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天空で燦々と輝く太陽は、日を重ねるごとに暑さを増した。国境線に短い夏が訪れたのである。
いつもの朝が来て、朝食を終えた哨兵たちが次の訓練の準備をしているところへ、澤来伍長が慌ただしく兵舎に跳びこんで来た。
「みんな聞け。今日の訓練は中止。各自移動準備をととのえ、完全軍装でその場に待機だ!」
兵たちが、何事かとどよめいたところを、先任兵長の弘前が顔を出した。
「移動準備って、どういうことだ? さっき師団の参謀が乗りこんで来たが、どこかへ移動ってことか?」
「その可能性は否定できんな」
「どこへ?」
「それはわからんが、いま隊長当番が曹長殿を呼びに来て、隊長室へ行った」
「ここを撤収して俺たちを他所へ移動させるってことは、こりゃただ事じゃなさそうだな」
うなずいた澤来は、
「まだそうときまったわけじゃないが、弘前、即刻移動となった場合、糧秣等物資の運搬が必要になる。厩舎に荷車が何台か残されているな。あれを輜重に使えるよう準備しておいてくれ。それから各自の携帯糧秣と弾薬を会田から受領して分配しておけ。俺たちは居室で指示を待つ」
言いつけて、澤来は慌ただしく出て行った。
一方の隊長室では、唐櫃と同年代と思える参謀大尉が、隊長の机に身を反り返らせるように権力を剝き出しに坐っていた。
参謀大尉の横には、ふてぶてしそうな面構えの少尉が立っていたが、この少尉は、その容貌とは不釣合いにおどおどとして、眼つきに落ち着きがなかった。
唐櫃と本郷は、その前に不動の姿勢で立っていて、二人とも硬い表情を崩さずに参謀の命令を聞いていた。
「……以上が司令部よりの命令である。貴隊は即刻当監視哨を撤収し、本夕刻までに現在奇克において陣地構築中の秋山部隊の指揮下に入る。もう一度重ねて言うが、貴隊の兵器弾薬その他は司令部へ後送するものとし、貴隊は速やかに現配置を解いて出発せよ」
唐櫃は、念を押された終わりの参謀の無謀な命令に黙ってはいられず、語気を荒げて反駁した。
「お言葉を返すようで恐縮ですが参謀殿。銃火器に関しては既に我が戦闘部隊に割り当てられたものです。それを没収して現地までの六十キロの危険な抗日区間を丸腰で行けと言われるのですか。武装なき行軍は、部隊の全滅を意味する。それを無防備で行けとはどういうことですか!」
唐櫃の固く握り締められた両手の拳が怒りで震えた。
参謀大尉は、しかし、中尉ごときの声など意に介してはいなかった。
「師団命令だよ、中尉。作戦に関しては師団の命令が優先する。したがって本官はそれを実行しているだけだ」
「戦闘における作戦に関してはそのとおりですが、この場合は作戦の要綱を逸脱している。師団命令で没収するなら、それなりの理由があるはずです。いや、そんなことはこの際どうでもいい。没収するなら、するでいい。それならば、せめて現地までの行程は銃火器の携行を許可してください。現地部隊に到着すれば、兵器は速やかに返納します」
「命令変更の要はない!」
参謀の冷酷な返答に、唐櫃の眸の奥に、反逆的な炎が俄に揺らめきはじめた。無電機のあのときの参謀といい、この参謀といい、戦争を一体全体どう考えていやがるんだ、馬鹿野郎。ガキの戦争ごっこじゃねえぞ!
