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祝炎の英雄  作者:
第七章 祝炎の英雄 後編
226/233

唐紅を背負う一族 十四

 何かが蠢いた。

 それまで、祝融の背後で左丞相と共に惨劇を目の当たりにしていた彩華も燼へと目がいく。

 嫌な気配――皮膚の代わりに張り付いた鱗の隙間がぞわぞわと突かれている様で、彩華は無意識に右腕を摩っていた。


「左丞相、お退がり下さい」


 彩華は燼の姿から一瞬たりとも目を離さず左丞相を扉へと後退する様にと促した。言われずとも、左丞相はその身にひしひしと形容し難い()()を感じていた。


 ――恐ろしい、だが……


 しかし、何かを感じたとて何も武器を持たない左丞相は彩華の言葉のまま、無言で下がるしかなかった。

  

 間合いに余裕が出来た彩華は燼へと向き合い、矛を手にする。既視感にも似た感覚を胸に残しながらも、燼を前にすると迷いが生まれた。


「燼――」


 彩華は最後の願いを込めて燼の名を呼んだ。水神洛嬪と同じ、神子の肉体の内に芽生えた神威を感じても尚、彩華は希望を捨てきれなかった。


「ねえ、私……」


 彩華に浮かんだのは、まだ幼い暴れ回る熊の姿の燼だった。あの時には、既に()()の力に毒されていたのだろう。いや、生まれた時から燼は己の力に翻弄されて生きてきたのだ。

