1、始まりの婚約破棄
連載開始!本日は5話投稿予定です。
「婚約破棄しよう。リゼリア」
それが、すべての始まりだった。
この国の第一王子であるエドワード・アストリアは、温度のない視線で淡々と告げる。
「賢い君なら理解できるだろう? この婚約は、君の魔力があったからこそ成立していたものだ。だが、今の君は――」
その先を、彼は言わなかった。
(そんなの……)
言われなくても、一番よくわかっている。
魔力欠乏症。
王太子妃候補として選ばれた理由だった魔力は、もう残っていない。
わかっているのに。
口にされるだけで、胸の奥がじくりと痛んだ。
「安心してくれ。君の代わりならもう見つかっている」
そう言って、彼は隣に立つ少女へと視線を向けた。
桃色の髪を揺らし、不安そうにこちらを見る少女。
エレノア・フェルナール。
――この国の聖女だ。
喉が、ひどく乾く。
言葉を返そうとしても、うまく声が出ない。
(……ああ、終わりだわ)
婚約も。
将来も。
私が積み上げてきたすべてが、たった数秒で崩れ去った。
***
すべては一か月前から始まった。
私、リゼリア・ヴァレンティア公爵令嬢は、この国でも随一の魔力を持つことから、第一王子の婚約者に選ばれた。
王子との関係も、悪くはなかった。
愛し合っていたわけではない。
それでも、政略結婚とはきっとこういうものなのだろうと受け入れていた。
このまま王太子妃となり、平穏な人生を歩んでいく。
――そう、信じていた。
その日までは。
いつものように魔法の鍛錬をしていた時だった。
(あ、れ……?)
魔力が流れない。指先に集まるはずの感覚が、どこにもなかった。
背筋を冷たいものが走る。
もう一度だけ、と魔力を練ろうとした瞬間――視界がぐらりと揺れた。
(なに……これ……)
頭が重い。身体の内側が、ぽっかりと空っぽになってしまったような、不気味な感覚。
嫌な予感が胸を締めつける。
私はすぐに医師のもとへ向かった。
そして告げられた診断は、あまりにも残酷だった。
「――魔力欠乏症ですね」
「……え?」
「後天的な発症は珍しいですが……魔力の感知量が著しく低下しています。否定はできません」
頭の中が、真っ白になる。
診察がどう終わったのかも覚えていない。
気づけば自室に閉じこもり、ただ膝を抱えていた。
(どうして……)
震える手を強く握りしめる。
(どうして、私が……)
魔力は、生まれ持った才能だけではない。
幼い頃から積み重ねてきた努力であり、父に認められ、王太子妃候補として選ばれた理由そのものだった。
それを失うということは――私という人間の価値まで失うことと同じだった。
(婚約破棄は、避けられないでしょうね……)
この婚約が何のためのものだったのか、一番よくわかっている。
だから、希望なんて持てなかった。
逃げ場は、どこにもない。
胸が苦しい。
息がうまく吸えない。
病気のせいなのか。
それとも、すべてを失う恐怖なのか。
もう、よく分からなかった。
***
そして、現在に至る。
「……殿下の判断はもっともです。婚約破棄に従いましょう」
声は、驚くほど冷静に出た。
「君ならそう言ってくれると思っていた」
その言葉に、何も感じない自分がいた。
殿下の言い分は理解している。
だけど、魔力を失った自分には価値がないのだと、はっきりと告げられたようで。胸に棘のようなものが刺さる。
「まずは、身体に気をつけてくれ。今までありがとう」
最後の言葉は、ほとんど耳に入らなかった。
気づけば、公爵家へと戻っていた。
出迎えた父の顔は――冷たかった。
「リゼリア……。婚約破棄のことは聞いた」
父は私を一瞥すると、呆れたようにため息をつく。
「まったく、とんだ役立たずだ」
吐き捨てるような声だった。
「あれだけの魔力を持っていたお前が、この程度とはな。もう、お前には期待などしない」
その一言が、胸に深く突き刺さる。
「公爵家の恥だ。治療費は最低限しか出さん」
――ああ、そう。
慰めすらないのね。
魔力欠乏症は、放置すれば命に関わる。定期的な補充が必要だと医師は言っていた。
それでも父は、私の身体より、公爵家の価値しか見ていなかった。
今まで父に認められたくて、魔法を磨き続けてきた。
けれど魔力を失った途端、その努力まで無価値になったようだった。
母は幼い頃に亡くなった。父は再婚し、新しい家族もいる。
けれど、この家に私の味方など、一人もいなかった。
(……自分で、なんとかするしかないのね)
ふらつく足で歩き出す。
息が浅い。胸が苦しい。視界がぼやける。
(……もう、いいかしら)
婚約者にも見放された。
父にも見限られた。
誇りだった魔力さえ失った。
この先、生きていて、何が残っているというのだろう。
気づけば、庭園の池の前に立っていた。
水面には、血の気の失せた自分の顔が映っている。
(……ひどい顔ね)
足が、一歩前へ出る。
このまま、全部終わってしまえば――
そう思った、その瞬間。
「――リゼリア!!」
腕を掴まれ、身体が大きく後ろへ引かれる。
「……っ!」
バランスを崩した私を、そのまま誰かが強く抱き止めた。
「……何をしようとしていた」
低く、抑えた声。聞き覚えのある声だった。
顔を上げると、そこにいたのは――漆黒の髪に、赤い瞳。
この国の第二王子、クロード・アストリア。
「えっと、私は……」
「いい。何も言わなくていい」
言葉を遮るように、腕に力がこもる。
優しい声のはずなのに、逃がさないとでも言うような熱があった。
「リゼリア……」
耳元で、低く囁かれる。
「大丈夫だ。……俺がいる」
その声は、ひどく穏やかで。なのに、なぜか――ぞくりとした。
「……君は、何も心配しなくていい」
その一言が、空っぽだった胸の奥へ静かに染み込んでいく。
張り詰めていたものが少しずつほどけ、息苦しさが和らいでいくようだった。
それが安堵なのか、それとも――別の何かなのか。今の私には、まだわからない。
その時、ふと小さな違和感が胸をかすめた。
(……あれ?)
この人は、私がここにいると知っていたのだろう。まるで最初から、ここで待っていたかのように。
そう思った瞬間、背筋を冷たいものが這い上がる。
けれど、その腕は確かに私を助けてくれた。
だから私は、その違和感から目を逸らした。
だからこそ――この時の私は気づかなかったのだ。
この時、クロードがわずかに目を細めたことに。
助けてくれたと思っていた腕が、やがて私から自由を奪う鎖になることを。
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