1.私って一体何なんだろう
宴を明後日に控えたこの日。
にわか楽士の楊珪己の演奏はまずまずの出来に仕上がってきていた。
少なくとも、楽院長である趙龍顕が昨日指摘した点は全て克服した。龍顕手自ら教えた『星雲伝』はまさに龍顕が乗り移ったかのような音色になったし、その他の曲もきっちりと他の奏者、踊り手、歌い手と合わせてきた。
本番どおりに全ての曲を、流れをこなしたところで、他の琵琶奏者からの珪己への尊敬の念は確固たるものとなっていた。
「君はすごいな!」
「本当にようやった。君のような若者もいるのだな」
この国の至宝ともいえる上席楽士らの賛美に、珪己は頭をかき、そしてぺこりと下げた。ただ一人、その様子を渋い面で見つめていたのは……珪己の長年の琵琶の師匠でもある龍顕だ。
(確かに『曲としては』良くなった。しかし珪己の良いところをすべて封じてしまった……)
失敗した、と龍顕は思った。こうなってほしくなかったから、これまで珪己にのびのびと好きなように演奏させてきたのに、と。
珪己の良いところ――それは琵琶の音に、曲に、珪己自身でもある素直さが、希少な美しい心が見えることにあった。欲のない、ただ奏でることを望むだけの、奏者の鏡ともいうべき清らかな心が。だがそれは失われてしまった。
龍顕は珪己のその心の美しさと前向きな生き方を好んでいた。愛しているといっても過言ではない。長い時を二人だけの稽古にあててきて、用意万端、珪己にはその音を他者に聴かせる準備はできている……そう信じて今回の楽士の任を強引に押し付けたのだが、時期尚早であったと認めざるをえなかった。
しかし今は緊急事態でもある。であれば楽院長としては、このまま珪己の音色を元に戻さず突き進むしか方法はない。だから龍顕は、この日も珪己には昨日と同様の奏法を、すべての曲について伝授したのである。
*
そして珪己は今夜も一人居残り練習を重ねている。寸分の狂いもなく師の奏法を再現するべく。
正直、こうして弾いていても面白くないし、心はちっとも動かない。指が疲弊していくだけだ。しかし珪己にはそうするしか方法がなかった。もしも今、琵琶を通して己の心が漏れ出たら――見えてしまうのは錯乱した醜い心に違いないから。
ついきゅっと唇をかみしめ、思った以上の痛みに琵琶を奏でる指が止まった。口の中に鈍い血の味が広がっていく。噛んだ場所から感じるひりつくような痛みは、昨夜、袁仁威に口づけられたことが夢まぼろしではないことの証だった。
珪己には仁威――珪己が武官として所属する第一隊の隊長――の真意が分からなかった。
昨夜、馬上で仁威は言った。
お前が阿呆で、しかも口づけてもしっくりこなかったから違ったのだ、と。
違うという意味はさすがに分かる。
まず仁威は、珪己のことを好きだと明言せずに示したのである。
いや、好きだった、というのがより正確か。
いいや、もっと正確に言うならば、好きかもしれないと思っていたが勘違いだった、そう言ったのだ。
(袁隊長が……私のことを好きだったかもしれない?)
珪己は異性から恋慕の情を、勘違いだとはいえ向けられたことが今までなかった。なので仁威自ら幕を引いたとはいえ、その事実によって珪己は仁威を意識してしまい、どうしようもなくなっていた。
仁威はいつでも親身になって接してくれていた。後宮では体を張って助けてくれたし、剣を持てなくなった自分のために朝早くから稽古をつけてくれた。武芸をするなんて変わった女だと普通は思うのに、そんなふうな態度は一度たりとて見せなかった。
突然口づけられたけど――けっして嫌ではなかった。
そして仁威は不出来な自分のことをいつでもまっすぐに見つめてくれていた。その瞳はどこまでも透んでいて、誠実で、力強くて。誇り高い煌めきを帯びていて――。
(……ああでも、こうやって考えてもどうしようもないことだ)
なぜなら、すでに仁威のほうが身を引いている。勘違いであったとはっきりと言われている。
そしてこんな時に思い出すのは、皮肉なことに、恋の師匠を自認する皇帝の異母弟・趙龍崇の言葉だった。
『君は、君に与えられた運命を忘れてはいけない。君の愛は、愛すべき人に捧げるものだということを絶対に忘れてはならないよ――』
あの日、宮城の片隅の人気のない裏庭で、珪己はこの龍崇の言葉を肯定した。今でも正しいと信じている。それはそうだ。上級官吏の娘である珪己にとって愛とはそういうものでなくてはならない。好きだ嫌いだ、それだけで愛を語ることなどしてはいけないことだ。
だがその言葉を思い出すとなぜか胸が苦しくなる。まるで見たくない事実を突きつけられたような、否定しがたい正義を押し付けられたときのような……そんな重い気持ちになるのだ。
仁威だけではない、侑生のこともそうだ。
あの夜、侑生から与えられた執拗な口づけの意味もいまだに分かっていない。
当事者である自分が分からないということは、侑生本人に伝えるほどの情熱がないということではないのか。二人の枢密院事も言っていたではないか。男は欲望によって動くことがあるのだ、と。
恋愛経験がない珪己にとって、侑生と仁威、この二人の青年からの突然の口づけは、考えれば考えるほど、まるで自分を軽視しているようにしか思えなくなっていた。
本来、口づけをかわす相手にはしかるべき敬意をはらうものではないか。それなしでは愛を語ることなどできないのではないか……?
(ああでも、私には恋も愛も分からない……)
(口づけにもいろんな意味があるってことすら知らなかったのに……)
だが珪己にもこれだけは分かっていた。口づけによってこの二人の青年との関係が変わってしまったとことを。それも悪い方向に、だ。
(あの二人はそうなるということを分かっていてしたのかしら……)
それは珪己が認めたくないことだった。それはつまり、二人は珪己との関係に価値を見出していないということの証にもなるからだ。
だが珪己はこの二人のことが好きだった。憧れる資質をいくつも有する二人のことを尊敬していたし、信頼もしていた。今でもだ。あんなことがあっても、今でも二人のことが好きだった。だからまだ出会って間もなくても、二人とはいつまでも共にいられると思っていた。いつまでも共にいたいと願っていた。
(でもそれも私だけの勝手な思いだったんだろうな……)
そして痛烈に思った。
(ああ……! 私って一体何なんだろう)
(私には価値がないのかもしれない)
(一緒にいたいと思えるような人間ではないのかもしれない)
(……私は駄目な人間なのかもしれない)
一度気づくと、もうその思いは打ち消すことができなくなって――。
ひゅるひゅると伸びた蔦のように、心を包み、縛り、そしてじんわりと締め付けていく。一度捕獲されれば逃げることなどかなわなくなる、負の感情――。
悲しい。
その思いが突然にして珪己の心を支配した。
そう、悲しいのだ。自分と同じ思いを二人が抱いていないことがひどく悲しいのだ。