021,山を殺す scene4
依頼を受けはしたが、わずかばかり逡巡する。殺したことがあるのは本当だが、そのときは複数人でかかっていた。さらに、視線の先にいるのは見たところそのときの個体よりも大物だ。
伝令役の男性を帰し、てきとうな場所に腰を下ろしてあらためて標的を観察する。山中ではあるが、まだまだ日は高く視界は良好だ。木々がかなり視線を遮ってはいるが、それは自分が姿を隠すのにも有利に働くということ。
標的は熊のような魔物だ。ような、という曖昧な表現は、動物と魔物の定義自体が曖昧であるためだ。現存する線引きだけでも、人間を襲うもの、魔術を行使するもの、体内から魔石を採取できるもの、動物が魔素に侵されて変容したもの、など複数ある。今回の標的で言えば、これらすべてが当てはまりそうだ。が、人間を襲う、という項目については比較的、状況が限定される。
「…………」
男が標的の魔物を知っていると告げてから、案内役の男性は標的よりも男のことを気にかけている。
「……あれを片付ける前に、ひとつ聞いてみたいんだが」
「……なんだ?」
「あれの習性について知っているのはどのくらいいるんだ?」
「…………」
両者の視線が交わる。男の瞳は色にしろ形にしろ極めて凡庸な造形をしているのだが、それが仮面の奥に隠されていることで、他人に与える印象を変えているようだった。
「勘違いさせているのかもしれないが、俺はあれを殺すことを咎めようとか、そういうつもりはない。ただ、トラブルに巻き込まれたくないだけだ」
男があえて視線を標的に戻すと、横合いからは深く息を吐く音が聞こえた。
「……知っているのは山に入っている人間の内、数人だけだ。ダグザ……仕切っているやつがいるんだが、そいつの指示で黙っていることになった」
「村長は?」
「知らない。というか教えてない」
「そうか、わかった」
男は立ち上がった。
「……俺たちにだって生活があるんだ」
案内役が漏らした声は、音量こそ抑えられていたが、切実さの滲むものだった。
男が村を見て回ったかぎり、そこまで切迫している様子はなかった。少なくとも、短期間、山に入れなくなったとしても今日明日で盗賊に身をやつす必要はないだろう。となれば、仕切り役とやらが私腹を肥やすことが目的か。うまく突ければ追加の報酬をせしめることもできそうだが、関わり合いになるのは面倒そうでもある。
「良かったな。もしギルドでハンターを頼んでいたら、どうなっていたかわからんぞ」
仮面の下で、男は口角を吊り上げた。もちろん、歪な表情で見上げていた案内役の男性が、それを窺い知ることはできない。
男は腰に差していた剣を引き抜いた。手持ちの中では一番大きく、頑丈なものだ。といっても、片手剣の範疇での違いなので、見た目にそれほど巨大なものではない。そして足音なども気にすることなく、無造作に標的の魔物に近づいていく。
ある程度まで近づいたとき、大木の根元に向かってなにやらごそごそとやっていた魔物は動きを止め、ゆっくりと振り返った。前述したとおり、あまり視覚に頼る魔物ではないが、さすがに音をひそめることもなく、枝葉を揺らしながら近づいてくるものがあれば探すのに手間取ることもない。
「グオオオオオオオ!」
静かな山に咆哮が響き渡る。どこからか、鳥の飛び立つような音が魔物の声に追従した。盗賊退治で同行したような年少ハンターたちであれば、いまの咆哮だけで腰を抜かして身動きできなくなっていたことだろう。耳を保護することもできず、聴覚に異常をきたした可能性もあるか。
ギルドで定められているこいつの名称はいったいなんだったか。男は思い出すことができなかった。そもそも記憶していなかったかもしれない。頻繁に討伐の依頼が出されるようなものであればさすがに記憶しているが、この巨大な黒毛の四足獣はそう頻繁にお目にかかる類いの魔物ではない。何せ生息地が山奥なのだ。
怯むことなくなおも接近してくる男に、魔物は立ち上がり、両手を挙げた。己の体を大きく見せて威嚇しようという、実に野生的な所作だ。実際、男の身長をゆうに超えて聳え立つ体は長いばかりでなく、相応の太さも備えて実にたくましい。横に並ぶとしたら、話し合いの場に集まっていた屈強な山男たちですら子どものように映ることだろう。
しかし、なおも男は止まらない。こうなれば、あとはもう実力行使で叩き潰すより他にないと、魔物はわずかに地響きが起こる勢いで前足を地面について猛然と男に向かって突進した。縮尺はともかく、ずんぐりむっくりとしても見える魔物の体躯は、良く知らない者からすると鈍重であるようにも見えるのだが、その実は筋肉の塊であるためにかなりの速度が出る。その突進は生い茂る枝葉や多少の木々などものともしない。
