分断
天井のスピーカーが静かになってから、
数分ほど経った。
待機スペースの空気は、
さっきより重くなっていた。
誰もが会話を切り上げ、
なんとなく荷物を足元に寄せて座り直す。
れんの足元には、
ぼろぼろのリュックと、その横に細長い荷物がひとつ置かれている。
薄い布でぐるぐるに巻かれた“棒”――
中身が剣だとは、よほど注意深く見ない限り分からない。
(ここで抜く気はない。
丸腰でも、最低限はやれる。)
れんはそう判断していた。
剣を見せた瞬間、
この部屋ごと敵に回しかねない。
今は“武器を見せないで動き方だけ見る”場だ。
「……本当に来るんですね、“選抜”。」
ひよりが、小さな声でつぶやいた。
さっきまで話していた女の人は、
膝の上で組んだ手を強く握りしめている。
「来るわよ。
放送があった日は、必ず誰かが“いなくなる”もの。」
冗談でも脅しでもなく、
ただ事実だけを言う口調だった。
れんは壁にもたれたまま、
廊下の気配に耳を澄ませる。
遠くで、扉の開く音が一つ。
何かを呼ぶ声。
短い返事。
(……別の部屋から、順番に回ってるな。)
足音の“流れ”は、
少しずつこちらへ近づいてくる。
やがて、
待機スペースの前で、その足音が止まった。
軽いノックもなく、ドアが開く。
腕章の色が違う男が二人、
何の感情もない顔で入ってきた。
普通の住人がつけている布の腕章ではなく、
固そうな素材のバンドに、
別のマークが印刷されている。
女の人が、反射的に背筋を伸ばした。
男たちは部屋を一瞥し、
手元の紙を確認する。
「新規到着者は……このあたりか。」
視線が、れんたちの方へ向けられる。
れんは何も言わず、
目だけを合わせた。
ひよりは、無意識に背筋を正す。
男の一人が、淡々と問う。
「外での活動経験がある者は。」
女の人が、一瞬慌てて口を開きかけた。
「今日は、みんな着いたばかりで——」
「質問していない。」
男はそれだけ言って、
ひよりの足元に視線を落とした。
丈夫そうなスニーカー。
すり減った靴底。
膝には古い擦り傷。
「その靴。
“外回り用”だな。」
ひよりがびくりと肩を震わせる。
「い、いえ、これは……前にいたところで——」
「前のコロニーで外に出されていた、ということだ。」
男は、ひよりの言葉の必要な部分だけを拾って、
勝手に結論を出した。
もう一人の男が、今度はれんを見た。
目を細め、
体格や立ち方を値踏みするように眺める。
「そっちの男は?」
れんは、自分で答えた。
「今は休んでるところだ。
“選抜”の話は、また今度にしてくれ。」
男の表情が、ほんの少しだけ険しくなる。
(……こいつら、“場慣れしてるやつ”を嗅ぎ分けてる顔だな。)
れんはそう思った。
男は紙をペラリとめくり、
平板な声で言う。
「“選抜”対象は、本来は登録済み居住者からだ。
お前はまだ腕章も持っていない。
優先度は低い。」
ひよりが、不安そうにれんを見る。
れんが何か言う前に、
もう一人の男がひよりの前に立った。
「外で動ける人間は貴重だ。
“上の判断”により、優先的に登録し、
適切な部署に配置する。」
「で、でも——」
ひよりは思わず、れんの方へ半歩寄る。
男が、その肩を軽く押さえた。
「心配はいらない。
ここより安全な場所だ。
食料も仕事も保証される。」
さっきの女の人が、たまらず口を挟む。
「この子、着いたばっかりで……
今日は休ませてあげた方が——」
男は、壁を顎でしゃくった。
そこには〈協力しない場合、配給を停止することがあります〉と
書かれた紙が貼られている。
「決まりは見えるところに掲示してあるはずだ。」
女の人は、唇を噛んで黙り込んだ。
他の新顔たちも、
誰ひとり声を上げない。
――逆らった結果を、
もう見させられているからだろう。
ひよりの手が、れんの服の裾をぎゅっと掴んだ。
「れ、れんさん……」
れんは、ほんの一瞬だけひよりを見た。
その瞬間、
頭の奥で、異世界の風景がよぎる。
***
岩山の斜面。
向かい風の吹きつける断崖。
エルフの女が、
腕を組んでれんを見下ろしていた。
『剣を振るだけが戦いじゃないの。
“流れ”を読めないなら、
どんな名剣を持っててもただの鉄の塊よ。』
「流れ、ねえ……」
足元の小石が、風に押されて転がる。
草の葉が、ある方向へだけ揺れている。
『空気も、人も、敵も味方も。
全部、少しずつ動いてる。
それを先に感じられれば、
避けるのも、守るのも、簡単になる。』
彼女は、れんの額を指で軽く弾いた。
『目で見る前に、肌で見るの。
“今からここを通る”って道筋を感じる。
それができれば、剣がなくても死なないわ。』
「そんな簡単に……」
『だから練習するんでしょう?
