2-18 散り花
西の対屋にある自室に絹香を残し、御影は母屋の渡殿を急いでいた。
当然、斎宮星乃の元へ行く為に。
(早く、星乃様にお伝えしないと……っ)
奇妙な香の効用、更には今日の夜更けに催されるという会合。
絹香の意を汲み御影が会合に潜入するにしても、やはり星乃の許しは必要である。
(ーー泰菜や東海林様にもあんなに言われたばかりだけど……)
御影にも今となっては自分の思い立ったら居ても立ってもいられない質を自覚している。
(ーーでも、今はとにかく時間がないもの……っ)
そう言い聞かせた御影だったが、前方に見えた人影に思わず足を止めた。
「ーー東海林様!?」
そこにいたのは先程まで御影の脳裏で渋い顔をしていた男ーー国司、東海林幸路であった。
「御影殿……? この様な時間に何を……?」
御影を見るや険しい顔をする幸路。その顔にははっきりと「この女、また何かろくでもない事を考えているのか」と書いてある。
見れば、幸路の手には大量の書簡があった。その疲れきった顔と合わせて考えても、今の今まで残業していたという所だろう。
「東海林様、大変な事になりました」
「大変な事?」
御影の言葉に幸路は瞬時に昼間の茶会に関する事だと理解した様だった。
「何かあったのですか?」
険しい面持ちの幸路に、御影が声を潜める。
「時間が無いので詳しいお話は出来ないのですが、本日子三刻……高町大路の加倉井邸にて会合があり、そこで件の香が出るそうです」
「ーーなっ、それは本当ですか!?」
「はい。私はこれから斎宮殿下に夜半の外出の許可を頂きに行きます」
言いきった御影に、しかし幸路は愕然とする。
「ま、待ちなさい……。まさかこれから斎宮殿下にお目通りを? 幾らなんでも非常識が過ぎますよ。日を改めるべきです」
常識的に考えれば至極全うな幸路の発言である。
御影としてはこの時間に星乃の居室を訪ねるのは最早日々の日課となっているが、それを知る由もない幸路の反応としては当然のものであった。
それを言う訳にもいかず、御影は言葉に詰まった。
「ですが、時間が……」
「そも、その情報は何処から得たのですか?」
「それは……」
御影の脳裏に先程の切羽詰まった顔をした絹香の顔が浮かぶ。
しかし、流石にこれは言わねばならない。
「ーー上位巫女の絹香様です」
「絹香……? 昼の茶会にも出席していたという?」
「はい」
「今、その巫女はどちらに?」
「西の対屋の私の自室で待って貰っています」
その言葉を聞いた幸路は額を抑えて、唸った。
「重要参考人から目を離すとは、全く……。行動力があるのは認めますが、その分抜けも多いですね……。
御影殿、私と一度西の対屋まで戻って件の巫女の様子を確認に行きますよ」
有無を言わさぬ調子の幸路に、御影がたじろぐ。
「えっ、ま、待って下さい……っ」
「殿下への目通りよりもそちらが先でしょう。万が一でも参考人に逃げられたらどうするのですか」
「そ、それは……」
確かに御影は絹香を自室に一人残してきてしまっている。
幸路の言い様はまるで絹香が何かを企んでいるとでも言いたげだが、先程の絹香の様子を思えばそれは考えづらいし、逃げ出すとも思えない。
(絹香様は加倉井殿と小百合を救う為にこの話を打ち明けてくれたんだもの……)
絹香の為にも夜半の加倉井邸に潜入し、真実を明らかにする……御影がそう思った時、二人の後方から凛とした声音が聞こえてきた。
「ーーこの様な時分に何をなさっているのですか」
蜂蜜色の髪と瞳、巫女頭の松江がそこに立っていた。
「ま、松江様……っ!?」
「松江殿……」
松江は唖然とする二人を交互に見る。
「騒がしいですよ、二人共。此処を何処だと心得ているのですか」
御影と幸路からかいつまんで話をされた松江は眉根も動かさずに二人に告げた。
「ーーなるほど、だいたいの事情は分かりましたが、御影にはこのまま殿下の元に行って頂きます」
「しょ、正気ですか、松江殿……っ!?」