 その力の影響か、導きか、彩華は今、この場で立っている。

 一度はそれを恨んだ事もあった。祝融への忠誠心も己が意思でないかもしれないと嘆いた。 


「今なら、言える。私は、自分でこの道を選んだって。燼もそうなんでしょ? こうなると分かっていて、此処にいる」


 燼は、何に反応したのか、その手に持っていた偃月刀を捨てた。

 ガラン――と落ちた偃月刀は血溜まりに沈み、燼の身体が波打つ。


「彩華、」


 祝融の無慈悲な声音が響く。彩華は前に立つ祝融へと目線を移すと落ち着いた姿勢で祝融もまた、剣を抜いていた。

 彩華の矛先が燼へと向けられ、構える。


 身構える姿勢は低く、前に突き出された(きっさき)には闘志が籠る。彩華の右腕の血潮が脈々と鱗へと伝わり、一歩前へと踏みだした。



 祝融が動いたのは、彩華と同時だった。

 柳葉刀を抜く。迷いなどない。

 神農の言葉通り時が来たのだと。

 推しはかれるものではなく、確かな答えを知る由もない。ただ、燼の使命はこの時の為であったのだと一人得心していた。

 そして、祝融を消し去りたい神が、今、燼の中でじっと待っている事も。


「彩華、援護を」

「承知」


 祝融と彩華、二人の瞳に気概が籠った時。パチリと、祝融の指先に痺れが走った。最初こそ違和感程度だったそれは、気づけば血溜まりの上を青い稲光が通り過ぎていた。


 空模様は早替わりし、空を雲が覆った。それまで窓から差し込んでいた光は途絶え、薄闇が訪れる。

 薄闇の中、一筋の光が轟音と共に轟いた。落雷が地を穿つ光が窓から差し込んだ瞬間、祝融の瞳には別人にも等しい燼の姿が映っていた。


 いつかの既視感がはっきりと現実味を帯びた瞬間でもあった。女神洛嬪と同等かそれ以上の存在が怨讐(おんしゅう)を膨らませて祝融へと殺意を向ける。


 その怨みが、燼の気配を完全に消し去り飲み込んだ。


 祝融は地を蹴った。その身と剣を炎で包み込み、真っ先に狙ったのはその首。

 だが――


 祝融の剣が燼の首へと届く、その寸前。

 燼は、笑ったのだ。


 それが、祝融に心の隙を生んだ。燼そのままの姿を垣間見た瞬間に迷いが生まれ、祝融は自分が何をされたか気づくのも遅れてしまった。


「……くそ」


 祝融は、衝撃と痛みを腹に感じる。血溜まりから生まれた指の太さ程度の鋒は、しっかりと祝融の腹部を貫通し、更にもう一本が祝融の全身を狙っていた。

 が、今度は彩華が前に出た。祝融を狙う全ての鋒を振り払い燼へと向けて矛を横薙にすると、燼は背後へと下がる。

 祝融の腹には、残骸が残った。血の塊とも言えるそれは硬く、抜けば失血死すらあり得る。


「祝融様」

「すまん、油断した」


 油断ではなかった。彩華はそれを見抜き、祝融に変わって前に出ようとするも、それを静止したのも祝融だった。


「案ずるな、次は問題ない」


 既に、祝融の瞳から戸惑いは消えていた。嫌な手口を見せられ、本心を見抜かれていた事を恥じると、祝融は己に苛立ちを感じていた。


「それよりも、厄介はこれだな」


 祝融は距離を取った燼へと意識を向けたまま、目線は下に落ちた。一面の血の海が、足にべっとりとまとわり付く。


「……祝融様、あれは――」

「ああ、燼はもういない」


 そう言って、祝融は再び動いた。これ以上の隙を作れば、今度は彩華の身に危険が及ぶ。

 次はないものとして考えなければ。祝融は再び燼へと身を低くして近づいた。その間も、足に血が纏わりつき、鋒が祝融を狙った。一歩進む毎に、鮮血の色を残したそれが祝融へと向けて棘にも剣の先にも似た形状で急所を狙う。

 その鋭さ、悍ましさを宿して、怨みが籠り、一手一手に殺意よりも更に深みにある業にも近しい渦巻く闇を孕む。

 

 しかし、腹を決めた祝融が二度目を喰らうことはなかった。どれも当たる既で躱して、傷一つつく事無い。

 唯一の最後の一撃が祝融の黒髪の先の当たって、はらりと髪の先が切れて地に落ちた。彩華も殺意を感じた瞬間次々に避けて、再び燼へと近づく。

 祝融が炎を剣に宿し、再び燼の眼前まで近づいた瞬間だった。


『ああ、忌々しい力だ』


 耳慣れない低い声と共に、祝融へと鋒が突き刺さる瞬間に血を伝い稲妻が疾風よりも速く祝融の腹部に突き刺さったままの()()を通り抜けた。


「なっ……」


 ほんの小さな衝撃は祝融の身体を駆け巡り、まるで全身を打ち付けられた痛みが祝融を襲っていた。痛みというよりは、一瞬の身体の硬直で祝融はその場に膝をついた。

 燼に動きはなかった。それこそ、指の先一つとして動いていないのだ。

 にも関わらず、辺り一面が、異様な熱気に包まれ始めた。赤々としていた鳳凰の間は、熱気と共に黒色へと変化し、散らばる屍からは異様な匂いが漂う。


 祝融が立ちあがろうとするよりも速く、その横を彩華が駆け抜け、矛を振るった。果敢に燼のその心の臓へと突き立てんと隙を伺おうとするも、赤黒くなった切先が今度は痺れと熱気を込めて彩華へと襲いかかる。


 彩華は俊敏に、そして軽快に動くが、赤き鋒に翻弄され思う様に動けていない。そこへ祝融は燼の背後へと回り込んだ。己にも剣にも炎を纏わせ近づくと、新たに赤黒い鋭い鋒が祝融を球体状に護っていた炎の盾を貫いた。


 祝融は反応が遅れた。腹に刺さったままの遺物がずきりと痛んだのもあったが、それ以上に赤い切先に翻弄されていた。盾を容易に貫かれる事も想定していなかったのだ。


 燼から底知れない畏怖に祝融は気圧されそうになる。女神洛嬪を相手にしている時すら、祝融は一歩として下がる事は無かった。

 それ以上の何か、祝融は燼の中に入り込んだ存在を確信していた。

 ただ、戸惑いはあった。


 洛嬪を殺された、その怨みは理解できたが、そもそも、その存在はその前から祝融を恨みつらみがあるとしか思えなかったのだ。


 剣に迷いが生まれる。

 底知れない怨みが示すものを鑑みた時に、祝融はある考えが浮かんでは沈んでいた。


 ――俺自身こそが消されるべきなのでは…


 そんな考えが浮かんでいた。


 ――叡智の神、伏犧が俺を討うべく、今目の前に現れているとしたら。それこそが、燼の使命の正体なのだとしたら……


 その思想に辿り着いた瞬間、祝融は次にどう動くかの判断すら、ままならない迄に思考が停止してしまっていた。


 その隙を燼が見逃すはずもなく、燼の視線が祝融を捉え再び轟々と唸り声をあげた稲妻が走り抜けた。

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