第60話 反転の湖水、水鏡の神殿
沈黙の荒野を抜け、ロアたちがひたすら東へと進むと、次第に景色から土の色が消え、視界のすべてが眩い青に染まっていった。
だが、それは美しい海や湖といった自然の風景ではない。
「……うわぁ、すっごい……! 地面が全部、鏡になってる!」
ロアが思わず感嘆の声を上げる。彼らの足元に広がるのは、途方もなく巨大な水面だった。しかし、波一つ立たず、風が吹いても一切の揺らぎがない。完全に静止した湖面は、文字通り巨大な一枚の鏡と化しており、空の雲や一行の姿を、寸分の狂いもなく反射していた。
「……ここが、ゼニスの四大基幹の一つ、水鏡の神殿が沈む湖だ」
シオンが水際に立ち、忌々しそうに見下ろす。 「……この基幹は本来、世界中の光の反射と空間転移の演算を担っている。……だが、見ろ。完全に処理がフリーズして、デバッグ用のテスト環境が地上に露出してしまっている」
シオンの言葉を裏付けるように、上空を飛んでいた一羽の鳥が水面の上を通過した瞬間、奇妙なバグが起きた。 鳥の実体が突然消え、水面に映っていたのは鳥だけが空へと逆落としに昇っていったのだ。 現実と虚構、上と下が完全に反転する空間。
「……あの瘴気のお化け、もうここまで手を伸ばしてるってこと?」
ラグが水面に映る自分の顔を睨みつける。大剣の重みさえ、ここはどことなく頼りなく感じられた。
「……ナハト、この湖、歩けるの?」
ノエルが、杖の先でそっと水面を突っついてみる。杖は水に沈むことなく、カチンと硬いガラスを叩いたような音を立てた。
「……解析完了。……現在の水面の表面張力パラメーターは無限大に固定されています。……歩行は可能。ただし、水面に映る自分自身には注意が必要です」
「自分自身に?」 ロアが首を傾げたその時だった。
ロアの足元、水面に映っていた彼の影が、突然ニヤリと笑った。そして、影のロアは水面(鏡)の内側から手を伸ばし、現実のロアの足首をガシッと掴んだのだ。
「うわっ!」 「大将!」
ラグが大剣を振り下ろそうとするが、影はロアの足首を掴んだまま、ズルリと水の中から現実世界へと這い出してきた。それはロアと全く同じ姿をしていたが、髪や服の色がすべてモノクロに反転しており、瞳だけが赤く濁っていた。
「アハハッ! やあ、ロア。またお掃除? バカみたいだよねぇ。あの黒い靄を前にして、逃げ帰ってきたくせにさ」
影のロアが、本物と全く同じ声で嘲笑う。同時に、ラグ、ノエル、そしてシオンの足元からも、それぞれの反転した影が這い出し、一行を取り囲んだ。
『……チッ。「精神情報の逆再生アルゴリズム」か。……水鏡の処理落ちを利用して、我々の深層心理にある『恐怖』や『諦め』を実体化させた防衛プログラムのようだ』 シオンが舌打ちする。 這い出してきた影のシオンもまた、酷薄な笑みを浮かべていた。
「どうせ無理さ。あの靄のコードを、俺たちが剥がせるわけがない。……世界なんて、どうせ最初から……」
影のロアが、なおも絶望の言葉を紡ごうとした。
――ドゴォッ!!
しかし、影の言葉は、頭頂部に直撃した黄金の聖葬槌によって、見事に物理キャンセルされた。
「ぶべっ!?」
影のロアが、カエルのように水面に叩きつけられる。ロアは聖葬槌を肩に担ぎ直し、自分の影に向かってカラカラと笑った。
「変なこと言うなぁ、君。……無駄なんかじゃないよ! 爺ちゃんが言ってたんだ。どれだけ頑固な汚れでも、諦めずに擦り続ければ、絶対に綺麗になるってね!」
ロアが力強く一歩を踏み出す。
「それに、逃げたんじゃない。……お掃除の『根元』を見つけるために、ここまで来たんだから!」
「……ぐっ……この単細胞め……少しは自分の内なる闇と葛藤しろよ……!」
影のロアが、理不尽な暴力に涙目になりながら悪態をついた瞬間、ロアの追撃(二発目)が降り下ろされ、影は粉々に砕け散って「ただの光の粒子」へと還っていった。
「……よし! みんなも、自分の影なんかササッと払っちゃってよ!」
「……ふっ、大将に言われちゃあな。……こんな湿気た顔した俺、三秒で見飽きたぜ!」
ラグが大剣を横薙ぎにし、自身の影を一刀両断する。ノエルもまた、影の自分に向けられた冷たい言葉を氷結魔法で吹き飛ばした。
「……馬鹿馬鹿しい。自分の残響データ程度に遅れをとる私ではない」
シオンは指先一つ動かさず、ただ削除と呟くだけで、自身の影を無数のエラーコードへと分解した。
一行が自身の影を完全に打ち払うと、静止していた湖面が、巨大な地鳴りと共にパキパキとひび割れ始めた。鏡の中心部が大きく割れ、そこから信じられないほどの量の水が空に向かって逆流し始める。 そして、水が干上がった湖の底に、白亜と青のクリスタルで構築された、巨大な水鏡の神殿の入り口が姿を現した。
「……道が開いたね」 ロアが、眩しそうに目を細める。
「……油断するな、ロア。この奥には、世界の理を書き換えるためのコアがある。……あの黒い靄を操る者が、すでにそこへ到達している可能性が高い」
シオンの警告に、一行は無言で頷いた。
「行こう! この世界を汚すやつらを、僕が絶対にお掃除してやる!」
反転した世界で見つけた、揺るがない決意。ロアたちは、神殿の深き暗闇へと、力強い足取りで進んでいくのであった。
(第60話 終わり)




