エピローグ・幸せはある晴れた日から
雲一つ無い、青空の広がる晴れの日。
一人の娘が、とある場所に向かって歩いていた。娘は知っていた。その場所に、娘自身の運命を大きく変えた龍が現れる事を。
そして『その場所』に到着した。娘は頭上に手をかざし、天を仰ぐ。
やがて青い空の上に、細長い身体をくねらせる龍の姿が見えた。娘はホッとし、肩の力を抜いた。来なかったらどうしよう、と少し不安に思っていたが、杞憂に終わった事に安堵していた。
村では突然の龍の降臨に、人々が慌てふためいていた。ただ一人、娘だけは冷静に龍の動向を見守っていた。
降り立った龍は三体。村人達の目の前でみるみる内に見目麗しい若者の姿になり、周囲を鋭い眼差しで見渡していた。
そして三人の中でも一際美しい若者の目が、娘の所でぴたりと止まった。龍の両目が驚いたように見開かれている。娘は少しだけ迷い、そして龍に向かって微笑みかけてみせた。途端に龍の顔が、まるで茹で蟹のように真っ赤になっていく。
娘は苦笑しながら、自ら龍の元に歩いて行った。
「こんにちは、龍神様」
「な……っ!? は、花嫁!?」
「今日はこの小さな村に、何をしにいらしたのですか?」
「え!? だから花嫁を探しに……。というか、花嫁は貴女なんだが、その、一緒に結婚、あの……」
──いっそ心配になるくらいに顔を紅潮させ、しどろもどろで口説いてくる龍神の男。背後に控えている二人の男も、ハラハラとした顔をしている。
(あの人、こんな感じだったかしら)
娘は思わずクスクス笑った。いや、きっとこんな人だったんだろう。あの時は恐怖と絶望でそれどころではなかったから、気づかなかっただけなのだ。
娘は龍神の若者の所に歩いて行った。娘は歩きながら、ふと頬に視線を感じた。視線の方に顔を向けると、幼馴染みの青年が心配そうにこちらを見つめている。娘は幼馴染みを安心させるように微笑み、頷いて見せた。
幼馴染みの手は、娘もよく知る女性の手をしっかりと握っていた。
娘はそれを確認した後、龍の若者を真っすぐに見つめた。
「不束者ですが、どうかよろしくお願い致します」
「あ、あぁ、こ、こちらこそ……」
若者は娘の手を恐る恐るとった。小さな手を握った瞬間、龍は心の底から嬉しそうな顔をしていた。娘は、そんな龍に静かに問いかけた。
「お名前は?」
龍の若者は力強く答えた。
「俺の名は、朱氷と言う」
「私は、蓮花と申します」
──朱氷の、かつての夫に手を握られながら、娘、蓮花はやっとここまで来たか、と感慨深い思いに浸っていた。
********
「時間を逆行させる?」
突然訪ねて来た息子・氷蓮にいきなり訳のわからない事を言われ、蓮花はただ戸惑っていた。
「とりあえず座って? それから話を聞かせて」
氷蓮は神妙な顔で母親に何もかも話した。花鈴が抱いていた夢も、花鈴の怒りと絶望に気づく事なく彼女をただ傷つけていた事も、互いが向き合おうとしなかった為に色々と拗れてしまった事も。
「……僕は、花鈴の未来を奪った。それでも花鈴はこれからの時間を大切にしようと言ってくれたけど、僕は本当の意味で彼女を幸せにしたいんです」
──その時、蓮花は内心失望でいっぱいになっていた。あの娘ったら、もう少し気骨があるかと思ったのに。結局、絆されちゃったのね。
「なるほど。あの子の時間を逆行させて、やり直しを図るのね? まぁ良いんじゃないかしら」
「いえ、それでは駄目なんです。同じ事を繰り返すだけでは、花鈴は幸せにならない」
「どういう事?」
蓮花は眉をひそめた。息子の言っている意味が全く理解出来なかった。
「……母上。貴女は父上に対してずっと、怒りを抱いていたのですね」
「え……」
「花鈴の時間を逆行させて、やり直しをする。良いですね。僕は花鈴を魔法学校に行かせてやって、卒業したら結婚をする。……けれど母上、貴女の憎悪に花鈴はいつか必ず気づく。実際妹は、朱華は何かに気づいていた。母上、僕は気づいたんです。花鈴を何の憂いも無く幸せにする方法は、貴女を幸せにする事だと」
「わ、私を!?」
「はい。母上、僕に教えて下さい。貴女は幾つの時の、どの場所に戻りたいですか? 記憶はどうします? 消す事も、そのままにしておく事も出来ますよ?」
「ちょ、ちょっと待ちなさい!」
漸く息子の言っている事を理解した蓮花は、慌てて息子を止めた。息子は肝心な事を理解していない。
「……氷蓮。私の場合はね、魔法学校どころじゃないの。愛していた幼馴染との結婚式の前日に、番だの何だの言って連れて来られたの。村への加護と引き換えにされたら断る訳にもいかなかった。私のあの人は、翌日に自死したわ。時間を逆行なんてしたら、私は絶対に朱氷に出会わないように立ち回るわよ?」
「えぇ、そうだろうなと思っています。……幼馴染の方には、申し訳ない事をしました。僕が言う事じゃないですけど」
「だから! そうなったらどうなるか分かってるでしょ!? 貴方は私と朱氷の子供なの! 私達が出会わなかったら、貴方はこの世に生まれて来ないのよ!?」
確かに蓮花の言葉を聞いたはずの、氷蓮は静かに微笑んでいた。蓮花はそこで初めて、己の息子が何もかも理解した上で時間の逆行を持ちかけている事を悟った。
「貴方、そこまであの子の事を……」
「花鈴は人として生を全うするのが幸せなんです。けれど、それには僕の存在が邪魔だ。僕はきっと、なりふり構わず何度でも花鈴を求めてしまうから」
──さぁ、母上。貴女を戻して差し上げます。望んだ時間に。戻りたい場所に。
そう微笑む息子を前に、蓮花はもはや何も言う事が出来なかった。
********
蓮花は時間を遡った。記憶を持ったまま。幼馴染に告白をされた日に。
「蓮花。俺と付き合ってくれ」
「ごめん私、他に好きな人がいるの」
そして、幼馴染は後に別の女性と付き合う事になった。蓮花は胸の痛みと引き換えに、愛した人の未来を手に入れた。
********
蓮花は龍神の姿に戻った朱氷の背に乗り、大空を駆けていた。
まだ空っぽの、薄っぺらい腹部にそっと手を触れる。あと百二十年経ったら、また息子に会う事が出来る。息子が『花嫁を探しに母上の村に行く』と言い出したら、今度は諸手を上げて賛成してやろう。
そして、一晩かけて言い聞かせるのだ。花嫁とは時間をかけて話し合いなさい、と。
「……氷蓮。母親というものは、子供の幸せの為なら何だって出来るものなのよ。けど、貴方にそう思わせる事が出来なかった私は本当に悪い母親だったわ」
「ん? 何か言ったか?」
「いいえ何も。……旦那様」
──氷蓮だけじゃない。自分もきちんと夫と向き合わなくては。
蓮花は朱氷の角を掴んだまま、首元の鱗にそっと口づけた。突然の事に狼狽えた朱氷は大きく体勢を崩した。そんな見た事も無い夫の姿を見た蓮花は、声を上げて笑った。
青空の中、澄んだ空気の向こう。
誰もが望んだ幸せは、確かに形になろうとしていた。