唐櫃の口調がぞんざいになった。
「わからんお人だな。いまも言ったように、この数十キロ四方圏内は、共産匪賊の活動圏内に含まれて行動も活発化している。それを、武器の装備なくして行軍するのは危険だと具申しているんだ」
参謀大尉の口許に、上官特有の抑えた憤怒が滲み出た。
「軍の作戦を一介の中尉が講釈する気か。兵の損耗云々は参謀の関知するところではない。作戦をいかに有利に展開させるかを重要としておる。したがって実兵指揮官は参謀の指導に従えばそれでいい。俺は師団参謀として命令を下達した。貴公は、その命令を遂行すればそれでいいのだ」
唐櫃は、高圧的な態度を崩さない参謀の独善的恣意に、肚の底から抗命心が衝き上げてくるのを覚えた。だが、それでも怒りを抑えているのは、相手が上官だからではない。国粋国家の歪んだ思想に酔い痴れている、哀れな男を肚で嘆いているのである。
参謀大尉は、しかし、下級将校の嘆きなど知らぬことである。何食わぬ顔でさらに詭弁を吐いた。
「言っておくが、中尉、陣地構築に銃火器は必要としない。必要なのは円匙と十字鍬だ。戦闘に関する指示は、現地部隊の指示に従えばそれでいい。行軍が無理か無理でないかは我々作戦参謀がきめることで、一戦闘部隊の指揮官が口を出すことではない」
この参謀が、無責任な命令を平然と下達できるのも、この参謀が口走ったように、当人は些かも責任を問われないからである。つまり、こうである。作戦参謀が立てた作戦計画はすべてにおいて完璧であるから、その作戦を完遂できなかった指揮官こそが無知無能ときめつけられ、その作戦にどのような欠陥があろうとも、命令を受領した指揮官には作戦不備の指摘は一切許されない仕組みになっている。したがって作戦失敗のすべての責任は実兵指揮官が背負わされ、戦死すれば英雄扱いされるが、生き残れば、口封じに自決を強要され、そうして作戦参謀による作戦の不手際は永久に闇の彼方へと葬り去られるのである。前に述べたノモンハンの敗戦で、連隊長級が悉く自決に追いやられたのもこれで、作戦参謀が立案した作戦の失敗に、当の本人が責任を負って詰腹を斬ったという事例は殆どない。これが帝国陸軍の実態であった。
それを知悉している唐櫃は、それでもこれだけは一歩も引けない立場にあったから、胸の内に渦捲く怒りを抑えながら、無駄と知りつつ、もう一度歎願を試みた。
「参謀殿、お願いであります。火器弾薬携行の許可を、いま一度ご再考願えませんか」
返ってきた答えは、唐櫃の期待を裏切るものではなかった。
「命令変更の要はないと言ったはずだ。糧秣に関しては一日分の口糧を許可する。以上だ」
と、大尉は、参謀飾緒を揺らして背筋を伸ばした。
これで唐櫃の肚はきまった。もうこれ以上の問答は無用である。
そうか。貴様があくまでもその態度なら仕方あるまい。この上は、実力行使で訴えるより方法はなさそうだ。貴様のような軍人を、のほほんと後方で生き残らせるために、俺は職業軍人になったのではないぞ。そのことを現実として思い知らせてやる!
「わかりました」
と、唐櫃は、重く答えて本郷に言った。
「本郷、聞いたとおりだ。師団命令とあれば仕方がない。我々の要望は参謀殿にはお聞きして貰えんらしいから、我々は独自の方法で移動をする。六十キロの行程を夕刻までとなるといまからでも間に合わんが、大至急移動準備にかかってくれ」
本郷は、踵を鮮やかに鳴らしはしたが、すぐには出て行かず、そのまま唐櫃の横に立った。隊長がなにを考えているか、その肚の内を読んでのことである。
唐櫃は、参謀大尉に向かって、これも鮮やかに踵をカチンと鳴らした。
「では参謀殿、準備完了次第我が隊はただちに出発いたしますが、六十キロの行程を夕刻までとなると、これ以上余分な時間を割くことはできません。申し訳ありませんが、あとの始末をお願いします」
参謀大尉の顔色が急変した。
「後始末だと? どういうことだ!」
椅子を弾き飛ばして参謀の腰が上がった。だがそのときには、二人はきびすを返して舎外に出ていた。
営庭に立った唐櫃は、胸の隠しから軍用煙草を取り出し、本郷曹長にも勧めて火を分け合うと、営庭を一通り見渡してから陰湿な嗤いを浮かべた。
「本郷、このまま黙って退き下がれば、俺たちは、それこそ拙劣な連中の操人形だ。どうだ、あの青二才の鼻っ柱をへし折ってから行こうじゃじゃないか」
と、意地悪く言うと、
「そうおっしゃるだろうと思っておりましたよ。やりますか。戦をやるのは我々ですからな。いかれたあんな参謀の賽なんかで犬死にさせられたんじゃたまりません」
本郷は、参謀のいる隊長室をかえり視て薄ら笑った。
この期に及んでまで、あんなゲス野郎の命令に従う必要はない。あれが作戦参謀か、笑わせるんじゃねえぞ。参謀飾緒をなんのためにぶら下げていやがるんだ! 馬鹿ったれめが!
