20 夢ではない夜
「あ、わり」
こたつの中で、足が当たった。
反射的に謝ると、百羽は不思議そうな顔をする。その顔のまま、こたつの中で変な動きを始める。べしべし、と足の裏で脛のあたりを叩いてきた。何だよ、と訊ねると、別に、とだけ言う。
珍しく、おれが座っていた。
「だからさあ、さっきから白菜が切れてるようで切れてないんだって。それとも何? その無駄に鍛え上げた何とか流剣術とかで白菜を切っては戻し切っては戻ししてるんですかあ?」
「そうだ」
「開き直んな」
キッチンには、あずきと窓架が立っていた。
おれが部屋に帰ってきた時点で、勝手に全員勢ぞろいだった。あずきなんか、張り切ってエプロンまで着けていた。そして言う。任せろ。今日という今日は、俺がみんなの鍋を作る。すき焼き担当大臣が、その後ろで「こいつをこれから馬車馬のように働かせる」という顔をしていた。
何となく、カーテンは開けたまま。
暗くなって、さらに気温の下がっていく冬の夜。おれは、一体いつぶりなんだろう。ただ座って鍋が出来上がるのを待つ側になって、だらだら時間を潰している。
手持無沙汰で、リモコンを取った。
「何かやってる?」
「恐怖映像百連発」
「いいよ、そんなのやってなくても」
一生懸命これを作った人がいるんだぞ、とおれは言ってみるが、実際食事中に見るようなものでもない気がした。チャンネルを変える。古いニュースはそんなに見ない。アイドルが歌って踊る音楽番組で、一旦止める。
向き直る。
じ、と百羽がこっちを見つめている。頭を避けると、別にテレビを見ているわけじゃないらしい。視線はついてきた。
「玲ちゃんって、こういうの好きなの?」
「たまに聴くかも」
「曲じゃなくて」
と言うが、別に曲以外のものを求めてこのチャンネルにしたわけじゃなかった。いつもそうだが、テレビの配置はおれの背中側。見て楽しむものよりも、何となく音を聞いてるだけで内容が理解できるものの方が、正直助かる。
でも一応、そこまで百羽が言うならと、
「ああ、可愛いんじゃん」
げし、と足を蹴られる。何だよ、とおれは訊ねる。別に、と百羽は言う。普段だったら、おれたちの足の間にはあずきや窓架の壁がある。が、今日は直接足が届く分、やりたい放題にされている。
ご機嫌を取ることにした。
「こういうのが着たいなら、コンビニで発注してみるか?」
「え、」
「百羽の祖母さんが作ったシステムが、どこまで対応してるか知らねーけど。でも、おれたちの服とかも良い感じの揃えてくれてるし、結構いけそうじゃね」
着たら似合うよ、とも添えておく。
げし、と蹴られる。何だよ。着ないよ、ああいうのって普段着じゃなくてステージ衣装だよ。ステージも一緒に頼めば?
げしっ。
「おい、見ろ玲。俺が切った白菜だぞ」
百羽が黙ったのと同じタイミングで、やたらに自慢気な芳尋堂あずきくん十七歳が白菜を持ってきてくれた。その後ろで、すき焼き担当大臣がこうコメントする。普段使ってるラジコンが意外と高性能だってことがわかった。肩を叩かれ、これまでの功を労われた。
結局、他のはおれが準備することになった。
材料を整えて、席に戻る。後は煮えるのを待つだけ。頃合いを見計らって、おれは口を開いた。
「聞いてきた」
∞
「は? 泊まんの?」
「言ってなかったっけ?」
窓架は悪びれもせずに言うが、一番許可を取っておくべきなのはどう考えても部屋主のおれだった。
「まあ気にするな、どうせ床で雑魚寝するだけだ。何か用意してもらおうとは思っちゃいない」
「いや……なおさら帰ってベッドで寝ろよ。徒歩十秒なんだから」
「はい、それじゃあこの泊まりの発案者さんは手を挙げて~」
窓架が言う。
きょろきょろと三人が、大して広くもない部屋を見渡す。
手が伸びる。
「はい」
「……じゃあまあ、いいけど」
こいつ簡単すぎる、と窓架が言った。
つってもなあ、とおれは部屋を見渡しながら考える。おれは別に床で寝たところで何ともないが、百羽は、それと場合によってはあずきはそれなりにきついだろう。何か床に敷くものはないか。普段から部屋を綺麗に掃除しているのが災いした。要らないものがない。クローゼットに何か詰め込んでないか、と立ち上がる。
他の三人も、全員立ち上がる。
「何だよ」
「そろそろ食べるものなくなってきたしな」
「私も甘いもの食べたくなってきた」
買いに行くつもりらしかった。
なおさら「帰れよ」と言いたくなった。
が、一対三じゃおれの意見は通らない。館内暖房なんか、とっくの昔になくなった。四階から一階の間を首を竦めながら下って、駆け込むようにしてコンビニの中に入っていく。
「どうせなら高いの食べよう」
