたしが誘うことで成り立っている。
だから、彼の無欲さはどこか心細い。
それでも、このホテルではいつものルーティンが繰り返され、ベッドで彼の眼差しに包まれて、満たされた気持ちになることができる。
そして、いつものようにわたしはおはなしの催促をする。
「今日はとっても寒かったから、冷たい海の底、深海のおはなしが聞きたい。いい?」
「いいよ。深海か。深海については面白い、お気に入りのはなしがあるんだ」
深海には豊かな生態系はないと思われていた。
太陽のエネルギーが届かないところではきっと、数少ない生き物が細々と暮らしているのだろうと。
地球上のすべての生命は、太陽の光を使った光合成をなんらかのエネルギー源にして生きているのだから、深海はそのおこぼれをもらい命をつないでいると考えられていたからね。
海面近くの明るい層で、植物プランクトンが光合成によって作り出した有機物などが、雪のように深海へ降り積もっていく、これをマリンスノーというのだけど、例えばマリアナ海溝の最深部にいるヨコエビやナマコや魚類は、この「地上の太陽の恵みの残りカス」であるマリンスノーによって命をつないでいる。
ところが、1970年代だったかな、アメリカの調査チームが有人潜水調査船でガラパゴス諸島沖の深海を調査して、不思議な世界を発見したんだ。
調査船のサーチライトによって、煙を吐き出す巨大な熱水噴出孔が照らしだされると、周囲の海水は氷のように冷たいにもかかわらず、噴出孔のまわりだけはマグマで熱せられた熱水が立ち込めていた。そして、その熱水と冷たい海水が交わる境界線に、信じられないような密度で、様々な生物が生息していた。
身の丈を超えるような巨大な赤いワーム、その足元や、岩肌の隙間を埋め尽くしているのは、お皿のように平らで巨大な白い二枚貝。ぎっしりと隙間なく並んだ貝殻の群れ、その殻の間を縫うようにして、乳白色や半透明のエビや小さなカニたちが忙しなく這い回っていた。
多種多様な生物が、この極限の楽園でひっそりと、いや賑やかに生きていたんだ。
そして何より衝撃的だったのは、この生態系は太陽エネルギーを必要としない独自の生態系だったってこと。地球内部の熱と化学物質をエネルギー源とした化学合成によって生態系が維持されている、太陽から独立した世界だったんだ。だからこそ、光の届かない深海で驚くほど豊かな生物が大量に生息することができていた。
この場所を、調査チームはローズガーデンや、エデンなどと名付けた。
「ローズガーデンは赤いワームから名付けたのかな。それとエデン?素敵なネーミングだね。センスいい」
彼は少し微笑んで、そして続ける。
この生態系が維持できているのは海底の火山活動や地殻変動により、マグマで熱せられたミネラル豊富な熱水が噴き出している熱水噴出孔のおかげだった。
太陽光が一切届かない水深数千メートルの深海で、地球内部の熱エネルギーを利用した独自の閉ざされた生態系が形成されていた。だからこそ、太陽光が届かない氷に覆われた衛星、例えばエウロパなんかでも生命が存在する可能性も出てきた。そういう意味でもガラパコスの深海でのローズガーデンやエデンの発見は、本当に画期的なことだったと思う。
でも不思議なことに、数年後、再び調査隊がエデンを訪れたら、もうその場所には生き物たちの豊かな世界は見られなくなっていた。
エデンは永遠ではなかったんだ。いかに豊かでもね。
でも、きっと、太陽エネルギーが届かない深海のどこかでまた、新しいエデンが生まれているのだとぼくは思う。
エデンは新しい場所へ旅立ったのだと。
「不思議だね。わたしたちは長い間、太陽がなければ何も生きることはできないと思い込んでいた。でもそうではなかったということ?」
「ああ、そうだね。太陽がなくとも豊かな世界があった。それを見つけた。でも、その世界もどこか儚い。とはいえ」
「とはいえ?」
彼は、そのまま少し迷ったように、言葉を選ぼうとする。
その躊躇を、些細なためらいを、わたしは見ている。
「太陽から遠ければ豊かな生態系はありえないという前提を信じれば、世界はそう見える。そうでしかない。でも、現実は違う。現実はもっと力強い。前提を覆せば、違った世界が現実に現れる。豊かな庭が、楽園が」
「そう。それが例え儚くても、ね?」
「儚くても、あったんだ。そして作り上げることだって可能だ。エデンが失われたということはむしろ、エデンはまた生まれるということを意味していると思うんだ」
「いいね、その考え方、好きだな」
彼は照れたように押し黙る。そして言った。
「ぼくはガラパゴス沖の深海にエデンがあったことにも、エデンが消えてしまったことにも、希望をもらった気がしている」
そして、わたしたちは深海のおはなしを二人で味わったまま、その余韻のまま、浅い眠りにつく。
といってもわたしはなかなか寝付けず、彼の寝顔を眺めながら、音のない時間と世界を味わっていた。
と、まどろんでいた彼が、急に、何かに驚いたかのように目を見開いた。
「何?」
「いや、なんでもない」
その時ふと、香りが鼻をつく。
なんだろう、どこか野性的な匂い。野はら?草むら?
いや、野はらよりももっとひんやりとした深い匂い。
多分、きっと、これは深海の匂い。
彼も同じ匂いを感じたのかもしれない。
この古びたホテルの一室は、深い海の匂いに覆われている。
今は、その静かな豊かさに耽溺していられるわたしたち。