本郷は、澤来伍長を呼んだ。
「兵を集合させろ」
澤来は兵舎に向かって呼集をかけた。
その声を待っていたかのように、完全軍装の兵が跳び出して集合した。
本郷は、にが笑いを洩らすと、隊長当番と二名の兵隊を呼びつけて、隊長の装具を持って来るよう命じて、整列した兵たちに言った。
「装具をその場に下ろして、隊長殿の話を聞け!」
唐櫃は、兵たちの動きが静まったのを見届けて、口を開いた。
「注目。本隊は、これより六十キロ東方地点の奇克陣地構築中の秋山部隊に向かう。到着予定は本夕刻時限とされておるから、したがって行軍は強行軍となる。お前たちには長距離行軍の経験はないわけだが、この行軍は、お前たちの日頃の成果が問われる検閲行軍と思え。いいな、行軍間は妄りに列を離れてはいかん。やむなく離れる場合は、直属班長の指示を仰げ。ただし……」
と、唐櫃は、兵たちの顔に視線を一巡させた。
「お前たちの銃火器等は師団参謀殿に没収された」
途端に、隊列からどよめきが起こった。
「そんなアホな!」
「冗談じゃねえぞ!」
「チャンコロ匪賊がわんさといるなかを、牛蒡剣一丁だけで行けってのかよ!」
「静かにしろ! 黙って最後まで話を聞くんだ!」
と、本郷曹長が戒めると、弾くような声が返った。
「状況は前よりも悪くなっているんですぜ。そのなかを丸腰で行けてんですかい。冗談は休んでから言うもんだ。ハジキを取られて、どうやって戦をやるんですかい。そんな無茶な命令、俺は聞けませんぜ!」
「いいから、騒がずに隊長殿の話を聞け!」
本郷曹長が抑えた。
唐櫃は、もう一度兵たちを一通り見廻してから静かに言った。
「お前たちの言うとおりだ。現状は、我々の知らぬところで刻々と悪化している。行軍間に匪賊に遭遇しないという保証はない。だから、これを考慮した上で、俺の責任において兵器弾薬の携行を断行する。行軍途中での万一の襲撃に備えるためだ。これは隊長である俺の命令だ。師団参謀殿がどのように言われても、お前たちは直属上官以外の命令を聞く必要はない。お前たちの命を俺が預っている以上は責任はこの俺が取る。最前線の戦う兵隊が武器なくしてどうやって戦うか、そのことは、お前たちより参謀殿のほうが熟知しておられる。したがって我が隊は、参謀殿の命令を無視して準備完了次第出発。以上だ」
「時間の猶予はないぞ。糧秣物資は、積めるだけ積んで運べ。急げ!」
本郷曹長が手を叩いて煽り立てた。
そこへ血相を変えた参謀大尉が出て来て、
「待て、中尉! いまの命令を撤回しろ!」
下級者の聞き捨てならぬ発言に、参謀大尉は全身を震わせながら呶鳴りつけた。
それを、唐櫃は素気なく言い捨てた。
「できませんな、大尉殿」
「貴様ァ! 参謀の命令が聞けんのか!」
参謀大尉は、眼を攣り上げて詰め寄った。
「いまの命令を撤回しろ。命令だ!」
「できないと言っているんだよ」
「なんだと! 師団参謀の命令を、貴様、忌避すると言うのか!」
唐櫃は、怯みも臆しもせずに不敵に笑った。その笑いのなかには、これまで否応なく忍従させられていた、上官の恣意に対する強い反感と怒りが含まれていた。
その鬱積している憤りが、ここに到って堰を切ってはじき出た。