というのが、窓架の主張だった。婆さんが倒れてしばらく経つが、果たして生菓子なんか残っているんだろうか。残っていた。同じことを考えていたのか、窓架とあずきは早速賞味期限を確認し始める。おれは、婆さんのいなくなった店の中で、夜な夜な母さんがコンビニの商品を補充しているところを想像する。おれもやってたことがある。よくわからない場所で繋がりを感じる。
百羽の姿がない。
通路の方に顔を出すと、ふらふらどこかに背中が遠ざかっていくのが見えた。
試しに、ついていってみることにした。
とんでもなく迷いのない足取りか、それとも本当に何も考えていないだけなのか、判断に困る歩きっぷりだった。何となく左右の棚を見たかと思えば、ととと、と小走りみたいにして別の棚まで行って、近付いた瞬間にはすでに興味を失くしてしまったのか、ぷいっとどこかにまた歩き始めたりもする。恐らくおれが忘れている記憶の中には、ちょうちょを追いかけていって崖から落っこちた百羽の姿があると思う。
行き先は、めくるめくコンビニの奥地へ。
おれはかなり早い段階で「やってることがちゃんとしたストーカーでキモいな」と思い始めていた。だから、途中で踵を返そうともした。が、ここで見失うと朝まで百羽の捜索を嵌めになるのではないかという懸念も拭えなかった。板挟みの解決法は簡単で、『話しかける』というものがある。
話しかけようとした。
そのとき、急にきょろきょろと百羽が辺りを見回し始めた。あ、とおれを見つける。ちょいちょい、と手招きする。指を差す。
「玲ちゃん、これ」
ハンモック。
なんでこんなものがここにあるのかもわからなかったし、百羽が反応する理由もわからなかった。
「何が」
「買ったら?」
「なんで」
「嬉しいよ。部屋にハンモックがあると。あと、寝るとこ一つ増えるし」
絶対自分が使いたいだけなんだろうな、とおれは思った。
試しに寝てみたら、とおれは言った。えぇ、と百羽は急にへらへらしながら両手で拒否し始める。
「悪いよ、売りものなんだし」
「そうだな」
「…………」
「何だよ」
「……もう一声」
いいんじゃねーの、コンビニのお嬢様なんだから。
コンビニのお嬢様は、下々の者がそこまで言うならとでも言いたげに、胸を張って飛び込んだ。
「おぉ……」
「どうだ。寝心地は」
「思ったより普通……」
「安定感あっていーじゃん」
「あ、いた」
こっちいた、とでかい声で言うのは窓架だった。負けた、と割と真剣に悔しそうな声色で、あずきが走ってくる。
「何してんの。……ほんとに何してんの?」
「百羽、次俺に貸してくれ」
「思ったほどじゃないよ」
「あ、買って今日使うの? いいんじゃん」
いいわけないだろ、とおれは思った。
このへん寝袋とかもあるじゃん、と周りを物色し始める窓架に、
「待ておい。それ買ってどこ置いとく気だよ」
「玲の部屋に決まってんじゃん。いつも集まるのそこなんだから」
いつ使うんだよ、とおれは言おうと思った。
が、言う前から何を言って返されるかわかっていた。今日。
「なあ、玲」
しかも、あずきまで、
「テントとか……どうだ?」
「どうもこうもねーよ。部屋で張ろうとすんな」
「焚火やってあげようか。室内でやるの、私得意だし」
やめろマジで、の声を全然聞いちゃいない。
よりにもよって、その区画にはキャンプグッズが揃っていた。なんでこんなもんを、ともちろんおれは思う。〈塔〉の中でぬくぬく暮らしてるだけのおれたちに、一体どうしてこんなものを母さんも婆さんも揃えておいてやろうと思ったのか。
答えは、わかってる。
バーナーでマシュマロを焼こう、と窓架が言い始める。マシュマロだけじゃなくシャケとかも炙ろうとか、そういうことを言ってあずきが悪ノリを始める。実質言い出しっぺの百羽も加わった。わたし、あの山に登る人とかが飲んでるコーヒーのやつやりたい。
蛍光灯の明かりは、それでも夜を照らし切れずにいた。
もうすぐ、この場所はさらに暗くなるだろう。それでも、幾度かの点滅を挟みながら、それはいつまでも、できる限りの力でおれたちを照らそうとしている。
照らされた三人は、笑っていて――
「玲ちゃんは?」
百羽が、おれに訊いた。
おれは、少しだけ悩んだ。後先考えろよとか、だからおれの部屋でやるなよとか、そういうことを言おうかどうか。
けど、結局口から出てきたのは、
「ケーキ、一回炙ってみたいと思ってたんだよな」
百羽は驚く。あずきは興味深そうにする。窓架ははなから、出た、とゲテモノ扱いしてくる。
役に立つものばかりを買って、おれたちは店を出た。
会計は、おれが代わりにしてやった。
∞
「……玲ちゃん」
多分、午前三時を過ぎていた。
普段おれが使っているベッドは、寂しく部屋の隅に佇んでいる。その横に、買い込んだ毛布やら寝袋やらを敷いて、おれたちは眠っている。
窓から順に、あずき、おれ、百羽、窓架。
「起きてる?」
「……寝てる」
起きてるじゃん、と小さな声で百羽が呟いた。
