第13話 見違えた女
髪を綺麗に整えられ、キラキラした宝石を耳と首にあしらわれ、爪までピカピカに磨かれて。
口紅の筆が離れると、ほうっとため息がこぼれ落ちた。
「――さあ、完成ですよ」
鏡の中には、知らない人間が座っていた。
艶の出る香油を使って梳られた髪は、まばゆいほどに輝いている。
両端を編んでぐるりと巻きつけ、残りは背中に垂らす形だ。
着ているのは肩の辺りが少し開いたデザインのワンピースで、色は鮮やかなブルー。わずかな濃淡があり、胸元から裾にかけてのグラデーションが美しい。
両耳はあらわになっており、それを彩るのは小粒のサファイアだ。
ひかえめだがセンスのいいデザインで、顔を動かすたびに小さく揺れる。留め具に使われているのは本物の金だ。主張しすぎる事もなく、形のいい耳によく似合っている。同じ石はネックレスにも使われていて、白い肌を品よく彩っていた。
そして何より――その、顔が。
「……綺麗だ」
思わずといったようにガーランドが呟き、はっとしたように口を押さえた。
「い、いや、失礼。よく似合ってる、デイジー嬢」
「あ……ありがとうございます」
お礼を言ったデイジーだが、まだ鏡から目を離せずにいた。
そこにいたのは、物語の中から抜け出たような令嬢だった。
こうして見ていても、これが自分の顔だなんて信じられない。顔を引っ張りたくなり、化粧が落ちると気づいて慌ててやめた。
「ガーランドさん……これって」
「これならきっと見つからない。本当に素敵だ、デイジー嬢」
ガーランドはまぶしそうな顔でデイジーを見ていた。
その目に見つめられた瞬間、心臓の音が小さく跳ねる。
鼓動が速くなり、頬が勝手に熱くなる。どうしよう。汗をかいてしまいそうだ。こんな素敵な服を汗まみれになんてできない。それに髪も、お化粧も――ああそうだ、宝石を先に外さないと。それと靴も脱いでおかなくちゃ――。
動揺のあまり、思考が変なところに飛んでいたデイジーは、名前を呼ばれて我に返った。
「よかったら、このまま俺とデートしていただけませんか、レディ?」
「……え」
見ると、ガーランドが右手を差し伸べていた。
「このまま帰るのはもったいない。せっかくだから、少し街を歩いてみないか?」
「で、でも、私」
「ひとりで外出させるのは心配だけど、俺が一緒にいれば安全だ。それに、いつまでも遠出するなというのも難しい」
そう言われてデイジーも気づいた。
マックスが王都へ行くのは半年後。いや、今は五か月を切っただろうか。
ガーランドがこの町を離れるのは、それよりもずっと早い。
――あと、一月もない。
そうしたらデイジーはひとりぼっちになってしまう。
田舎に帰るにせよ、引っ越し代を貯めなくてはならない。確かに、いつまでも隠れている事はできない。おかみさんの店でもう一度働かせてもらうにせよ、別の働き口を見つけるにせよ、そろそろ出かけるのにも慣れないと。
(そうだ)
そこでデイジーは思いついた。
「ガーランドさん、私、おかみさんのところにご挨拶に行きたいです」
「え?」
「外を出歩けるようになったら、真っ先にお礼とお詫びをしたかったんです。いいでしょうか?」
「ああ、もちろん」
ガーランドが快諾する。
「では――改めて」
優雅に手を差し出され、デイジーはぎこちなく指を重ねた。
エスコートの際のマナーなど知らなかったが、以前、バーンズがなぜか教えてくれていたので、そこまで焦らずに済んだ。その事に心から感謝した。
外に出ると、馬車を用意してくれていたらしい。二人はそろって馬車に乗り込んだ。こんな風に、狭い場所で二人きりになるのは初めてで、なんだかどきどきしてしまった。
「そういえば、悪かった」
「え?」
「さっき、つい調子に乗ってデートと言ったけど、迷惑だったな。深く反省する」
深く頭を下げられて、デイジーは慌てた。
「やめてください、そんなこと。全然気にしてませんから……いえ、そうじゃなくて。嫌じゃなかったです」
「いや、でも」
「ほ、本当に……嫌じゃなかったんです……」
だから、と消え入りそうな声で言うと、ガーランドはしばらく黙っていた。
沈黙が車内に落ち、どちらともなく目をそらす。
あまりにも静かで、息をする音さえ聞こえそうだ。
