第一章 賞味期限の切れたネオン
午後八時三十四分。地下鉄千代田線の窓ガラスに、ひどく疲れた女が映っていた。
後れ毛が乱れている。朝に塗ったファンデーションは頬のあたりで粉を吹き、鼻の脇だけが妙に光っている。そして何より、その目が濁っていた。何かを見ているようで、何も見ていない目。二十七歳になった私、長谷川真帆の現在地は、たぶんこの目の中にある。
向かいの座席の上、窓の下端に、私のパンプスの爪先が映り込んでいた。黒のポインテッドトゥ。三年前に買ったときは、履くたびに背筋が伸びる気がした。今は、右足の小指の付け根に薄い水膨れができていて、電車が揺れるたびにそこがじんわりと痛む。私は誰にも気づかれないように、靴の中で足の指を丸めた。丸めても、痛みの場所は変わらなかった。
今も、この街の光は同じ強さで灯っている。変わったのは、たぶん私の網膜のほうだ。
代々木公園駅を過ぎたあたりで、膝の上のバッグがやけに重く感じられて、私は抱え直した。三年前、シニア・アソシエイトに上がった自分へのご褒美として、表参道の路面店で買ったものだ。会計のとき、カードを差し出す指が震えていたのを覚えている。店員が箱を包む手つきを、私は儀式でも見るように眺めていた。
今、その中に入っているのは、社用のノートパソコンと、書き込みだらけの企画書と、三日前から飲みかけのペットボトルと、リップ、鎮痛剤、コンビニのレシートの束。要するに、これはもう「仕事道具を入れる箱」だ。革の角は擦れて白くなり、私はそれを直そうともしていない。
「……別に、東京じゃなくてもよくない?」
誰に聞かせるでもなく浮かんだ言葉が、走行音に吸われて消えていく。
最寄り駅で降りると、生ぬるい夜風が首元を抜けた。改札を出た瞬間、ヒールの音がタイルに硬く跳ね返る。この音を、私は昔、好きだったはずだ。自分がちゃんと社会の中を歩いている証拠のように聞こえたから。
駅から自宅まで徒歩十分。コンビニの明るすぎる照明が、歩道に鋭い影を落としている。
仕事は、順調だ。少なくとも、毎週更新される進捗表の上では。
中堅のアパレルメーカー「ルミナス・アパレル」の販促企画部で、私はそれなりの信頼を勝ち取ってきた。後輩もついたし、予算を任されることも増えた。数字は追えているし、社内の誰も私を無能だとは思っていない。
その日の朝、後輩の由衣が、新商品の紹介文を確認してほしいと私のデスクへ来た。五分で済む相談だった。私は見出しの語尾を直し、写真の順番を入れ替え、最後には由衣が考えた文章をほとんど別のものにして返した。
「ありがとうございます。やっぱり長谷川さんに見てもらうと安心です」
由衣は笑った。褒められたはずなのに、その笑顔の奥にある小さな落胆を見た気がした。
昼過ぎには、佐藤さんが集計表の更新を申し出た。
「今週分、私がやりましょうか。前回の手順、残してくださっていたので」
「大丈夫。数字の見方に少し癖があるから、私がやる」
断った直後、佐藤さんの手がキーボードの上で一瞬止まった。私は気づかないふりをした。
仕事を抱えているのは、私にしかできないからではない。渡したあと、自分の手元に何が残るのかを見るのが怖かったからだ。そのことを、帰りの電車に乗ってから認めた。
午後七時半、フロアには私と佐久間しか残っていなかった。佐久間は会議室から出てくると、空調の切れた室内を見回し、「まだいたのか」と言った。
「明日の会議資料だけ仕上げます」
「朝でいいだろう」
「朝は別の確認があるので」
佐久間は何か言いかけ、結局、「戸締まり頼むぞ」とだけ残して帰った。私はその背中を、責任を任された証拠のように見送った。
一人きりのオフィスで蛍光灯の音を聞きながら、私は修正済みの紹介文を開いた。由衣の最初の案のほうが、商品の柔らかさを素直に伝えていた。元に戻そうか迷い、時計を見て、そのまま保存した。
正しさを積み上げるほど、自分以外の声が資料から消えていく。それでも私は、その静けさを「仕事ができる」と呼んでいた。
ただ、先週の会議の帰り際、販促部長の佐久間が何気なく放った言葉が、まだトゲのように刺さっていた。
「長谷川さん一人に寄りすぎだな。誰が抜けても回る形にしておいてくれ」
佐久間はすぐ別の話題へ移った。けれど私は、笑って受け流した自分の声だけを何度も思い出した。仕事が誰の手でも回ることは喜ぶべきだ。それでも、胸の奥には、長く座っていた椅子を少しだけ引かれたような感覚が残っていた。
悪気はない。単なる効率の話だ。佐久間は言った直後にはもう別の話題に移っていて、たぶん自分が何を言ったかも覚えていない。
コンビニの自動ドアが開く。冷たい空気と、揚げ物の匂いが同時に押し寄せてくる。
夕食は、野菜炒めのセットと、値引きシールの貼られたノンアルコールビール。かごに入れながら、私は自分がもう何ヶ月も「今日は何が食べたいか」を考えていないことに気づいた。食べたいものではなく、食べられるものを選んでいる。