それでもしばらく、本当に気遣っていたのか、百羽は黙ったままだった。暖房と、加湿器の音だけが静かに響いている。これもなければ、本当に、何の音もしないような静かな夜だったのかもしれない。
あずきと窓架は、もう眠っているんだろうか。
おれは二人を起こさないように、百羽と同じくらいに小さな声で、
「だからコーヒーはやめておけって言ったろ。寝らんなくなってんじゃん」
「仕方ないじゃん。美味しいんだもん」
カーテンの隙間から差し込む夜の明かりが、天井に薄く、青っぽい線を差していた。
夜明けが来れば、消えていくことだろう。
「訊いていい?」
百羽が言う。
隣で、寝がえりを打たない程度にごそりと、動く気配がする。
「今日みたいなことって、今までもあったの?」
「あったらもうこの部屋住めないだろ。あずきの部屋みたいになってて」
「そういうことじゃなくて」
もちろん、おれは百羽の質問の意味がわかっていた。
まあ、と言葉だけで頷いて、
「あったよ、そりゃ。おれの部屋に集まって鍋やったり、暇だから何かイベント起こしたり」
「たとえば?」
「流しそうめんとか。何でもフォンデュ大会とか」
「楽しかった?」
「そりゃな」
「わたしもいた?」
「そりゃな」
「そのときは、みんな思い出してた?」
五拍開く。
「いいや」
沈黙。
寝ていたんだったらいいな、とおれは思った。だけど多分、そうじゃない。おれは天井を見上げている。考えている。予想している。
次に百羽が、口にする言葉を。
「思い出してみたいな、わたしも」
相槌を打てなかった。
それでも百羽は、これまでおれたちがした話を汲んでくれる。おれが言いたいことに、勝手に答えてくれる。
「別にさ、お父さんのこととか、責任とか、そういう話のつもりじゃないよ。全く何も感じないってわけじゃないけど……でも、そっちじゃなくて」
寂しいよ、と百羽は言った。
「わたしだけが思い出してないから仲間外れとか、そういうことでもなくて。……こうして遊んだ時間も、いつかはわたし、忘れちゃうんでしょ?」
そのはずだった。
この場所で、おれたちが何度も時間を繰り返そうとする限り。〈塔〉はおれたちの記憶を持ち去っていくだろう。そうして、二十四階のあの部屋の中に押し込める。
何度も何度も繰り返す。
朽ち果てるまで、ずっと。
「おばあちゃんがね、わたしを守ってくれてたって聞いたとき、嬉しかったよ。ここでこうやって、ずっと楽しくやってられたらいいなって、ほんとに思ってる。でも……」
わたし、と。
百羽が言うとき、おれは自分が深い夢の中にいるような気がした。
誰からも、何からも見つからない場所だ。不思議なものと、好きなものがたくさん詰まっている。水の中にいるみたいに自由で、不自由で、少しだけ揺れていて、少しだけ温かい。
目を閉じれば、本当に夢になる気がした。
「擦り切れてなくなるだけじゃない人生も、生きてみたいよ」
暖房の音。
加湿器の音。
廊下にしんしんと降り始めた、雪の匂い。
規則正しく漂う、四人の呼吸の音。
瞼を閉じれば、いつも通りの朝が来るだろう。瞼を開けば、夜も終わる。この誰にも知られてない時間も、きっと忘れられる。それは本物の夢の中に沈んでいって、なかったことになる。
瞼を閉じれば、元通り。
「……寝ちゃった?」
「いや」
瞼を開けたまま、おれは答えた。
「ちゃんと、聞いてたよ」
∞
卒業式の朝に、よく似ていた気がする。
おれたちは、起きて寝床を始末した。持って帰れよとおれは再三言ったけど、誰も持ち帰ろうとはしなかった。朝食は結局、一度コンビニに降りて買い直した。流石に、歯ブラシを四本置いていたりはしない。そこでようやく全員が散り散りになって、改めて風呂に入ったり、着替えたりすることになった。
その後おれは、先に一人で職員室に行った。
「そう」
と、母さんはおれを見るなり、全てを察したようにして言った。
「決めたのね」
そう言って、心から慈しむような目を向けてもきた。
私たちは、と言った。もうずっと、この場所で魔法を使い続けてきた。今更もう、一緒には行けない。
「ここから先は、子どもたちだけで進むの」
泣きそうな顔までして、母さんは、
「本当に、もう大丈夫?」
そう訊ねる。眼鏡の奥、おれとそっくりの瞳が、雨の日の水面みたいに揺れている。
でも、おれたちはもう、子どもじゃなかった。
∞
「言ってきた」
合流するときの言葉は、そこから始まる。
もう、残りの三人はみんな二十四階にいた。
着替えは終わっている。覚悟も、何となくは決めている。
話も済んだ。
後はただ、進むだけ。
「じゃあ」
と先頭の一人が言う。ドアノブを握る。一度もその部屋の中に入ったことなんてないくせに、指先の一つも震えちゃいない。
おれたちの目を、じっと見つめる。
「行くよ」
そうして、最後の扉は開かれた。