「貴様、と言って悪ければ、あんただ。あんたは師団参謀を務めるほどだから優秀なのだろうが、言っておくが大尉、俺が命令に従わないのは、あんたの命令が作戦の範囲を逸脱しているからだ。俺は戦闘部隊の実兵指揮官として、部隊に下賜された戦闘に不可欠な銃火器が必要だと主張したんだ。あんたはそれを拒否して没収しようとした。いいか、我々は浮かれ気分で物見遊山に出掛けるんじゃないんだぞ。危険な抗日区を何時間も徒歩で行くんだ。その部隊がだ、肝腎な銃火器を没収されてなにが戦闘部隊だ! 子供でもできるそんな単純な判断を、貴様はできんのか! 師団の作戦参謀が聞いて呆れるぜ。いいか、これは上官に対する抗命でも命令忌避でもない。戦闘部隊に割り当てられた兵器を強引に没収しようとした貴様に対しての正当な抗議だ。それでも貴様が星の数でものを言うのならば、いいだろう、やってみるんだな。ただし、こっちも黙ってはいないぞ。貴様の横暴な命令に対して、こちらも実力で応えることになるが、その前に、貴様は自分の身の安全を考えることだ。師団の参謀を務めるほどの貴様だ、これ以上言わなくてもわかるだろう。わからなければ、貴様のその体に直接説明して、亡骸を師団長に届けることになるが、どうだ」
参謀を見据えた唐櫃の眼は、捨身の殺意を含んでいた。部下のことよりも、階級を楯に軍の物資を横流して私利私欲に奔走する大隊長といい、直轄の連隊参謀には嫌がらせを受けた上に今度はこの始末である。こんな野郎が、歪まなくてもいい人間の平和を歪めるのだ!
唐櫃の露骨な上官侮辱に、参謀大尉は、怒気を満面にまぶして歯を剥いた。
「中尉ごときの分際で貴様、言わせておけば図に乗りおって! 少尉、こやつを逮捕せい!」
この大尉は、他の部署からの転任直後ということもあって、不幸にも、この部隊が監獄帰りの寄せ集めの囚人部隊であることを知らなかった。参謀飾緒の権威を誇って気負って乗りこんだのが間違いだったようである。
「なにをしておるか。おい、そこの護衛兵、早くせい!」
少尉は、しかし、動かなかった。この部隊がどういう素性の部隊であるかを知っているから、へたに動けば、それこそ、自分に向けられた曹長の拳銃が、いまにも火を噴きそうな脅威を覚えて慄然としているのである。護衛の兵隊たちも同様であった。既に囚人兵に銃を取り上げられていて、なにがどうなったのか、これは状況が吞みこめないまま唖然とした顔で立ち尽くしていた。
「貴様ら、逮捕しろと言っているのがわからんのか! 命令だぞ!」
激怒した参謀大尉が少尉に詰め寄ろうとしたのを、顔を蒼くした少尉は、参謀に抱きつくように縋って耳打ちした。
「参謀殿、ひとまずお退りください。この連中、とんでもない犯罪歴の持主ですから、なにをするかわかったものではありません。危険です」
「犯罪者だと?」
参謀大尉の顔色が俄かに豹変した。
「ご存知なかったのですか? この連中は、親でも平気で殺す残忍な囚人部隊なんです。ですから、参謀殿に万一のことがあっては我々の任務は水泡と化します。この場は、ひとまずお退がりください」
参謀大尉の全身から力が抜け落ちた。
「ひとまず、とにかく、まずは部屋へ」
半ば少尉に背中を押される恰好で兵舎に消えた。
唐櫃は、それを見届けて兵たちに言った。
「兵の銃の薬室は抜いて、弾帯は解いてトラックの荷台へ置け。俺たちが出発するまで、その者たちは営舎へ軟禁しておけ」
と、命じると、本郷が、
「あの参謀と少尉の拳銃は大丈夫ですかね?」
と、怪訝な顔をした。
「心配ない。やりたくても出来んさ。下手に動けばどうなるか、もう悟っているだろうからな」
と、唐櫃は含み笑いを洩らした。
「さ、俺たちは移動準備だ」
小さな叛乱は終息して、作業がはじめられた。