コンビニを出ると、店先の傘立てに透明なビニール傘が一本だけ残っていた。雨は降っていない。誰かが忘れ、誰かが処分するまで、そこに立ち続けるのだろう。
交差点で信号を待っていると、母から着信があった。画面には、先月撮った実家の庭の紫陽花が表示されている。出ようと思えば出られた。けれど、母の「仕事はどう」という問いに、いつもの答えを返す力がなかった。
着信が切れるまで画面を見つめ、私は『まだ会社。週末に電話する』と送った。会社はすでに出ていた。週末に電話する予定も、まだ決めていなかった。
信号が青になる。歩き出した人々の背中に押され、私はスマートフォンをバッグへしまった。
マンションの階段を上る途中、二階の部屋から笑い声が聞こえた。若い男女がテレビ番組を見ているらしい。音は壁を通り抜けてくるのに、生活そのものは何も見えない。
四階の自分の部屋の前で鍵を探しながら、私は、隣に誰が住んでいるのかさえ知らないことに気づいた。引っ越しの日に挨拶をした女性は、いつの間にかいなくなっていた。玄関前の傘の色が変わったことで、住人が替わったと知っただけだった。
東京の無関心は、干渉されない自由だと思っていた。今夜はそれが、薄い壁の向こうに手を伸ばしても、何にも触れられないことのように感じられた。
自宅に帰り、玄関で靴を脱ぐ。脱いだ瞬間、足の裏が床の冷たさに触れて、思わず小さく息が漏れた。パンプスを揃えて置くと、内側の踵の革が、私の足の形に黒く沈んでいるのが見えた。三年かけて、私はこの靴の形になった。あるいは、この靴が私の形になった。
狭いワンルームの照明をつける。四年前に引っ越してきてから、家具の配置は一度も変わっていない。壁には傷ひとつない。
テーブルの隅には、先週買った小さな観葉植物が置かれていた。仕事帰りの花屋で、「初心者でも枯らしにくい」と勧められたものだ。
土の表面は乾き、葉が一枚、黄色くなっていた。水をやるべきか迷って検索すると、「土の中まで乾いてから」と書いてある記事と、「表面が乾いたらたっぷり」と書いてある記事が並んだ。
私は鉢を持ち上げ、重さを確かめた。分からなかった。結局、コップ半分の水を注いだ。
受け皿へ水が落ちてくる。やりすぎたのか、足りないのか、答えは出ない。
仕事なら、過去の数値や成功事例を調べ、承認を取ってから実行する。けれど生活には、判断を保証してくれる上司も報告書もない。黄色い葉は、ただ黙ってそこにあった。
私はその葉を切らずに残した。元へ戻るかもしれないという期待ではなく、明日の自分がどうするかを見てみたかった。
窓を少し開けると、車の音と湿った夜気が入ってきた。鉢の葉がかすかに揺れた。風に反応しただけなのに、生きているものが返事をしたように見えた。私はしばらく窓を閉めず、カーテンが膨らんでは戻る様子を眺めた。
部屋の空気は、放っておけば変わらない。窓を開けたぶんだけ外と混ざる。その単純なことを、私は自分の生活にはまだ試せずにいた。
机の上では、仕事用のパソコンが黒い画面のまま閉じていた。今夜だけは開かないと決め、充電ケーブルも抜いた。明日の朝になれば、また通知が並ぶ。それまでの数時間をどう過ごせばいいのか分からなかったが、分からないままにしておくことにした。
冷蔵庫の低い音と、遠くを走る電車の響きが残った。静けさは、何も起きていない時間ではなく、自分の呼吸を聞き直すための余白なのかもしれなかった。
ベッドに倒れ込み、スマートフォンに手を伸ばしかけて、私はその手を止めた。
これを開けば、私は今夜もまた、知らない誰かの人生を二時間ほど眺めるだろう。地方でパン屋を始めた同い年の女や、都会に馴染めず帰ってきた誰かの独白や、それらに付いている数千の「いいね」を。そして私は、羨んだり、安心したり、その安心した自分に嫌気が差したりする。
最近の私にとって、それは休息ではなく、儀式に近い何かだった。
結局、私は画面を伏せたまま身体を起こし、レンジのドアを開けた。
賞味期限が今日までの野菜炒めを放り込み、スタートを押す。ターンテーブルが、低い唸りとともに回り始めた。
オレンジ色の庫内灯に照らされて、キャベツともやしがゆっくりと回転している。同じ場所を、何度も、何度も。私はそれを、しゃがみ込んで見ていた。
冷蔵庫の扉を開けると、庫内灯に照らされて、いつ買ったかも思い出せない調味料が並んでいた。私はしばらくその明かりを浴びてから、何も取らずに扉を閉めた。
昔、母は台所で鼻歌を歌っていた。私はこの部屋で、四年間、一度も歌ったことがない。
窓の外では、首都高を走る車の音が、遠い波音のように響いている。
なのに足元には、どこにも根が張っていないような、頼りない浮遊感だけがある。
電子音が鳴った。
私は立ち上がり、熱くなった容器を素手で掴んで、小さく声を上げた。
私の居場所は、本当にここなのだろうか。
その問いへの答えを、私はまだ、この街のどこにも見つけられずにいた。




