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祝炎の英雄  作者:
第七章 祝炎の英雄 後編
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唐紅を背負う一族 四

 何の前触れもなく、九芺は尾が自由になる感覚があった。ぶつりと糸でも切れた、とでも言えば良いのか。

 九芺は必死だった。確認する余裕もなく、ひたすらに上空へと逃げる。

 此処ならば。それほど上空へと舞い上がった時、漸く状況を理解する余裕ができていた。死という感覚が浮かんで、心臓は高鳴る。今も体温冷めやらぬ状況で、九芺は背に呼びかけた。


「槐様、御無事でございますか」


 誰の温もりかもわからぬ背に問いかけると、細々とした声が返ってきた。


「大丈夫です。祝融様も、私も、蟲雪も……でも……彩華が……」


 飛び立つ寸前に、彩華が黒い濁流に飲み込まれたのを見たのだろう。助かっても尚、槐の心は今も不安の渦中にあった。


「槐様、此処からは良く見えないでしょうが、彩華女士は生きておられます」


 九芺は力強く答えた。槐の項垂れた首が上がり、蟲雪を見た。蟲雪もまた、強く頷く。慰めなどではなく、真実なのだと。

 槐がなりふり構わず身を乗り出して下を覗き込むものだから、蟲雪は慌てて槐を支える。本来であれば断りもなく触れて良い相手では無いが、まあ今は緊急時だ、と己を納得させた。


 その槐の視線の先。屋根すら大破した先程まで居た祝融の居室だったそこは、黒い沼に覆われて何も無い様にも見えた。

 だが、月光が照らす先、黒い鱗と金の瞳が鈍く光を帯びた。


 黒龍が黒い沼から勢い良く飛び出して、天へと向かって咆哮していた。


 ――あれは……まずいな……


 九芺は同じ龍人だ。だからこそ、其の様を見ただけで彩華の状況を察した。

 生きてはるが、暴れ龍其のものだ。


 荒々しい呼吸と共に剥き出された闘争心、獣の如く喉が唸る。

 本能を剥きだせば、それこそ獣と大差はない。本能のままに暴れ、手はつけられない。

 運良く鎮めることが出来れば、良。しかし、皇都での暴れ龍の扱いは刑罰対象である。


 祈るしかない。九芺には背に最優先で守らねばならないものがあるのだ。

 背で、流れる風に乗ってか細い声が、祈りを捧げていた。

 どうか、どうか――と。


 ◆


 破壊されてた宮の一角。残骸とドロドロとした黒い沼ばかりの底から黒龍が這い上がった。

 龍の尾がゆらり、ゆらりと左右に揺れて相手を威嚇する。彩華は口から血反吐を垂らしながら、眼前の業魔と相対していた。もう、殺意あるそれしか視界に入らなかったのだ。

 標的として見据え、牙を剥き出し咽喉を鳴らす。今にも襲い掛からんと、瞳孔が鋭さを増していく。


 業魔の身体は少しずつ大きくなっていく。一体、幾人の命を喰ったのか。更には、死んだもう一体を喰らって、龍を幾人も喰らって、業魔の身体は龍の転じた姿などよりも更に大きくなった。


 そして、漸く身体の変化が消えた頃、業魔の動きは止まった。


 最早、業魔は人の形を成してはいなかった。

 龍頭にも似た角を生やし、ドロドロと崩れかけた顔から表情は消え、肉体には手とも足とも区別がつかない原型を留めきれなくなった()()になっていた。


 ――うああぁぁー……


 天へと向かって、雄叫びにも呻き声にも似た声を発しては、己がうちに溜まった呪詛を吐き出す。異形の姿と成り果て、人を捨て……いや、人を喰らった時点で人としての矜持など捨て去ってしまったのかもしれない。

 そして、それと向かい合う彩華も――今は、人としての心など忘れ去っていた。


 標的と見定めた彩華は蛇の如く身体を地を這わせ勢いよく近づくと、あろう事か業魔へと齧り付いた。

 其の黒い巨体のどろどろに牙を穿つ。

 大きくなりすぎた鈍間な業魔が、呻き声をあげ彩華を振り解こうと龍の鱗を何度も引くがびくともしない。爪は食い込み、牙は外れない。

 龍の本能と言われる其の姿は異形と大差なく、獰猛な獣も同然。

 業魔はその身に黒龍を飲み込もうとするも、強固な鱗がそれを阻んだ。


 業魔に絡みつき、締め上げ、牙と爪はミチミチと音を立てて食い込んでいき、そして――


 黒龍の前足の爪はますますと首の根本を押さえ込み、牙が喰らい付いていた部分を軽々と引き千切った。今度は、脆くなった首に追い打ちをかけ頭へと齧り付く。そうして、もう一度上へ上へと無理矢理に引っ張った。