魔物の突進を寸でのところで横に飛んで避けつつ、男は手にした剣で魔物の体表を撫でた。まずあり得ないことだが、斬れるものなら斬るつもりで、だ。魔物の黒々とした毛は見た目以上にごわごわとして硬い。そしてなにより、全身に纏った魔力によって補強されていた。黒毛に薄っすらと纏わりついて見える紫の光がその現れ。
男の動きをしっかりと視界に捉えていた魔物は地面を削るほどの力で急制動をかけ、すぐさま方向転換をして追いすがる。ただ直線的な動きにおいて速いだけでなく、機動性も高い。暴力と呼ぶに相応しい圧倒的な力で蹂躙する、それがこの魔物の戦い方だ。
飛び退きつつ、木の側面に着地した男に魔物の野太い腕が迫る。それは着地からほとんど間を置かずに男の留まっていた木を小枝のようになぎ倒した。
体一つ分下をとてつもない勢いで通過していく死神の腕を逆さまの視界に映しながら、男はさきほどよりも魔力を込めた剣を突き出してみる。切っ先が魔物の体に触れた途端、腕が引っ張られて体勢が崩れる。肉を裂く感触は得られなかった。
(やはり硬い……)
蛙のような格好で着地し、顔を上げる。眼前にはすでに闇が広がっていた。
男が飛び退いた直後、男の跳躍の衝撃と見まがうようなタイミングで地面が弾け飛ぶ。あたかも炸裂する類いの高位魔術が打ち込まれたかのような衝撃と余波。
避けられるとは思っていたが、決して余裕を持った回避ではなかった。魔物を見据えながら地面に足を滑らせていると、地上に張り出した木の根に引っかかり、転がってしまった。ある程度回転の落ち着いたところで、地面を蹴って軽く飛び上がり、着地する。全身に付着した汚れもそのままに背を伸ばして立ち上がると、手のひらに潰れた虫けらの残骸が付着していないことを確認し終えたらしい魔物と視線が交わった。
やはり強い。直接受けたわけではないが、なぎ倒された木々や抉れた地面からその威力を類推する。あれだけの破壊力を獲得するのはハンターのランクで言えばどのくらいになるだろうか。もちろん、何かに特化する者もいるので一概には言えないが、おそらくは銀級辺り。といっても、銀級のそれは必殺技や一芸特化にあたるはず。視線の先の魔物は、常にそれだけの威力の攻撃を繰り出せるのだ。そうなれば、金級は下らないだろう。もちろん、どこかの能天気な女ハンターのように、相応かそれ以上の実力がありながら、
何らかの理由で銀級に留まっているようなものも世の中にはいるようだが。
はっきり言って、相性の悪い相手だった。
攻撃力はともかくとして、同時に備えている防御力が厄介だ。
男には魔術の才がなかった。武芸者としては致命的なレベルで、扱える魔力の総量が少なかったのだ。魔力は魔術のみならず、体や武器に纏わせて保護、強化することにも用いる。男はその魔力総量の少なさから、魔物の対表面を貫けるだけの威力を剣に持たせることができない。さらに、周辺に漂う魔素を巻き込んで魔物の防御を突破するだけの威力を持った魔術を放つこともまた、不可能だ。
ふと、盗賊の拠点で見たソルという少年のことを思い出す。あのとき少年が発露させていた魔力の波動。魔素と反応させたわけでもないただの放散現象でかなりの規模の衝撃を引き起こしていた。
魔物の豪腕を紙一重で避けながら考える。
もし、自分にあれだけの魔力があれば、この交差際に魔物の腕を切り裂き、傷をつけることができるだろう。もしくは少し距離を取って、魔物の豪腕にも劣らない魔術でもって吹き飛ばすか。それよりも一点集中で急所を破壊するほうが確実か。
下らない。
実に下らない妄想だ。
どんなに羨んでいても、手に入らないものはある。
一途な愚者を嘲うつもりはない。むしろ憧れを根にした敬いの感情すら抱く。自分は諦めた。敗者なのだ。それでも……
(牙は研いできたつもりだ)
魔物の攻撃を、宙に飛んで避ける。本来、制動をほとんど失うことになる空中に逃れるのは悪手である。だがここは森で、確認さえ怠らなければ足場は上空にも無数に存在している。
黒い塊に潰された大地の悲鳴を聞きながら、追いかけてくる視線に目掛けて、懐から取り出した液体をぶちまける。
直後、羽虫を追い払うように振るわれた魔物の腕によって吹き飛ばされた。空を遮るように伸ばされていた枝葉に体中を嬲られ、大木の幹に体を打ちつけた後、落下する。低い姿勢で着地したとき、魔物の咆哮を聞いた。
それは至近距離からのものではなく、一定離れた場所からのもの。魔物は男を払い除けた場所から動いていなかった。
立ち上がろうとすると、体中が軋むように痛んだ。やはり、一撃でもまともに受ければ命はないと実感する。魔物の様子を伺いながら、酷く痛む個所にだけ応急的に治癒術を施した。
魔物は呻き声をあげながら前足で顔を拭っている。魔物の顔のあたりには、湯気のような白い蒸気が視認される。
やがてひとしきり呻いた魔物が鼻息も荒く男に向けた顔はぐずぐずに焼け爛れていた。片目は茹で上げたように白く濁って見えるが、もう片方の血走った目は、確かに男の姿を捉えていた。




