01 冬の訪れ
この幸せがずっと続きますように。
∞
蛇と目が合った。
ばっちり。七段目を踏んだとき。
「ねー、玲ちゃん。やっぱりあのセーター見つかんないよ。どこしまったか全然覚えてない」
「おー」
「おー、じゃなくてさ。一緒に探してよ。天井裏には冬服なんか置いてないでしょー」
「でも、蛇はいるぜ。今ばっちり目が合ってる」
「へび?」
「蛇」
「はいはい」
階段の下で、百羽が溜息を吐く声が聞こえた。
それからちょっと遅れて、ズボンの裾を引っ張られる。
「変なこと言ってないで、一緒に探してよ。日が暮れちゃうよ」
「でもさ、よく言うだろ。こういうとき目を離したらいけないって」
「それって、野良犬とかクマが相手でしょ。蛇なら意味ないよ。目が合ったまましっぽ伸ばされて、首にぐるぐる巻きつかれて、ぎゅーって絞まって終わりだよ。絞首刑」
「よくわかったな。今まさにそういう状態になってる」
「そうなんだ。じゃ、死んじゃう前に早く逃げた方がいいよ。ほら下りて」
そこまで言われちゃしょうがない。
おれは引っ張られるがままに天井裏へと続く階段を降りていくことにした。六段目、五段目、四段目……。
「ぎゃあ!」
あと二段というところで、百羽が悲鳴を上げた。
「なななな、なにそれ」
「なにって、説明しただろ」
百羽はすごい勢いで後退りして、背中から壁に激突した。ぶるぶる震える指先で、というか全身まるごとぶるぶる震えさせて、おれの首元を指差す。
「蛇」
「なんでそんなに落ち着いてるのっ!」
「よく言うだろ。こういうときは慌てず騒がず、相手を刺激しないようにって」
「それはハチとかが相手のときでしょっ! ていうか、もう慌てたり騒いだりしないと手遅れだよっ! 大人しくしてたら物言わぬ死体になってこれから先未来永劫慌てたり騒いだりできなくなるよっ!」
恐ろしい脅し文句を、立て続けに百羽が放ってくる。
そう言われると、そんな気もしてきた。おれは目線を下げてみる。首元にたっぷりと、マフラーのように蛇が巻き付いている。いまだに目が合っている。意外につぶらな瞳だ。
「……それ」
百羽が、恐る恐る言う。
「どんな感じなの」
「冷たくて風邪引きそうだ」
「…………」
「お」
百羽が呆れた顔をしたそのとき、するすると蛇のマフラーはほどけ始めた。おれの身体を木のように伝って器用に下りていく。床に寝そべると、そのままにょろにょろ身体を動かして、廊下を突っ切っていく。そのまま窓から出ていく。
一件落着。
ちなみに、百羽は蛇が目の前を横切る瞬間、さらに怯えて壁に後頭部をぶつけた。
「頭大丈夫か?」
「こっちの台詞だよっ!」
蛇に睨まれ終わって息を吹き返した蛙みたいな勢いで百羽が言った。ずんずんと大股でこっちに詰め寄ってくる。セーターが見つからない話はどうしたのか。いかにも目の前のこと以外頭になくなっちゃいましたという一直線ぶりで向かってきて、下からそっと、首元に手を添えてくる。
「大丈夫? 噛まれたりしてない?」
「…………」
「キス待ちすなっ」
黙って目を瞑ったおれの脳天に、チョップを落とす。
∞
結局、家を出る頃には日が傾いていた。
オレンジというより金色に近い、少し冷たい夕日が『国南』の表札プレートに照り返している。すっかり建付けが悪くなっているのか、百羽が玄関戸と格闘する音が聞こえてくる。
おれはその格闘が終わるのを、冬服の詰められた袋を片手に門扉の傍で待っている。
それにしても、相変わらずでかい家だった。
表札に『国南』とあるからには、百羽の実家に決まっていた。かつては郊外の地方都市のさらに郊外、つまりド田舎から見ればそこまで田舎でもないが、都会人から見ればまあ普通に田舎という立地に、当然のように平屋の一階建て。敷地の周りを塀がぐるりと取り囲み、周囲は見渡す限りの田んぼと畑。