その間、参謀大尉以下の兵たちは、唐櫃部隊の作業を遠眼に粛々と見守るしかなかった。平気で身内の命をも奪う兇悪な囚人部隊と聞かされては出るに出られず、ただ萎縮する以外に術がないのである。
やがて出発準備がととのった。
「曹長殿、出発準備ができました」
澤来伍長の報告を受けた本郷曹長は、何事もなかったのを安堵して、作業終了を隊長に告げた。
「一刻も無駄にできんそうだから、あとは参謀殿におまかせして、俺たちは出発だ」
唐櫃は、整列した部下を見渡して苦笑を洩らした。
暑さのせいで我慢ができなくなったか、被服こそ羽織ってはいるが、胸の釦を全部外して肌を露出して凉を取っている者もいれば、そこから顔を出している露骨な刺青を誇らしげに披露させている者もいる。これでは誰に言われなくても一目の集団である。
さすがの唐櫃も、苦笑しながら注意した。
「お前たち、師団参謀殿の前だぞ。せめてここを出るまでのあいだだけでも服装をととのえろ。それでは愚連隊を公然と表明しているようなものだぞ」
隊長に戒められた兵たちは、言われて、はじめてそれに気づいて慌てて被服を直した。
隊長が、兵舎を振り返って言った。
「それにしても、本郷、住み慣れたねぐらを突然追い出される飼犬の心境とは、まさにこのことを言うのだろうな」
今度は本郷が苦笑した。
「そのとおりですな。手塩をかけてここまで仕上げた兵舎です。兵隊たちにとっては、ここが我が家みたいなものですからな」
「……では、ぼつぼつ行くとするか」
本郷が隊列に号令をかけた。
「各班ごとに、出発!」
三台の荷車に必要な物資を満載した隊列は、慣れ親しんだ監視哨をあとに軍靴の軌跡を刻んだ。
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紺碧の天空で太陽が燦々と輝いているその下を、隊列は急ぐでもなく粛々と目的地へ向かって行軍していた。
歩幅を早めたところで、夕刻までに六十キロも先の現地に到着できるはずがない。物理的に無理である。それよりも唐櫃は、匪賊との接触は避けられないものと考え、兵たちに行軍間の警戒を命じて武装したまま進んだが、しかし、どこまで進んでも、その気配も徴候もなさそうに思えて、兵隊の警戒を解いて行軍に専念させようかと考えていた。
だが、その考えはすぐに改めた。隊列は、まだ動きはじめたばかりである。この先どこで事態が急変するかわからない。楽観は許されないのである。唐櫃は警戒を緩めずにそのまま隊列を進めた。
それが兵たちには余分な負担となって現れた。気を張り詰めた不慣れな行軍で疲労が加速度的に加わり、十キロも進まぬうちに顎を出しはじめた。
まず田丸が音を上げた。
現役の兵役経験者である田丸は、初年兵一期検閲行軍がどれほど過酷なものであったかは経験して憶えていたが、そのときは、ただ歩くことだけに神経を集中していればよかったが、それとは条件がまったく異なるいまは神経のほうがすり減ってしまい、それどころではなくなっていた。歩く姿は、首を伸ばして喘ぎながら歩く亀に似て、田丸の上半身の軍衣は、噴き出る汗で、水を被ったかのように濡れそぼっていた。
伸びきった首をいまにも落としそうな姿で歩く田丸は、自分の横で黙々淡々と歩いている花巻を恨めしそうに横眼に見て、口を尖らせて歩く辛さをぼやいた。
「なァなに考えとるんや……なァ、黙っとらんと、なんか喋ってェな……」
話でもして気を紛らわさなければ、参ってしまいそうなのである。
「横で黙って歩かれたら、余計にしんどなるわ。なんぞ喋らんことにゃ……」
