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2.剣女のためにこの曲を

 その時、珪己の目の前の壁からコトリと小さな音がした。


 顔をあげると、その壁がゆっくりと開いていき、やがて昨日と同様にそこに扉が現れた。


 珪己は官吏のもつ本能によって礼をとりそうになったが、ぐっと耐え、そこに坐して待った。


 静寂の中、向こうから現れたのはやはり皇帝・ちょう英龍えいりゅうであった。英龍の両目は優しく細められている。しかしその顔は若干上気しているようでもある。


 珪己は心にしつこくからみついていた蔦を意識の奥底に何とか封じた。そしてもう一度英龍を見れば、その手に琵琶があることに気がついた。それはよく使い込まれていて、皇帝その人の手になじんだ琵琶であった。


 珪己の視線の動きに気づき、英龍がその琵琶を胸の前に掲げた。


「今日はそなたのために弾いてみたいと思ってな。余の琵琶を持ってきた」

「そういえば……陛下は琵琶をお弾きになるんですよね」


 初春の東宮において、過去について英龍が語った話の中にその情報があったことを珪己は思い出した。


 これに英龍が小さくうなずいた。だが、その何気なく装った表情の裏には不意打ちのように激しくうねるものがあった。今日も珪己が約束を忘れずに望みどおりに接してくれたこと、そして些細な話を覚えていてくれたことに、英龍はひそやかに感動していたのである。


 妃であるれい、そして娘である菊花きっかとは、この頃は気安く温かな会話ができるまでになっている。だがこの二人はいまや英龍にとって当たり前の存在となっていた。


 二人は大切な存在だし、もはや失うことなど考えられない。が、誤解を恐れず表現するならば、二人は英龍を形作る当然の構成物の一欠片となりつつあったのである。


 なぜならば――二人は家族だから。


 家族とは、たとえ遠く離れた場所で暮らそうとも、死によって引き裂かれることがあろうとも、断絶しようのない関係のことを言う。寄り添い合い、助け合い、想い合えれば、その安定した関係は満ち足り穏やかに生活に溶け込んでいく。それは幸福な慣れであるともいえる。


 龍崇も母は違えど血のつながった弟である。だが龍崇は英龍のことをあくまでも皇帝として見る。本人がそのことを決して忘れない。だから、龍崇から感じる思慕も忠義も非常にありがたいのだが、そこには敬意という名の緊張、壁があることをいつも感じていた。


 そして、先に述べた三人以外のすべての人間は、英龍に隠すことのできない恐れを抱いている。それも当然だ。英龍はこの国の皇帝であり、頂点に立つ人間なのだから。


 恐れを抱く者に心を開くことはできない。だが権力をもつ側が心を開くように命令することもできない。人の心は権力者の自由にならない唯一の物だ。


 たしかに珪己は今、皇帝の願いを聞いてそのようにふるまっている。だが命令しただけではふるまうことのできない表情と仕草で少女はそこにいる。それはつまり――。


 珪己を前にして英龍は自分がただ一人の男、ただ一人の人間であることをひしひしと実感した。そしてそのことに幼児のように喜ぶ自分の心にも幾分の驚きを感じていた。


(そうか、余もただの男であったか……)


 だが英龍は皇帝である。意識さえすれば心を表情に露見させることはない。


 英龍は努めて明るく答えた。


「そうだ。余も幼き頃からけん叔父による手習いを受けていてな。だから余はそなたにとって兄弟子のようなものなのだよ」


 座るや、英龍がぽろんとその琵琶をかき鳴らした。


 それだけで今朝の起き抜けの興奮がよみがえってくる。


 この剣女にふさわしい曲といえば一つしかない。


 だから今夜、英龍はこの曲を珪己のために奏でようと決めていた。朝からずっとその楽しみを糧に過ごしてきた。


 そしてなんの合図もなく奏でられ始めた曲に――珪己は息を飲んだ。


 それは珪己が好んで弾く唯一無二の曲だったからだ。


『闘笛』というこの曲、戦いに赴く戦士の心を表現したものであり、湖国が成る前、十国時代初期に生まれた名曲である。その名のとおり、笛で気軽に吹けることから、貴族や官吏から市井の民まで、当時好んで演奏されていた。


 しかし、湖国が成り、時代は武官を貶め、今では戦うことを野蛮なことと捉える風潮にある。


 いや、実際は初代皇帝の意志によって故意にそのように仕向けられたのだが。


 なぜなら、国が成熟し繁栄するためには文官を重宝する必要があったからだ。新しい国が興ったばかりの状況において、用いる人材も金銭も、使い道の激減した軍政よりも文政のほうに割く必要があったのである。


 その意識改革のために皇帝自ら芸事にも介入した結果――この『闘笛』という名曲も武官同様その地位から陥落し、この世の表舞台から消え去ったのである。


 だが珪己はこの曲が好きだった。


 母を亡くし途方にくれていたあの夏の夜、珪己は名も知らぬ少年から自らが闘う道があることを示された。そしてある日、この煮えたぎるような熱い闘志にぴったり同調する曲を、偶然、楽院内で発見してしまった。それは楽院長である龍顕の持つ古い楽譜集の中にひっそりと埋まっていたのだが、一目見て珪己には分かった。


 ああ、これが私が探し求めていたものなのだ、と。


 私の心のすべてがここにある――と。


 震える指でその楽譜に触れた瞬間、全身にしびれが伝わった。それはまさしく神の啓示のごとき出会いだった。珪己は脅威の集中力でもってその場で暗譜し、かつ琵琶で奏でやすいように自身の頭の中で奏法を組み立てた。そして自宅で何度も試し弾きをした。やがてこの初めての試みは、完遂する頃には、珪己の心の迷いをすべて打ち消していた。


 それからはこの曲とともに、珪己はまっすぐに武芸の道を歩んでいる。


 しかし、この曲を自分以外の人間が弾くところを珪己は今まで見たことがなかった。楽譜の持ち主である龍顕が弾くところですら見たことがない。楽院での稽古の合間、珪己がこの曲を幾度となく弾いてみせても、龍顕は何も言うことはなかった。


 だから、今こうして英龍が奏でる『闘笛』は、珪己に新鮮な驚きをもたらした。こういう奏で方が――闘い方が、心の持ちようがあるのか、と。


 音の一つ一つが珪己に語りかけてくるようであった。


 さあ、前に進め。

 自分を信じろ。


『自分を信じろ……!』


 同じことばかりを飽きることなく何度も伝えてくる。


(……ああ、だからこの方はこうして皇帝陛下であらせられるのだ)


 それは多くの言葉を語ることなく、珪己の胸にすとんと落ち、そして溶けていった。体の隅々にまで響く音が、血潮を活性化させ湧き踊らせていく。つい先ほどまで暗く暗く落ちていきかけていた心が、今は弾むように音に寄り添っている。


 珪己は両手を胸の前で組み、祈るようにその音色に身を委ねた。


(ああ……自分を信じるって、なんて強い力になるんだろう。そしてなんてすばらしいことなんだろう)


 英龍の奏でる琵琶が、珪己のすべてを肯定してくれているかのようであった。欠点すらも抱きしめて「さあ闘え」と琵琶が語る。


『さあ、自分を信じろ!』


『信じて進むのだ――!』



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