ただし今はその田畑に、何の作物の影もない。
がちゃん、と大きな音が耳に届いた。
「大丈夫かー」
「だいじょぶ。今ので締まった」
言いながら、百羽が玄関からこっちに向かってくる。忘れもんないか、と一応おれが訊くと、ない、と百羽は言い切った。この言い切りぶりは、本当にないと信じているわけではなく、あってもまた来ればいいやという開き直りだろう。
「付き合ってくれてありがと」
「…………」
「キス待ちすな」
チョップを落としてから、百羽は「ん」と手を出す。視線の先は、おれが持つ袋。家に鍵をかけるからとその間だけ預けられた冬服。
もういいから返して、のジェスチャー。
「いいよ。これ、結構重いぜ」
「じゃあ半分」
かえって持ちづらくなった気もしたが、そうやって帰ることになった。
帰る先は、少し視線を上げるだけですぐに見える。おれたちが今住んでいるタワーマンション。こうして外から見ると、百羽の実家とはまた違った意味で立派なものだった。すっかり整備もされなくなって割れっぱなしの道路とか、倒れっぱなしの杉の木とか電柱とか、何なら草木が生い茂って、その後枯れて、すっかり通行禁止状態になった市道とか、そういうものとは対照的に、これでもかというくらいの存在感で聳え立っている。二十五階建て。誰が呼んだか〈二十五重の塔〉。
さらに縮めて、通称〈塔〉。
何となく、見上げながら歩く。
「あ、」
隣で、百羽が呟いた。
「どした」
「見て。息ほら、白くなってる」
はーっ、と息を吐く。よく見ると、少しだけ耳と頬が赤い。へへ、と百羽は笑って、
「冬だ」
「ご機嫌だな」
「だって、季節が変わるのって久しぶりじゃん。春夏秋冬とか言うけど、九ヶ月……もう十ヶ月くらい? 夏だし」
それはもっともだった。
昨日まで気温は三十度を超えていたし、朝起きたら氷点下を割っていた。そのおかげで百羽は慌てて冬服を回収に来て、おれはその付き添いに来て、天井裏を根城にしていた蛇は慌てて冬眠の地を探しに逃げ出していく。そういうわけで、今日という一日が生まれた。
「わたし、冬好き。なんか新しいことが始まりそうって気がするじゃん?」
荷物を持つのとは逆側の腕を、ぐいっと大きく振って百羽が言う。あんまりにも元気が良いから、おれはちょっと引っ張られる。百羽がおれを見る。
「玲ちゃんは?」
おれは……、
「普通かな」
「なにそれ」
「可もなく不可もなく。強いて言うなら……」
「言うなら?」
「寒みーからさっさと部屋に帰りたい」
言わなきゃよかったと後悔したのは、「じゃあ走ろう!」なんて百羽が言い出して、そのはしゃぎっぷりを軽く見積もっていたことに気付いた後。
捨てられた場所。
誰も住んでいない町。
夜を前に、畑から霧が立つ。西から降り注ぐ金色の明かりが、その霧の粒をきらきらと輝かせる。
車にも誰にも、気兼ねなんかないままで、おれたちは冬の日を駆けていた。
∞
『本日午後、本会議で衆議院が解散されました。これにより衆参同日選挙が予定されることとなり、ネット選挙の解禁も合わせて各党、慌ただしい動きが――』
風呂から上がって、水を飲みながらテレビを点けたらニュースが流れ始めた。
ただし、十年前とかそこらの、全く『ニュー』ではないやつが。
果たして新しくないニュースはニュースと呼ぶのだろうか。呼ばないとしたら、もはや昔の映像を繰り返し流すだけのテレビ放送にはニュースと呼べるものは一つもなくなってしまったということになる。ちなみに、ニュースと呼ばないとしたら何と呼べばいいのだろう。歴史資料?