車輪が石畳を走る音だけが聞こえてくる。
息を吸うと、その音がやけに響く気がした。
ひとつ、ふたつ。呼吸のたびに、胸の中で何かが揺れる。
目をそらしていたガーランドが、いつの間にかこちらを見つめていた。
「……前にも個人的なことを聞いたはずだが、もう一度聞いていいだろうか。君はあの男と今後、どうするつもりだ?」
「別れます。それは絶対です」
デイジーがきっぱりと答える。
「田舎で醜聞になると言ってなかったか?」
「関係ありません。醜聞になった方が百倍ましです」
評判を気にしてマックスと生涯を共にするくらいなら、池のナマズと結婚した方が幸せだろう。おとなしいし、食事に文句は言わないし、心穏やかに過ごせそうだ。
「それに、向こうはどうか知りませんが、私の方は縁を切ったつもりでいます」
他の女と結婚するのが確定の状況で、まだデイジーとの結婚が有効だと考えるなら、そちらの方がよほど怖い。そもそもの話、今現在の自分達は恋人でもないのだ。
だから結婚詐欺だと相手を責める事はできないし、逆にキスすらするべきではない。それ以上なんて論外だ。
ただの同居人である以上、節度と信頼を持って接する。それが最低限のルールであり、当然の理屈だ。
よくそんな相手に体の関係を迫り続け、金までたかったものだと思う。ほいほいだまされた自分も馬鹿だが、だます方がよっぽど悪い。
「落ち着いたら、早めに両親に手紙を書きます。きっと分かってくれると思うので」
「そうか」
「ガーランドさんのお屋敷を出た後は、小さな部屋を借りて、節約しながら暮らします。頑張って働いて、引っ越し資金を貯めて、貯まり次第、田舎に帰ろうと思っています」
「……予想はしていたが、そうか」
帰るのか、とガーランドが呟く。
「こんなに親切にしていただいて、本当にありがとうございます。私、ガーランドさんに会えてよかった。おかみさんやバーンズさん、ほかにもいっぱいやさしい人たちと出会えました」
一緒に故郷を出たマックスは、デイジーの事を利用していた。
家事を押しつけ、金を払わせ、体さえ弄ぼうとしていた。
この町で出会った人達は、それとは違う。
みんなやさしく、親切で、デイジーを大切にしてくれた。
マックスと一緒に暮らしていた事は最悪だが、この町に来てよかった。それだけは心から思う。
「ガーランドさんがいなくなったら、とっても寂しくなります。前に、王都に来た時は寄ってくれって言われたけど、多分、それは無理だと思います。私の住んでいた村は遠いので。だから、会うのはこの町が最後ですね」
「……ああ、そうだな」
そうなるのか、とガーランドが答える。
彼が目を伏せると、榛色の瞳に影が落ちた。馬車の窓から差し込む陽がちらちら揺れて、その表情を分からなくする。
今の言葉はデイジーの本心だった。
それなのに、寂しさを覚えるのはなぜだろう。
ふたたび長い沈黙が落ちる。
会話のないまま、二人は馬車に揺られていた。
***
「あらあらまあまあ、見違えたじゃないか、デイジー!」
デイジーが店を訪れると、おかみさんは大歓迎してくれた。
「どこのお嬢さまかと思ったよ。なんて綺麗なんだい、妖精みたいじゃないか!」
「あ、ありがとうございます……」
「前から美人だとは思っていたけど、ここまでとはねぇ。絵画の中の天使か、おとぎ話に出てくるお姫さまみたいだよ、本当に」
「おかみさん、もう、それくらいで……」
手放しの賛辞にいたたまれず、デイジーが耳まで真っ赤になる。
その横でガーランドが当然だというように頷いていた。
「まったく同感です。彼女は美しい」
「おや、ガーランドさんもそう思うかい?」
「おかみさん! ガーランドさんも!」
からかわないでくれと抗議したが、二人ともなぜ怒られるのか分かっていないようだった。
デイジーをひとしきり褒めちぎった後で、ふとおかみさんが真顔になった。
「ぜひ食事をしていってくれ……と言いたいがね。あんたはまだここに来ない方がいいかもしれない」
「えっ?」
「来たんだよ、あの男。あれから何度も」
おかみさんが眉を寄せる。デイジーははっとした。
「あの男って……マックスですか?」
「あんたがいないのを知ると、注文もせずに帰ったがね。それから二、三日後に訪れて、そこからは四、五回見かけてる。気づいてない分も含めると、もっと来てるかもしれないね」
