(35)
こそこそとドアの隙間から隠れるように入ったルシンダに、ザワリと会場の視線が集まった。
ザッ、ザッ、と示し合わせたように、波が引くような美しさで、参加者がルシンダから距離を取る。
皆、それぞれ、憐憫の眼差しを一筋向けて、ルシンダと目が合う前にそっと逸らされる行動に、ルシンダは見えない涙を流した。でも、自分でもそうする。
ルシンダが身に纏うのは夜空を思わせる深い藍色に、月色の宝石が飾られたドレス。
それは、この国の王太子殿下と、彼が寵愛する侯爵令嬢を思わせる色だということは、この国に住まう貴族、あるいは一般庶民にだって伝わっているかもしれない、そんな象徴的な色だ。
端正な顔立ちに、凛々しくそれでいて優秀な王太子殿下に憧れる者は多くいるが、国内で彼に擦り寄る者が極端に少ないのは、彼の婚約者が完璧な淑女であることに加え、彼女を愛する王太子殿下は、とてつもなく恐ろしいことを皆が知っているからだ。それは彼と彼女の色を纏うことも許されないと思わせるほどのものだった。
王太子殿下、アシル・シャルル・エクトル・フォルタンの婚約者にして、『月夜の妖精』と称えられるロゼトワール・シルヴィア・フルベール侯爵令嬢は、同時にこの国の『救いの女神』でもある。慈愛に満ちた彼女が隣にいる限り、かの王太子殿下はけして圧政を敷くことはない。――ただし、彼女に何かあれば一切の容赦なく牙を剥くだろうが。
それでも、平時においては、彼女にいらぬちょっかいを与えない限りは平穏で満たされた日常が約束されたようなものだ。優秀な王太子殿下は、彼女がより安心して豊かに暮らせるように国を整える力があり、彼の目の敵にされなければその治世で生きていくことが許される。
そして、残念ながら、何の因果か、本人に何の咎もないのにあの王太子殿下に目の敵にされているのが、ルシンダ・レッキーという少女だった。
彼女に関わったが最後、自分までもが王太子殿下の射程に入る。
ルシンダのことを可哀想だとは思っても、自身の生き残りを優先する者達の行動は皆同じだった。
間もなく、かの王太子殿下とその婚約者が入場する。
匿ってくれる人など当然いるはずもなく、ルシンダはカーテンの裏に隠れることを選んだ。
開くドアに緊張が走る。
そのドアは一般に開放されることはない。
使用できるのは、王族とそれに連なる者だけだ。
そして、この学院に現在通う王族は一人だけ、アシルだけだ。
重厚なドアの向こうから、艶のある深い藍色の正装に身を包んだアシルと、彼にエスコートされながら、月色に輝くロゼトワールが姿を現した。
その姿に、ルシンダはひゅっ、と息を飲んで、恐る恐る自分のドレスを見下ろした。――型が同じ!!
ロゼトワールとまさかまさかの色違いのお揃いのドレスに意識が遠のいた。もういっそ、本当に失神してしまいたかった。
そんなルシンダをアシルにエスコートされたロゼトワールがきょろきょろと探す。
「ヴィー」
ロゼトワールの耳元で甘く名前を囁きながら、アシルが「どうした」と問いかける。
「ルシンダさんはどこかしら?」
出てきた名前に、アシルは「またあの女か」と、表では麗しい笑みを浮かべながら、内心でルシンダを肉塊にして磨り潰す。結局、卒業の日まであの女を学院どころか特別科からも追放できなかったのは、アシルとしては、これまでの人生で唯一の汚点だ。初めて泥を付けられたのがあの女かと思うと、ますますルシンダに対する殺意が湧いたが、その殺意を抱くのも今日が最後だ。
この学院を出てしまえば、ロゼトワールとルシンダの接点は無くなる。婚約期間は終わり、ロゼトワールは王太子妃として、王太子宮の中にある王太子妃宮で暮らすことになる。
「中身が庶民のあの娘には、この煌びやかな空間が耐え切れずに逃げ帰ってしまったんだろう」
「まあ。それは大変。探しに行かないと」
もしかして、ドレスが汚れて困っているのかもしれない、とロゼトワールは思った。
物語では用意されたドレスを汚されたり、隠されたりして困るヒロインというのもお約束だ。それをするのは『悪役令嬢』で、悪役令嬢を自認するロゼトワールは、アシルに始終付き添われていて、ルシンダの部屋に忍び込んだりはできていないけれど、そういう『ハプニング』が自分の知らないところで起きているのかもしれない。そう、物語の『強制力』として、『神様』がそう働きかけている可能性がある。例えば、アシルの入場前に、ドレスにドリンクを零された、とか。
――さあ、シャル! あなたのヒロインを迎えに行く時よ!