「正気も何も……この御影には元々斎宮殿下の夜半の警護の任にも就いて貰っているのですよ。こう見えて、とても腕が立ちますからね」
開いた口が塞がらないといった体の幸路だったが、何とか気を取り直すかのように咳払いをしてみせる。
「夜半の警護……にわかには信じがたいですが、松江殿がそう仰られるならばそうなのでしょう……。
では仕方ありません。参考人の確認には私一人で参ります」
「お待ちなさい、幸路殿……この様な時分にお一人で西の対屋へ向かわれると仰られるのですか?」
松江の咎める様な声音に、幸路が「うっ」と気まずげな声を上げる。
しかも見に行こうとしているのは御影の部屋である。本人不在の若い娘の部屋に男が一人で向かうというのは確かに誉められたものではない。
「し、しかし……参考人を逃す訳には……」
しどろもどろになる幸路に、松江が溜め息をついた。
「ーー仕方がありません。西の対屋へは私が同行しましょう。絹香の事も気になりますからね。
では、御影……殿下の前でくれぐれも粗相の無いように」
それだけ言うと、松江は幸路を引き連れてその場を離れようとする。その際に「何かあればすぐに呼びなさい」と小声で言ったのを御影は聞き逃さなかった。
「ーーはい、松江様」
*****
ひんやりとした座敷牢に女の咽び泣く声が響く。
小百合である。
つい先程までは狂った様に大声を張り上げて何事かを叫んでいた小百合だが、今ではそれが嘘だったかの様に座敷牢の片隅で小さく縮こまり涙を流していた。
そんな小百合のすすり泣く声だけが木霊する場にキィと錆びた鉄の軋む音が響いた。
「……?」
その音に、のろのろと小百合が顔を上げる。
次の瞬間には小百合の青白い顔は歓喜に染まっていた。
「紅波様……っ」
掠れた声で男の名を呼ぶ。
そこにいたのは金の髪に紅い瞳の男、紅波だった。
紅波はゆったりとした足取りで最早自力で立ち上がる事も出来ない小百合の元へと歩み寄る。
「ーー可哀想に、こんなに痩せてしまって……」
口調には悲哀を滲ませて、しかし口許は愉快げに弧を描いて男が言った。
「紅波様……あぁ、紅波様……。香を焚いてもいないのに……お会い出来るだなんて……」
紅波は歓喜に打ち震える小百合の目元から涙を指先で掬い取ってやると、妖艶に微笑んでみせる。
「お前は本当に私が好きだね」
「はい……っ、はい……っ。 紅波様が大好きです……っ。愛しています……っ」
掠れた声で必死に愛を伝える小百合を男は眺める。
「ーー小百合。お前、斎宮に毒を盛っただろう」
紅波の言葉に小百合の身体がびくりと跳ねる。
「大方、香の為だとでも言って加倉井に命じられたんだろうが……それは頂けない」
「紅波様……ごめんなさい、紅波様……。だって……あの香が無ければ……紅波様と会えなくなってしまうから……。私、そんなの耐えられないんです……」
「ーー香か。まぁ、そうだな。お前の元に行く時にはあれを目印にしていたから。
しかし小百合、お前は本当に愚かで可愛らしいね。だが、お前のそういった所は人間の愚かさを体現している様で見ていて楽しくもある……。
今回の件も本来なら首を撥ね飛ばしている所だが、お前には色々楽しませて貰ったからね……特別に赦そう」
そう言って紅波はうっとりと夢見心地でいる小百合の髪を撫でた。
そして小百合の髪に飾られた黒百合の飾りを引き抜く。
「ーー小百合。お前、これから二度と私と会えないと言われたらどうする?」
紅波の言葉に小百合は弾かれた様に眼前の男を見やる。淡黄色のその瞳は絶望に揺れていた。
「ーーいやっ、嫌です……っ。紅波様とお会い出来ないだなんて……っ。それなら、そうなるくらいなら、私……っ」
「死んだ方が良い?」
まるで何でも無い事かの様に紅波が言う。そして、その問いに小百合は頷いた。そこに一切の迷いは無かった。
紅波は右手で小百合のおとがいを軽く持ち上げると、小百合の唇に自身のそれを重ねた。
小百合の顔が幸福に染まる。
紅波の白く細い指先が、小百合の胸元に掛かった。