 みちみち、ぶちん――と鈍い肉が裂けて引きちぎれる音が、空虚な夜に響いた。

 業魔の頭を咥えた黒龍は、胴をしならせたかと思えば、徐に適当に放っていた。

 巨体は動きを止め、黒龍が絡みついていたその身から離れると、ゆっくりと業魔の身体は倒れていく。ずどん――と、瓦礫を巻き込み埃を立てて業魔は、地に臥した。


 目標を無くした黒龍の咆哮が空へと虚しく轟いていた。


 ◆


「まずい……」


 業魔は消えた。しかし、それ以上の問題が起こった。

 此処には、百戦錬磨の龍に太刀打ち出来る戦力が存在しない。

 九芺は、業魔以上に心臓が跳ね上がりそうだった。次に黒龍が獲物を定めるならば、己か蟲雪だ。逃げるが勝ち、と行きたいが、そうすると黒龍は皇宮で暴れるだろう。

 そうなれば、楊彩華は業魔同様に討伐対象だ。規律を乱す龍は粛清される。特に、抑制の効かない姿を持つ龍は、高位の権限が与えられると同時に厳しく罰せられる事で、均衡を保っていると言っても過言ではないのだ。


 そう。だから、今九芺が逃げ出せば、彩華は確実に刑罰を与えられる事になるだろう。

 だが、背にはその彩華に託された者達がいる。


 ――どうすれば……!


 同族だから見捨てられないのではなない。今、九芺の背で槐が何に対して祈りを捧げているかを、容易に想像できたからだ。


「九芺氏、少し高度を下げてくれ。俺が行ってくる」


 龍から飛び降りるのは初めてだから、と蟲雪が唐突に名乗りを上げた。止められる筈がない。九芺は、その言にすら迷いが生まれた。

 業魔すら容易に殺す龍を止められるのは、同等かそれ以上の実力者でなければ無理だろう。獣人族程度の牙では硬い鱗を傷つける事すら難しい。


「時間を稼ぐ。槐様と祝融様を風家へとお連れして、できれば精鋭でも連れて戻ってきてくれ」


 九芺が答えを渋っている間に蟲雪は祝融を軽く支えるように槐に促し、更には確りと九芺の立髪を握って離さないように指示する。

 それまで、蟲雪が槐と祝融を支えていた。すっと離れる手がより不安を覚える。まるで、死にに行く者を相手取っているようで槐は離れる手を引き寄せた。  

  

「待って、彩華は……」


 自分が説得すると、言いかけたがあっさりと蟲雪に口を挟まれる。

  

「槐様、今の彩華女士では個の判断どころか、無差別に眼前を通り過ぎる存在すら殺すでしょう」


 槐は、ただ絶句した。何故、とも言えず、頷く事もできず。受け入れる事もできなかった。

    

 そして、九芺は辛くも頷いた。頷くしかなかった。他に名案があるわけでもない。九芺は苦渋に満ちた顔で、するすると未だ轟く咆哮を上げ続ける黒龍へと近づいた。

 鋭く尖った金の瞳が、九芺を捉えた。

 勢い良く上昇し始めた龍の姿からは鋭い無差別の殺意が放たれる。


 蟲雪が、今にも飛び降りようとした。が、さらに上空から、一つの人影と龍が蟲雪の目の前を掠って、落ちていった。


「え?」


 蟲雪は驚いて足が止まる。目を凝らして、一体何が起こったのかを確認すると、月影に照らされた赤髪と赤い龍が黒龍へと向かっていた。


「赤龍?」


 助けは呼んでいない。呼ぶ暇もなかったのだ。見慣れぬ人影に気を取られ、地上ばかりに意識を傾けていると、何かが九芺の背に降り立った。


「槐様、ご無事ですか」


 蟲雪は面食らった様子で、声の方へと向いた。その声の主は、月光に照らされた赤々とした髪を靡かせながら苦心を浮かべる。蟲雪にとっては見知らぬ顔であったが、槐は馴染みか、安心した様子で差し伸べられた手を受け入れていた。


「……(れい)、どうして?」

「燼が、業魔の気配がするから行けって」


 槐に変わって祝融を支えながらも、朱黎は苦々しい表情を見せた。そして、蟲雪を見ると、祝融を支えろと指示する。


「今飛び降りない方が良い、兄上と浪壽(ろうじゅ)が向かいました」


 言葉を発する度に黎の目線は俯く。俯いた目線はそのまま地上の闇の中、暴れる龍へと向かっていた。


「槐様、最悪の場合……彩華は殺します」

「でも、彩華は……」

「わかっています。此処からでも、業魔の残骸が見える。彩華の強さがあったからこその結果でしょう。でも、我々龍人族も掟は守らねばなりません」


 黎の言葉と共に、槐はどん底へと突き落とされている気分だった。自分が朝方にでも風家へと戻っていれば。絶望が槐の心に滑り込み、矜持などという馬鹿げた事を宣った己を心底罵った。打ちひしがれている場合ではないと理解しながらも、槐は後悔ばかりだった。


「……もっと早く来るべきでした」


 そう、ボソリと呟いた黎の言葉すら聞こえぬ程、槐の気力を弱らせるには十分だった。

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