何回も、何回も。』
風の向きを読む訓練は、
剣の素振りよりよほど退屈だった。
けれど、
それを身につけてから、れんは何度も死なずに済んだ。
***
その記憶が一瞬で通り過ぎ、
現在の空気に戻る。
この狭い部屋の中にも、
微かな“流れ”がある。
不安で固くなる呼吸。
近づいては離れていく足音。
ドアの向こうで立ち止まる気配。
(剣がなくても、
“流れ”さえ読めれば最低限は動ける。)
れんは、ひよりの目をまっすぐ見た。
「……行け。」
静かに、そう告げる。
ひよりの目が揺れる。
「で、でも……」
れんは、誰にも聞こえないくらいの小さな声で続けた。
「さっき話したろ。
“流れを見る”ってやつ。」
ひよりが、はっとする。
「周りの空気がどう変わるか、ずっと感じてろ。
それができれば、後からでも道は見える。」
ひよりは、強く頷いた。
「……はい。」
男たちは事務的に告げる。
「一名、同行。
残りはそのまま待機。」
ひよりは最後に一度だけ振り返った。
れんは、軽く手を上げる。
布に包まれた剣には、
誰も目を向けなかった。
ドアが閉まり、
足音が廊下の奥へと遠ざかっていく。
部屋に、再び静けさが落ちた。
女の人が、ぽつりと呟く。
「……ごめんね。
助けてあげられなくて。」
れんは首を振る。
「助けられないのは、お互い様ですよ。」
そう言って、
壁に貼られた“お知らせ”に目を向けた。
〈選抜対象者は、担当者の指示に従って移動してください〉
〈選抜の内容についての質問は受け付けておりません〉
印刷された文字は、
さっきと何も変わらない。
変わったのは、
そこから受け取る意味だけだ。
(ひよりが連れていかれた先に、“上のフロア”がある。
そこに、ももりんがいる可能性は高い。)
れんは椅子から立ち上がり、
ゆっくりとドアに近づいた。
女の人が、小声で尋ねる。
「どこへ行くの?」
「ちょっと、“見学”に。」
れんは振り向かずに答えた。
「俺、こういうのは
見てから考えるタイプなんで。」
廊下にそっと耳を澄ます。
別の部屋の扉が開く音。
名前を呼ぶ声。
短い返事。
“選抜”は、
この建物全体で同時に進んでいる。
れんは、足音と声の“流れ”を追うように、
感覚を広げた。
微かな風が、
どの方向へ人が運ばれていくのかを教えてくれる。
(待ってろ、ひより。
それと──)
心の中で、もう一人の名前を呼ぶ。
(ももりん。
どっちもまとめて、ぜんぶ取り返す。)
新宿コロニーの夜は、
静かに、しかし確実に深くなっていった。