その花巻は、怒ったように歩いていた。花巻も、いつ遭遇するかわからない脅威と緊張の連続で顎を出しはじめて苛ついているのである。
地方の新聞社で、しがない記事を拾い集めて飯を食っていたこの元記者は、それこそ、ペンより重いものは持ったことのない男である。元記者だけに、普段は冷静沈着で雄弁な男だが、軍隊へ徴兵されて国境線へ送られてからは無口に徹しているため、花巻の前科を誰も知るものはいなかったし、それだけに、周りの男たちから薄気味悪い奴だと疎んじられていた。
その花巻が、声を尖らせた。
「黙って歩けよ。喋ったところで疲労が恢復するわけじゃないだろ。喋ると却って体力を消耗するだけだ。そのうちに小休止か大休止がかかるさ。それまで辛抱して歩きつづるしかないんだ、俺たちは!」
田丸は、それきり口を閉ざしてしまった。
隊列は、花巻の声を無視するかのように、太陽が中天に達するころまで小休止も大休止もかからず、どこまで行っても同じ景色がつづく曠野の道を延々と歩きつづけた。
その大休止がかかったころには、太陽は西に傾きかけていた。
隊列は、そこで遅い昼飯の携帯口糧を開くと、休憩もそこそこに動きはじめた。
隊列の軍靴が刻む東へとつづくこの道は、元々は現地民が拓いたものを、のちに関東軍の工兵部隊が軍事目的で拡幅したものである。広大な森と曠野を並行するこの道は、うねるように折り重なる緩い丘陵を幾つも越えていて、やがて日中でも薄暗い森へと隊列を招き入れて、道は、そこからは荷車一台が通れるほどの幅員になった。このことは、この先には、大規模な工兵の手が入っていないという証でもあった。
その森の長い隘路を抜けたころには、太陽は西の稜線へ近づいていて、隊列の行く手にかなりの面積を持つトウモロコシ畑が現れた。まだ収穫期ではないから農夫の姿は見当たらないが、見渡す限りでは相当な面積の耕地であった。
このことから、唐櫃が参謀から聞いた情報を纏めると、奇克までの行程上には満人集落はないとのことであるから、この耕地は、たぶん日本の開拓団のものであろうと一応の見当をつけたものの、しかし、あの無責任な参謀のことである、情報もいい加減かもしれなかった。
そう思い直した唐櫃は、少し開けた場所で隊列を停止させると、本郷曹長以下の下士官を集めて、満州事変当時に作成された五十五万分の一の粗雑な地図を広げた。
唐櫃は、監視哨からここまでの行程の時間を割り出して地図の一点に指をさした。
「現在の位置は概ねこの辺りだと思われるが、この耕地から推測すると、ここは北鎮の開拓団の可能性が高いようだが、はたしてこれが日本の開拓団かどうかはなんとも言えんな。念のため斥候を出してみよう」
「では自分が行きます」
本郷曹長は、兵三名を引き連れて、自らが曹長斥候となって先へ急いだ。
「万一に備えて、我々は駐軍間の警戒だ」
隊長が下士官に命じた。
斥候のお蔭で、田丸は思いがけない休息を貰った。玉のような汗を噴き出したまま草叢に寝転んだ。
それを花巻が田丸の脚を小突いて咎めた。
「寝てる場合じゃないだろ。駐軍間の警戒だぞ」
田丸は、渋々起きて、ぼそぼそと口を尖らせた。
「えらい疲れやちゅうのに、休憩もさして貰われへんのんかいな。見てみ、足が棒になってしもてんねやで。ほんまに、わてらは、いったいどこまで歩かされるんや。キコク言うけど、それってどこやねん。隊長はわかってわてらを歩かしとるんか!」
