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第59話 這い寄る黒影、次なる掃除の標的




 剥がされた祭壇の跡地から、粘り気のある、どす黒いもやが静かに湧き出していた。風が戻り、音が帰還したはずの荒野にあって、その靄の周辺だけは一切の環境データが死滅しているように見えた。


「……う、ぐっ……」


 歓喜していた巡礼者の一人が靄に少し触れた瞬間、言葉にならない悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。  彼の肉体には外傷はない。だが、その存在を構成していた生命力バイタル・データの輝きが、靄に吸い取られるように白く変色し、瞬時に意識を刈り取られていたのだ。


「みんな、離れて! あれに触っちゃダメだ!」


 ロアが聖葬槌を前に構え、巡礼者たちを後方へと庇うように立ちはだかる。だが、靄は意思を持っているかのように、ロアを標的に定めてゆっくりと蠢き始めた。


「……おいおい、冗談じゃねえぞ。なんだあの魔力……いや、魔法なんて生易しいもんじゃねえ。ただの『死』が固まって動いてるみたいだ」


 ラグが額に冷や汗をにじませながら、愛用の大剣を構える。


「……ナハト、この靄の正体は!?」


 ノエルが杖を構え、多重の防御結界をロアたちの前に展開しながら叫ぶ。


「……解析不能アンノウン。……観測したことのない記述方式です。……世界の内部で発生したエラー(バグ)ではなく、外部から意図的に書き込まれた(インジェクトされた)……悪意そのものです」   


 ナハトの無機質な声に、初めて微かな「緊張」が混じっていた。


「外部からの書き込み……!?」


 その言葉に最も敏感に反応したのは、他でもないシオンだった。かつてこの世界の理をすべて計算し尽くし、絶対の管理者として君臨していた彼の白き瞳が、驚愕に見開かれている。


「……あり得ない。……このゼニスの防壁を突破し、内部に直接汚染コードを流し込むなど。……ガレンが世界の外殻に施した強固なファイアウォールを、誰が破ったというのだ」


「……ククク……ハハハハハ……ッ!」


 シオンの呟きに応えるように、靄の奥深くから響き渡るような低い笑い声が聞こえた。実体はない。靄そのものが、顔の輪郭さえ持たない影となって立ち上がり、一行を見下ろしている。


「……美しい静止の『殻』を剥がしてくれたな、修復者よ。そして、落ちぶれた元・管理者よ」


 影が放つ声は、空気を震わせる物理的な音ではなく、脳裏に直接文字を焼き付けてくるようなおぞましい侵入だった。


「……我々は感謝している。あの司教が作ったつまらないプロテクトなど、我々が内側へ到達するための微弱な足場にすぎなかった。……お前たちが殻を剥がしてくれたおかげで、ようやくこの世界を直接いじれる領域が広がったのだから」


「……お前、巡礼者の仲間じゃないの? ……だとしたら、なんだってこんなひどいゴミを散らかすんだ!」  ロアが影に向かって聖葬槌を振り下ろした。  ズドブゥンッ……。と、鈍い音を立てて黄金の修復波が影に直撃する。


 だが――。


「……えっ?」


 いつもなら剥がれるはずの汚いデータが、槌の先にねっとりと絡みついた。それはゴミを払う感触ではなく、底なし沼に棒を突っ込んだような、圧倒的な重さだった。


「……無駄だ。我々のコードは、お前たちが認知している世界の言語とは次元が違う。……せいぜい、その小さな槌で絶望を払い続けるがいい」


 影がうねりを上げ、ロアたちを丸ごと飲み込もうと巨大な波となって崩れ落ちてきた。ノエルの結界がガラスのように砕け散り、圧倒的な致死の冷気が肌を刺す。


「大将! 逃げるぞ!」


 ラグがロアの襟首を掴み、力任せに後方へと跳躍する。同時に、シオンが前に出た。


「……下等な外部干渉が。……私の世界で、勝手な振る舞いを許すと思うな!」


 シオンが両手を広げ、残されたすべての演算能力を解放する。 ……空間座標(x:344, y:819, z:02)……強制隔離アイソレーション


 シオンの悲痛な叫びと共に、靄の周囲の空間が巨大な透明の箱に覆われたかのように四角く切り取られ、光の壁に閉じ込められた。


「……シオン!」


「……早く走れ、ロア! 今の私では、あのような不規則イレギュラーなプロトコルを長くは隔離できない!」


「……っ、わかった! みんな、走って!」


 ロアたちは、空間が歪み、悲鳴を上げる祭壇跡から全力で駆け出した。シオンも背を向け、一行の最後尾について荒野を疾走する。


 背後では、シオンの作った隔離の檻がメリメリと音を立てて黒い靄に侵食され、やがて完全に飲み込まれる音が聞こえたが、一行はすでに安全圏へと脱出していた。


 ◇


「……はぁっ、はぁっ……。……なんなんだよ、あいつは……」


 数キロ離れた岩陰で、ラグが膝に手をついて荒い息を吐く。


「……僕の槌が、全然効かなかった。……あんなの初めてだ。ただの汚れじゃない……まるで、世界に突き刺さった毒のトゲみたいだった」


 ロアの手は、まだ先ほどの重すぎる感触を覚えて、微かに震えていた。


「……あれは浸蝕だ」


 シオンが、汚れた白き装束の埃を払いながら、険しい視線で荒野の彼方を睨みつける。


「……世界の外側から、意図的にこのゼニスを破壊しようとしている別の存在……。理の巡礼者など、彼らにとっては、この世界へ侵入するための『穴』を広げるための哀れな道具にすぎない」


「じゃあ……あのまま放っておいたら、世界が全部あれに塗りつぶされちゃうの?」  ロアの問いに、シオンは静かに頷いた。


「……ああ。だが、手段がないわけではない。……あの靄がアクセスしている根源を断ち切る必要がある。……この世界を支える四大基幹ルート・サーバーの一つ、水鏡の神殿だ。……そこが、奴らの次なる標的にされているはずだ」


「水鏡の神殿……」  ノエルが、地図を取り出してその名を探す。


「……分かった。……次のお掃除の場所は、そこだね!」


 ロアの瞳から震えが消え、強い決意の光が宿った。


「あの靄がどれだけ重たくても、僕が絶対に剥がして、世界をピカピカにしてやる!」


 強大な敵との遭遇。 しかし、それはロアの修復への意志を折るものではなく、新たな世界救済の旅への狼煙のろしとなった。理の剥離者たちの足取りに、迷いはなかった。


(第59話 終わり)

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