アシルの顔を見上げ、背中を押すように微笑めば、アシルもにこりと麗しい笑みを返した。
繋がった手が――離れることなく持ち上げられ、
「ファーストダンスを私と踊っていただけますか、私の愛しの月夜の妖精姫」
そうダンスの申込みをされた。
月夜の妖精姫? って何のことかしら? と思いながらも、アシルに誘われたら、受けることしか教わっていないロゼトワールは、いつもの調子で「はい、喜んで。私の愛しの王子様」とその誘いに応じた。
ダンスフロアの中心で、きらきらと眩く輝きながら踊る凛々しい王子様と愛らしいお姫様。
まるで夢の世界のような光景に、一同が注目する隙を付いて、ルシンダは床に這いつくばりながら、出口を目指し、ガッ、とドレスの裾を持ち上げると、一目散に学院の外へと駆け出した。
「生きて卒業おめでとう、私~!!!!!!!」
ルシンダ(ヒロイン)が舞台から自主降板したことなど知る由もないロゼトワールは、光集めるフロアの中心で、流れるようなワルツをアシル(ヒーロー)とともに披露していた。誰が見ても、彼女はこの世界のヒロインだった。
王太子の婚約者として完璧なワルツを披露したロゼトワールは、煌めく世界の中心で跪いたアシルに手を取られていた。
「ヴィー。今日で俺との『婚約』を終わりにしてくれるね」
「ええ。もちろんよ、シャル」
ああ。いよいよこの時が来たのだと、ロゼトワールは興奮に頬を薔薇色に染めた。
真実の愛を見つけた王子様は、悪役の婚約者に公衆の面前で別れを告げ、愛しい人を迎えに行くのだ。
優しく広がる夜空の瞳と、煌々と輝く美しい満月のような瞳が混じり合う。
さあ、行って。
あなたの幸せを、掴みに――。
けれど、アシルはロゼトワールを見詰めたまま、その場を動こうとしない。
「シャル――」
「ヴィー。俺の、唯一のお姫様。これからは俺の妃として傍に」
そう言ってアシルはロゼトワールの左手の薬指に、一つの指環を填めた。王家の紋章が刻印された、王太子妃に代々受け継がれる、結婚指環。
ピッタリと自分の薬指に填まる指環に、ロゼトワールは目を丸くし、しゃがんでアシルの耳に何事かを囁いた。
観衆は奥ゆかしいロゼトワールが、恥ずかしがってアシルにのみ聞こえるように、承諾の言葉を囁いているように見えた。何て美しい恋の光景だろうか。
いくら恐ろしい性格をしている王太子のアシルとはいえ、婚約者のロゼトワールと揃う姿は美しく、高名な宗教画のような神々しささえ感じられた。
けれど、実際には――
「どうして、肝心なところで間違えちゃうの。これは、ルシンダさんに渡すものでしょう?」
いまだルシンダがアシルのヒロインだと信じて疑わないロゼトワールが、そう、こっそりと指摘していた。
(いくら初めての恋に緊張しているとはいえ、まさかあのシャルがこんな失敗をしちゃうなんて)
かわいいところもあるのね、と微笑ましく思っているロゼトワールの身体がふわりと宙に浮いた。
「――えっ? シャル?!」
「俺が良いと言うまで黙っているように」
にこりと笑って言うアシルに『しつけ』られたロゼトワールはそのままパッと両手で口を押さえて黙り込んだ。そんな素直なロゼトワールにアシルは「いい子だ」と笑うと、そのまま颯爽と出口へと向かって歩き出した。
最後に
「皆、卒業おめでとう。どうか最後の学院での思い出の日を楽しんでくれ」
そう言うとロゼトワールを抱えて、城へと真っ直ぐに向かった。
何も知らない観衆は、お姫様を大事に抱えて城へと向かう王子様の姿に見えただろう。
とても美しい、王子様とお姫様の恋物語の終幕だ。
「――あの子は何を言って怒らせたのかしら……」
目の奥が笑っていないアシルの姿に気付いていた側近たちは溜息を吐いた。
「まあ、死人もなく、あいつの望む結末を迎えたんだからめでたしめでたし、でいいんじゃないか」
執着心と独占欲にまみれた王子様に捕まり、これから王太子妃宮に閉じ込められることが確定した哀れなお姫様の後ろ姿に、側近たちは揃って憐憫の視線を向けた。
こうして、悪役令嬢を目指したゆるふわお姫様な侯爵令嬢は、悪役令嬢らしい見事なバッドエンドを無事に迎えることになったのだった。
1か月程更新が止まってしまっていましたが、なんとか無事にピリオドを打てました!
腹黒王子とゆるふわお姫様のすれ違いラブストーリーはこれにて終了です!
お付き合い頂きありがとうございました!