「お、」
チャンネルを弄ったら、それなりに興味を惹かれる番組もやっていた。
『おれたちの未来は誰にも縛られない――おまえの好きにさせるもんか!』
子どもの頃に観ていたアニメの、再放送だ。
正式名称は忘れたけれど、『みらすく』とかそんな感じの略称だったと思う。どこにでもいる普通の男の子が、ある日不思議な女の子に出会って「一緒に未来を救おう」的なことを言われて、めくるめくSFアドベンチャーの世界へ。たぶん『みらすく』は『未来を救え!』とかそんな感じのタイトルが元だ。
しかし、おれの頭の中にあるのは全然そのSF部分とは関係のないことだった。
このアニメの、ヒロインが好きだった。
正確に言うなら、未来から来てない方のヒロイン。主人公の隣の家に住んでるんだか何だか忘れたが、幼馴染のポジションに就いている女の子が。
「懐かし……」
思い出してみれば昔おれは、今日こそそのヒロインが出てくるのではないかと毎週わくわくしながらテレビの前に座っていた気がする。ちなみに、全然出てこない。段々と話がアクションに転換していくにつれてどんどん出番がなくなっていった。最終回がどうなるんだったか忘れたが、おそらく主人公は未来から来た方のヒロインとくっついたのだろう。そしておれはショックで気絶し、記憶を失ったに違いない。
『番組表』なんて気の利いたボタンを押して、本当に番組表が出てきたためしなんてない。
いつまでやっているかわからないが、しばらくそのまま流し続けることにした。
ドライヤーで髪を乾かす。温風の音でキャラクターが何を言っているのか全く聞こえない。乾かし終わる。冷蔵庫を開ける。時計を見る。
カレーでも作るか。
米を研いで炊飯器に入れる。適当に野菜を切る。レンジに詰める。その間に水を沸かす。肉も切る。レンジがチン。後は適当に鍋の中にぶち込んで、煮えたらルーを溶かす。なんてシンプルな料理なんだろう。こんなに簡単に美味いものが作れてしまうなんて信じられない。
風呂上がりのジャージにカレーの匂いが染みついたら、それが合図だ。
が、まだ米が炊けていない。
風呂に入る前に炊飯だけしておけばよかった。とりあえず火を止めて、炊けるのを待つことにする。もちろんキッチンに突っ立っているわけじゃない。普通に、テレビの前に移動する。ちょうど『みらすく』がCMに入る。果たしてこの十年以上前の広告をおれが見ることに意味はあるんだろうか。ない気がするので、チャンネルを変える。
「ん?」
その切り替わりの一瞬だ。
テレビの電源を止める。米の炊きあがりかけた音がする。もっとしっかり耳を澄ます。
とん、とん。
そんな風に、玄関の方から音が聞こえた気がした。
「百羽?」
呼び掛けるけれど、返事はない。一応「あずきか?」とも訊いてみるが、そもそもこのふたりがこんなに控えめなノックをする理由もない。ドア前まで来る。一応、スコープから覗いてみる。
誰もいない。
開けてみる。
「うおっ」
そうしたら、音の正体がわかった。
蛇だ。
「お、もしかして、昼の」
流石に驚いて声が出た。道理で見えないわけだ。マンションの廊下に蛇がいる。そいつが、まるで部屋から追い出された猫が扉を掻くみたいに、尻尾でノックしていたらしい。
そして、その蛇には見覚えがある。
昼間、百羽の実家で見たやつに似ている。
「なんだよ。ついてきちゃったのか……って、」
本当になんなんだよ、と続けたのは、その蛇がにょろにょろとどこかに行ってしまったから。
野生動物にしたって、気まぐれにもほどがある。こちらを一瞥することもなく去ってしまうのだから、折角話しかけた甲斐もない。それとも、あれを追いかけていけば不思議の国にでも連れていってもらえるのか?