マックスはデイジーの働いていた店を知っている。
デイジーがいなくなった後、行方を捜そうとするのは不思議じゃない。何しろ、書き置きひとつ残さず出ていったのだ。事件に巻き込まれたと思ったのかもしれない。
だがそれを口にすると、「それはない」とガーランドが首を振った。
「君には言わなかったが、出ていく時に請求書を残しておいた。君から聞き取った分だけだが、今までの家賃や生活費の合計と、押しつけられていた分の家事の代金。彼には、君が愛想を尽かして出ていったように見えるんじゃないか」
「でも、それならどうして私を?」
金を返したくないマックスは、デイジーを放っておきそうなものなのに。
「多分だけど、生活が大変なんじゃないかい?」
話を聞いていたおかみさんが推測した。
「あたしのところに来た時、シャツの襟がよれてたんだ。次に見かけた時は、ズボンにシミがついていた。あの排泄物は家事をやりたくないんだろう? またあんたに頼って、楽な暮らしがしたいのかもしれないね」
「はいせ……マックスのことですね」
「それに加えて、金も必要なのかもしれない。王都への引っ越しは金がかかる。思った以上に出費が増えて、手持ちの額じゃ足りなくなったのかもしれないな」
排泄物呼びに一切動じないガーランドも口を挟む。どうでもいいが、ここは飲食店なので、二人とも自重してほしい。
「あとは、そうさね。手に入るはずだった女がいなくなって惜しくなったから、味見だけでも済ませておきたいってところかね」
「!」
「ありえますね。汚物の思考回路は共通している」
ガーランドが口元に指を当てる。少し寄せた眉が凛々しい。どうでもいいけれど、汚物というのはやはりマックスの事だろうか。お願いだから自重してほしい。
「彼女さえ手元に戻れば、すべて手に入れることができる。正直、なんとしても手に入れたいはずです」
「クソ男の考えそうなことじゃないか。一度甘い汁を吸ったら、一生吸い続けられると思ってるのさ」
「そんな……」
マックスにやり返した時、反省していると思っていた。
けれどそれは上っ面だけのものだった。
しおらしく頭を下げながら、腹の中では舌を出していたのだろうか。それとも、次にだます手段を考えていたのか。もしかすると、憤りを隠していたのかもしれない。あの時の顔は不満そうなものだったから。
どちらにせよ、それが本当なら、彼に残っていた最後の情まで消え失せた。
「……二度とあの家には戻りません」
デイジーは決意を込めて宣言した。
「マックスの思い通りにはならない、絶対に」
「それがいいよ」
おかみさんが賛成してくれる。
「そいつがさっさと王都に行って、二度と戻ってこなきゃいいんだけどね。もっとも、そいつの思い通りになるっていうのは癪だけどさ」
「そうですね……でも」
少し考え、デイジーは言った。
「そんなにうまくいかないんじゃないでしょうか。なんとなく、そんな気がします」
マックスはずるい男だが、それほど頭は良くなかった。
もっと頭が回る男なら、デイジーに気づかれる事なく、あれこれ利用できただろう。家事を押しつける時だって、他にうまいやり方があったはずだ。あんなお粗末な言い訳しかできない男に、この先何ができるのか。
下劣な企みについてはぞっとするが、それだってやり方次第だ。王都に行くまで隠し通し、綺麗な形で別れる。彼が有能なら、そうする事も可能だった。
でも、彼はそうできなかった。それは彼の能力の無さを表している。
「同感だな。あの男はいつかぼろを出す」
ガーランドが厳かに同調する。
冷徹な実業家の目で、小ずるい男の人となりを分析している。
ちゃっかりしているといえば聞こえはいいが、その実、金と労力を搾取して、何も知らない幼なじみの少女を毒牙にかけようとしていた卑劣な男だ。
「それがいつかは分からないけど、そうだな。そう遠い話でもないんじゃないか」
「そうですか?」
首をかしげたデイジーに、小さく頷く。
「ああ。何しろ都会は人でも物でも動きが速い。罰だって、他より早く当たるかもしれない」
「そうなるといいけどねぇ」
浮かない顔でおかみさんが言い、そこで話は打ち切られた。




