旅する地球
帰り際、わたしはいつも少し心細くなってしまう。
そしてその気持ちをごまかすかのように、そそくさとホテルの一室を出ようとする。
そんなわたしを、彼は引き止め、振り向かせ、そして少し力を込めて抱きしめて、言う。
「大好き」
彼の「大好き」はどこか、ありがとうに似ていた。
わたしは出張のたび、都合がつけば彼の住む街へと旅をする。
彼にこの日は寄れそうですと伝えると彼から、いつものホテルを予約していますと連絡がくる。
少し古びた、でも清潔な、小さなホテル。
わたしは所用を済ませるとホテルへと向かう。
彼は母親と二人暮らし。
介護が必要で自由がきかない環境だけどこの日はヘルパーさんを頼んでいると聞いている。
介護だけが問題ではなく、彼は外出することができない人。
ホテルで会う日は彼にはちょっとした、いやかなりの負担で、でもそれでも来てくれるのだった。
そっとノックすると彼がドアを開ける。
いつも変わらない落ち着いた表情と声。部屋に誘われ、わたしは荷物を下ろす。
彼は冷蔵庫からビールを出して、汗だくのわたしに渡してくれる。
「外、暑かったでしょ」
「うん、この時間でもまだ全然気温さがってない。湿度もすごくて」
よく冷えたビールは火照った身体を少しだけ癒やしてくれる。そして彼が言う。
「近況報告、聞かせてよ」
わたしは他愛もない仕事の話や近況をつらつらと語る。
彼はいつも楽しそうに適度な相槌を打ちながら聞いてくれるので、会っていない間に溜まっていた、彼に聞いてもらいたいなと考えていた話を思う存分語ることができる。
彼がテーブルに広げてくれたナッツと、わたしが買ってきたチーズを二人で軽くつまみながら、いつの間にか最初のちょっとした緊張がほぐれていく。
ビールが数缶空いたくらいのタイミングで、彼が言う。
「シャワーしておいで」
そして、わたしたちは親密な時間を過ごす。
わたしは癖で、時折ふうーっと長く息を吐き、そして大きく吸う。
まるで水中に潜る前の準備をしているかのように。彼にどうしたの?と聞かれる。
「もっと空気が欲しいのかも。慣れないことをしているから」
一息ついて、彼がこの上なく優しい目でわたしを見つめているのを感じる。
だから、いつものようにわたしはちょっとだけ甘えた口調で言う。
「ねえ、おはなしして?」
彼は微笑みながら言う。今日は何にしようか、と。
「そうね、ええと、うん。流星群がいい」
彼は頷く。
流れ星については古くから、神の意思や天からのお告げのように捉えられていた。
天体観測が盛んな地域では、特定の時期に流れ星が多いことはかなり昔から認識されていたんだ。
でも、8月の中頃や11月の中頃にどうして流れ星が多いのかの説明ができるようになったのは比較的最近のこと。
8月のペルセウス座流星群、11月のしし座流星群、これらはペルセウス座やしし座のあたりから地球にめがけて降ってくるようにみえるからそう呼ばれている。
でも、なぜ同じ時期に、同じ位置からの流れ星が多く見えるのか不思議に思ったことはない?
この話について、知ってる?
わたしは首を振る。
流星群がなぜ同じ時期に見えるのかについてはいろんな説があげられていた。
だけど、あるイタリアの天文学者が、スイフト・タットル彗星の軌道とペルセウス座流星群の粒子の軌道がよく似ていることに気付いたんだ。そのことが、流れ星が地球に向かって降ってくるのではなくて、宇宙に彗星が通過した跡が残っていて、毎年、地球がその場所を通過することで 同じ時期に流星群が見えるのではないかという考えについての一つの根拠となった。
テンペル・タットル彗星の軌道と、しし座流星群の軌道を比較すると、これもよく似ていることがわかった。テンペル・タットル彗星が残した塵の帯を地球が通過する11月に、しし座流星群が見えるということだと考えられている。
流星群が地球にやってきているのではなくて、地球のほうが太陽の周りを1年で1周する際に流星群が見える場所を通過しているってわけだ。そしてその塵が広がる中心の場所がちょうどペルセウス座やしし座の方向にあるから、その星座から流れ星が降ってくるように見えるってこと。
彗星が残した塵の帯は均一じゃないから、地球が塵の濃いところを通過すれば、流星雨や流星嵐と言われるほどの大量の流星が見えることもある。ぼくたちが生きているうちにそんな年が巡ってくれば、一生に一度の経験ができるかもしれない。
忘れがちなんだが、地球が、宇宙空間を旅している。
8月にスイフト・タットル彗星の残した塵の帯をくぐり、11月にテンペル・タットル彗星の残した塵の帯をくぐって。ぼくたちはこうやって日々何気なく暮らしながらも、地球の旅に乗っかっている。
そう思うと、ちょっとロマンあると思わないか?
いつか一緒に流星群を見ることができたらな、流星雨ってほどじゃなくても全然構わないから。
そう言いたくなって、でもやめておく。彼にとっては簡単ではないことだから。
言えなかった言葉は儚く、舌の上で溶けてゆく。
彼はそれに気付いているのか、急にわたしを抱き寄せてくれた。
わたしが吐き出さなかった言葉を、彼はどれだけ感じ取っているのだろう。
「いつか一緒に見たいな」と言う代わりに、わたしは自分の話をする。
子どもの頃に見た天の川の話。
子どもの頃、キャンプに行った時に夜空を見上げると初めて天の川がちゃんと見てとれたこと。
それまでは天の川ってよくわからなかった。
でも本当に乳の道って言われるのがよくわかった。くっきりとではないけどぼんやりと白い道のような帯が、天にかかっている。
ああ、これが天の川なんだって思ったけど、でもその記憶は随分遠くなってしまった。
あれが事実なのかすら昔すぎてぼんやりとしてきていて、それに、あれから一度もこれが天の川だって思えたことがない。
だから、またいつか天の川は見れたらなって思っている。
そう言うわたしに彼は言う。
「いいね。いいじゃない、きみはどこへでも行けるんだから。見たいものは見たほうがいいし、行きたいところには行ったほうがいい。できるうちに。今は天の川を眺めるにはいい時期だし、ペルセウス座流星群は来週あたりが極大期だよ」
そうだね、わかってる。わたしも勿論そう思う。
でも今のわたしが一番来たいのは、この小さなホテルだから。
それに今もわたしたち、地球に乗っかって一緒に旅しているんでしょ?
そう思いつつ、それは心の中にだけ留めておく。
「そうだね。天の川、どこで綺麗に見えるのか調べてみようかな。そう言えば職場の子が旅行が好きで、旅先できれいな天の川を見たって言っていたんだよね。どこで見たって言ってたんだったかな」
「どこ?気になるな」
「うーん、どこだったか。そうだ、確かスリランカ!」
「スリランカ!?」
意外な場所だったらしく、彼が珍しく笑っている。彼の笑い声が好きだ。
そう、勿論、天の川も見たいしスリランカにも旅してみたい。
でも、今のわたしはここに居たいんだと思う。