なんてぼんやり考えていたら、ふと気が付いた。
「――停電か?」
扉を開けたのに、廊下が真っ暗なままだってことに。
これはかなり変なことだった。〈塔〉には一応、当時導入可能だった最新鋭の技術が使われている。オートロックだけはインキー事故が多発するから勝手に切ってはいるが、人感で廊下や部屋の明かりが点くくらいのことは何てことはない、基本的な機能だ。
後ろを振り返る。
部屋は明るいまま。
「故障か」
呟きながら、廊下に出ていく。自動ドアが上手く感知してくれないときよろしく、右へ左へ、うろちょろして様子を見てみる。
これでダメなら、要修理だな。
そう思ったとき、ちょうど視界の端にきらっと光るものがあった。
最初は、遠くの廊下の電気が点いたのかと思った。次に、そうじゃないとわかった。それにしては光が強すぎる。携帯のライト、と思い当たる。
廊下の奥――たぶん階段のあたりから、自分にそれを向けてきてる人間がいる。
「誰だ?」
訊いた。
答えはなかった。
その光はどんどん近付いてくる。おれは腕で顔を覆う。とんでもない逆光だが、段々と目が慣れてくる。背は高くない。かといって、どうも服装の感じを見ると子どもってわけでもない。女だ。女の知り合いって誰がいたっけ、と頭に思い浮かべようとする。
一番に、百羽が浮かぶ。
そうしたら、ありえないことが起こった。
「玲ちゃん?」
そう言っておれを呼ぶ声は、どう聞いてもその百羽のものだった。
ついでに言うと、ようやくそこで向こうもおれが眩しがっていることに気付いてくれたらしい。ライトを顔から外してくれた。目が一瞬驚いて、それからすぐに慣れる。すると、声だけでなく顔も百羽のものだとわかる。
ただし、二十代前半くらいの。
開いた口が塞がらないとはこのことだった。六年とか七年とか、そのくらい経ったら百羽ってこんな感じになるんだろうなという顔が、目の前にある。おれの頭には次々と可能性が浮かんでくる。大人びて見えるメイクを試したのか。いやでもそもそも身長とか髪の長さとかそのへんからして違くないか。いや、そうか。別人か。たまたま顔が似てるだけってこともないだろうから、百羽の姉とかか。姉なんていたんだっけ。いやでも違う。さっきおれのことを呼んだ声色は間違いなく百羽のもので、家族がどうとか他人の空似とか、そういう話では片付けられないはずで、
それで、なんで『この百羽』は泣きそうなんだ?
向こうは向こうで、おれに驚いているように見えた。でもそれは、開いた口が塞がらないなんて間の抜けた驚き方じゃない。自分が目にしてるものが信じられないみたいな、今にもぼろぼろと大粒の涙を流し始めそうな、というかもうすでに瞳にたっぷり涙が張っている、そんな顔をしている。
おれは、焦った。
焦ったが、慌てはしなかった。
いつも一緒にいるからだ。根拠のない自信があった。目の前にいるのが百羽なら、おれはいつもどおりにすればいい。それだけでまた、いつもみたいに笑顔になるはずだって、そう信じた。
だからおれは、いつもみたいにおどけて瞼を閉じた。
キスされた。
一瞬のことだったけれど、多分一生忘れないと思う。
腰が抜けるほどびっくりした。というか、抜けた。ほんの少しだけ唇に感触があって、驚いて、目を開けたら百羽の顔がいっぱいに飛び込んできて、暗闇の中に涙の欠片が輝いて、腰を抜かしたものだからそのまま離れそうになって、
肩を掴まれて、抱き寄せられる。
思わぬやわらかさに呼吸が、というか全身の機能が停止して、
「――どこにも行かないで」
もちろん、この言葉は意味不明だった。
だからおれは問い返すべきだった。しかし、そういうことに気を回せるような生易しい動揺の仕方じゃなかった。目下おれの頭を占めていたのは唇のことと、キスのことと、匂いと、感触と、これっておれも抱き返した方がいいのかなってことと、これからおれたちの関係ってどうなっちまうんだよってことと、後はまあ、そういうのをひっくるめて全部で、
「でっ、」
だから、そうして尻餅をつくまで、理性的なことっていうのは何一つ頭に浮かんでこない。
痛みでようやく我に返る。うわどうしよう、と思考が高速で回転する。何もなかった風に振る舞った方がいいのか。いやもう今ので決定的に関係は変わりましたっていうことで、おれの方もそういう雰囲気になった方がいいのか。決めきれないまま、たぶんものすごく中途半端な表情で顔を上げる。
百羽がいない。
「……は?」
右に左に、おれは視線を巡らせた。
いない。
目を擦って、頬を叩いて、夢から覚めるみたいにあたりを見回してみる。
いない。
電気が点く。
何の変哲もない、いつもの廊下が戻ってくる。
尻餅をついたまま、おれはただただ呆然とする。
それで、もう一回言う。
「はあ?」