「ぼやいたって仕方ないじゃないか。目的地までどれだけあろうと、隊長がここだと言うまで、俺たちは歩かなきゃならんのだからな。ブツブツ文句を言わずに警戒に就けよ。班長にどやされても知らんぞ」
唐櫃は、斥候を出してからも暫く地図を見つめていたが、卑屈に笑って地図を将校鞄に仕舞った。
「いい加減なものだな。こんな古い地図なんか、尻を拭く以外なんの役にもたたん」
疎大な地図では、地理の詳細などわかるはずがない。見当がつくのは、目的地までの方位と、漠然とした距離だけである。
菊地は、曹長斥候が出たことで、直属の澤来伍長の許可を得て藪に入った。用便のためではない。戸田が、森の隘路を通過中に足首を捻挫したため、応急処置の添え木を必要としたのである。
その戸田は、脚絆の上から水筒の水で患部を冷やしながら、藪に入って行った菊地の帰りを待っていた。怪我をするのは不注意と言われればそれまでだが、この場合の事故は仕方なかった。前を行く荷車が深い轍を掘ったのを後続の荷車がそれに填まって動けなくなったために、それを押し出そうと荷車の側面に廻って押していたのを、足場が湿っていて柔らかいために足を滑らせて、運悪く足首を車輪に挟んだのである。
やがて、菊地が適当な添木を何本か抱えて戻って来た。
「なにもしないよりましだからな。応急処置だ」
軍靴の上に予備の脚絆を少しきつめに捲いてから添木を当てがい、その上にもう一枚の脚絆を捲いて固定した。
「うめえもんだな、医者も顔負けだぜ」
「歩くときには、こいつを支えにして足の負担を軽くしろ。多少痛むのは仕方ないが、無理をするな。いよいよとなったら俺の肩を貸してやる」
と、戸田に、松葉杖代わりに手頃な枯れ枝を手渡した。
「すまねえ、恩に着るぜ」
戸田は、それを使って歩いてみせて、
「これなら大丈夫だ」
と、嬉しそうに歯を見せた。
斥候の伝令が帰って来て、隊長に状況を報告していた。
「……ということでありまして、この先は、日本の開拓団ではなく、満人の村落でありました。しかし、村落は思ったほどの規模ではなく、反日的感情も危険も見受けられませんが、驚いたことに、その村落には流暢な日本語を話す村長がおりまして、いま曹長殿がその村長と話をしておられます」
斥候兵の意外な報告に、唐櫃は怪訝な顔をした。古くからの未開の地であるが、開発が進んで満人集落ができていても不思議ではないのである。だが、怪訝な顔をしたのはそのことではない。そこに日本語を話す満人がいることに疑念を抱いたのである。
「こんなところで、日本語がわかる満人がいるとは意外なことだが、慎重な本郷が接触するほどだから、どうやら危険はなさそうだな。ご苦労だった。ただちに合流すると本郷に伝えろ」
そう言って三名の下士官に命じた。
「いま聞いたとおりだが、念のため、警戒態勢を維持したまま進むことにする。会田、軽機を隊の前後に立てろ。それから澤来、全員の装具を輜重車に乗せて、小銃を行李の両翼につけろ。擲弾筒を使う万一のことはあるまいと思うが、黒木、お前は俺のあとにつけ」
「わかりました」
黒木は踵を鳴らした。
小銃班が行李の両翼に就くと、会田伍長が、通信掛から軽機の班長補佐として自分の班へ編入した狩谷上等兵を呼んだ。
「軽機を隊の前後に就ける。狩谷、お前は後衛の指揮をしろ。俺は前衛の任に就く」
狩谷の号令で、軽機関銃の二班が隊列の前後に分かれて守備に就いた。
澤来伍長が隊長に報告した。
「出発準備完了であります」
唐櫃の合図で、武装した隊列は満人村落へ向かった。