5.黒太子の思惑とは
今日という日が充実していた珪己は知る由もないが、珪己がよく知る枢密院所属の官吏らは日が落ちた今も胸中穏やかでなく過ごしていた。
今日は朝議は執り行われなかった。調印式の翌日であり、昼前には芯国関係者を送る参列が始まるとあって、それは以前から分かっていたことではあった。玄徳はそれを承知で、早朝のうちに黒太子・龍崇宛に謁見を願い出ていた。龍崇は合理的であり理知的であるから、昨日の今日でなぜ玄徳が急な謁見を要求しているか、当然理解しているはずだった。
が、期待していた返答はなかなかこなかった。普段であれば、議題の大きさに沿う早急さで返答がくるのだが、今日は違っていた。
やや焦れた想いで、それでも『いまだ芯国に関することで多忙なのかもしれない』『返答が遅れているのは逆に問題とはならない証拠』と現状を推測しつつ目の前の仕事をこなしていると、待望の連絡が昼過ぎになってようやく届いた。
そして玄徳が龍崇の部屋に入ったのは、指定された時刻、すでに夕方であった。
龍崇は玄徳を見るとほほ笑んだ。それは普段の龍崇らしい、皇族然としていながらも親しみを感じるもので、玄徳は内心ほっとした。頭では分かっていても、やはり娘のこととなると、小さな不安すらも気になるものなのだ。
「楊枢密使が私に訊きたいこととは、娘御の華殿への入殿のことだね」
「はい、そのとおりです。親としてもですが、警備上のことも含めて、私はこの件をよく理解する必要があると考えております」
「そうだね、確かにそれはもっともだ」
そう言って龍崇が語ったことは、玄徳を十分納得させるものだった。
玄徳はこの謁見を終えた後、自室に呉隼平と高良季を招いて同じ話をして聞かせた。二人の枢密院事は静かに玄徳の話を聞いていたが、いつしか難しい顔となり、すべてが語り終えられる頃にはその険しい顔を隠さなかった。
「……なんというか」
良季が眉をひそめると、隼平もまた同じような表情をして腕を組んだ。
「なんだか話がきれいすぎて違和感がありますね」
「君たちもそう思うかい?」
問われ、隼平と良季がうなずいた。それに玄徳は表情を和らげた。
「そうなんだよね、私もそう思った。黒太子はこれまで枢密院に対して誠実な対応をしてくださっていたから、疑いたくはないのだけど……。だけど謁見する前に君たちから昨夜の話を聞いていたから、どうしても黒太子の話をまるごと信じることができなくてね」
「……しかし、どこをどう疑うべきかが我らにもはっきりとはしません。それに」
良季の言葉を玄徳が正確に継いだ。
「それに相手は皇族だからね。疑惑をもつ相手としては限りなく危険だ」
言い難いことを代弁してもらったことで良季の顔がやや安堵したものになった。しかしその重い事実にすぐ口元を引き締める。そう、危険な疑惑をこの三人は今共有しているのだ。官吏であればこそ、その危険性が実感を伴って理解できてしまう。
それでも、三人はもっと崇高な意識を共有していた。それは知性や理性を超えた人間らしい感情によるもの――官吏としての己を超えたところにある自意識だった。だから三人のうち誰一人としてこの会話を中断しようはしなかった。
しばらくの沈黙ののち、隼平が口を開いた。
「……何のための工作だとお考えですか?」
黒太子が何のために枢密院を謀ろうとしているのか――。
玄徳が申し訳なさそうに首を振った。
「それは私にも分からない。ただ、この件に芯国の重臣がからんでいて、なおかつ皇帝陛下の御為になることなのだろうとは思う」
「なぜそこに皇帝陛下が? 黒太子自身のためではなく?」
「いいや、黒太子は自分自身のためだけにこのような作為的なことをする方ではない。君たちは知らないだろうけど、黒太子はね、皇族の理想像を具現化したような清廉な方なんだよ」
「清廉……ですか」
「うん、君たちの疑問も無理はない。君たちが昨夜黒太子に会ったときに感じた彼の方はそうではなかったんだろう?」
「……ええ」
すると玄徳が言った。
「黒太子が保守すべき己の姿を容易に崩すときがある。それは皇帝陛下が関わることにしかない」
断言し、さらに玄徳は続けた。
「黒太子は成人になられてからこの宮城に入られ、ある意味、突然皇族の一員となられた稀有な方だ。けれどそれから今日まで、皇帝陛下をお支えする第一の皇族として認められている。私も経緯までは詳しく知らないけれど、つまるところ、黒太子は自分を全面的に受け入れてくださった皇帝陛下に多大な恩義を感じておられるようでね。少し言い方を変えると、皇帝陛下のために己自身を懸けていて、信義のためであれば己の何もかも、たとえばその清廉な心ですら捨ててよいと思っている、そういう方なんだよ」
「……それはまた」
絶句する良季に対し、隼平が「でも分かるかも」とつぶやいた。何やら考えるふうな顔をしていたが、やがて真っ直ぐに玄徳を見やった。
「はい、確かに私が見た黒太子はそのような方でした」
「おいおい隼平、あんな短時間で本当に分かるのか。分かったふりをしているだけではないのか」
良季のたしなめる声にも隼平が揺れることはなかった。
「いいや、たぶん合っている。うん、あの方はそういう方だ。……ああ、しまった!」
突然隼平がその頭をつかみ、やおら叫んだ。それがあまりに突然のことだったので、さすがに残る二人も驚いてしまった。
「どうしたんだい?」
玄徳に問われ、正気に戻った隼平があたふたとする。が、玄徳はそのままじっと隼平を見つめ続けたので、隼平は観念して白状した。
「……いえ、昨夜の黒太子のことを思い出していたら、近衛軍の第一隊隊長のことを思い出してしまって」
「第一隊? 袁仁威がどうかしたのかい?」




