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2.夕暮れの湖で

 良季は隼平にとって初めてできた友だった。


 良季はあの暴言を吐いた客の一人息子で、この辺りでは有名な貴族の嫡男だった。その日、良季はしぶしぶ母に同伴していただけだった。が、それからは良季一人でちょくちょくこの寺に来るようになり、隼平と一緒になって寺の仕事を手伝うようにもなる。そんな良季を呉坊は他の子供たち同様に静かに受け入れた。


 そして良季は隼平を学問の世界へと招待した。


 はじめは良季の見よう見まねで、そのうち真剣に学問に取り組むようになった。


 きっかけは良季の一言だ。


「知ってるか? 科挙に合格して官吏になれば将来は安泰なんだぞ」

「良季も官吏になるのか?」

「ああ。だけど私は金や名誉が欲しくて官吏になるんじゃない。家を出たいんだ」


 聞けば、良季はこのままいくと父の跡目を継ぐことになり、一生をこの土地で過ごすことになるのだという。それを回避する唯一の方法は、官吏になること。この時代すでに、古参の貴族以上に実力主義に則る官吏のほうが社会的地位が高かった。


「母親が苦手でな」


 そういう良季の気持ちは隼平にも理解できる。ちょっと贅沢だとは思うが、暗く陰ったこの友の表情を見ると、血の繋がりがあるからといって好きになるとは限らないものなのだと分かった。


「なあ。お前けっこう筋いいし、一緒に科挙を受けて官吏にならないか」


 その誘いに隼平は少し考えた。


「でも俺、頭良くないから」

「それは違うぞ。学問は天才だけのものじゃない。努力すれば大抵の奴にはある程度は理解できるものなんだ。だがな、その努力することが難しいんだ。でもって隼平、お前はそれができる奴だよ」


 熱く語る良季にやがて隼平が問うた。


「……官吏になればたくさんお金をもらえるって言ったよな?」

「ああ」

「自慢できることなんだよな?」

「そりゃあもちろん」

「……だったらなる。俺も官吏になる!」



 *



 そう決意してちょうど十年で、晴れて二人は官吏となる。同じ年に科挙に合格し、揃って枢密院すうみついんに配属されることが決まった。


 隼平は合格通知を懐に入れ、喜び勇んで久方ぶりにその寺へと戻った。科挙の試験は一次は地方の都市で、二次は首都・開陽かいようで執り行われる。隼平がこの試験のために寺を出立し、一次を終え、二次を終え、その結果が出るまで開陽に滞在し、そして戻ってくるまでにすでに半年以上たっていた。


 たどり着き、唖然とした。


 寺の門は無残に砕け、原型をとどめていなかった。あれほど騒がしかった子供たちの気配を感じられなかった。門の向こう、本殿のほうからはなぜか無しか感じられなかった。


 何も考える間もなく、気づけばその足が動いていた。


 門を抜け、石の階段を駆け上がり、本殿に入り――そこにある何もかもが破壊されており愕然とした。


 奥のほう、祈りの源であるささやかな掛け軸は引きちぎられ、だらりと垂れさがっていた。神々の顔が、体が、容赦なく切断されていた。元々ひび割れていた花瓶は木端微塵に砕けていた。壁や床にはいたるところに深い傷があった。ところどころに茶色く変色した血の跡があった。


 誰一人いなかった。


 荒らされた跡だけがそこには残されていた。



 *



 それからまた記憶がとぶ。


 気づけば良季がすぐそばにいた。黙ってすぐそばにいた。


 二人は湖のほとりで、夕暮れに染まる水面が涼風に揺れ動く様を黙って眺めていた。二人のかたわら、背の高い木の下には、いくつもの石が並べられていた。その数はあの寺からいなくなった者たちの人数に等しかった。野菊だけが寄り添うように、群れるように咲いていた。


 隼平の手には合格通知の紙が握りしめられていた。だが、もはやこの結果に喜んでくれる人はいない。


 隼平の目からは静かに涙が流れ落ちていた。


 頬に、顎に、絶えることなく涙が伝っていく。


「呉坊さん……」


 その人の言葉がよみがえる。


『では隼平や。もしもずっと生き続けることができたらどうする? いつまでも老いることなく生きられるとしたらどうする?』


 ほほ笑む顔が今でも瞼の裏に焼き付いている。


「呉坊さん、俺は答えを失くしてしまいました……。これからいくら名をあげても、富を得ても、もう呉坊さんに、みんなに喜んでもらえないのなら……」


 ずっとずっと見ていたかった笑顔。もっともっと笑顔にしてあげたかった。


 呉坊と、呉坊を取り囲むみんなの笑顔。


 いつまでも一緒にいられると思っていた。


 だから俺は。


 なのに――。


 すると良季が隼平の腕をつかんだ。


「いいや違う、それは違うぞ!」

「……何が違うっていうんだ! だってもう誰もいない。もう死んでしまったんだ、死んでいなくなってしまったんだ……!」


 まだ言い募ろうとする隼平を良季が力強く遮った。


「違うぞ隼平! 人は死んでもいなくなんかならない!」


 良季は隼平に向かい合い、その強い瞳で隼平の瞳を食い入るように見つめた。


「体が失われても、呉坊さんはずっとお前のそばにいるじゃないか! お前の中にいるじゃないか!」

「きれいごとを言うな!」


 振りほどこうともがく隼平に対して、良季は掴むその手に力を入れ、強引に自分に向き直させた。そして両手でぐっと隼平の腕を掴んだ。


「いいかよく思い出せ。お前はずっとこの寺にいて、あの人から何を得た? あの人がいなくなったらそれは消えるのか? そんな軽いことばかりだったのか? 違うだろう、お前は今こうしてここにいる。今ここにいるお前こそがあの人がこの世にいたという証で、お前をとおしてあの人はこの世に生き続けることができるんじゃないのか」


「俺を、とおして……」


「そうだ。お前こそがあの人の一部だ」


 二人はじっと見つめ合った。良季はその瞳でもって、己が信じることを隼平が理解するまで語り続けた。隼平もまた、探りながら、否定しながら、良季の言葉を聞き続けた。


 やがて隼平の体から力が抜け、その顔が泣き笑いの表情になった。


「……なあ、だったら今言っていいかな。ずっと言いたかったこと、言ってもいいかな」


 良季が答える前に、隼平がその瞳をそっと閉じた。


「呉坊さん、ありがとうございます。あのとき呉坊さんが俺の手を取ってくれて、すごくうれしかったんだよ。俺を助けてくれて、本当に……本当にうれしかったんだ。なあ、呉坊さんに聞こえたよな。……聞こえたよな?」


 開かれた隼平の瞳には、涙と、呉坊の残した清い心が見えた。


 たまらず良季は天を仰ぎその両の目を閉じた。拳をこれ以上にないほど握りしめて。


(なんて汚い奴だ。私に跡目を継がすことができなくなったからと……!)


 良季は言えなかった。寺の者たちを虐殺したのはどこぞの強盗だと噂されていたが、その実、強盗に見せかけた良季の母による結果だということを。


 良季は科挙を受けることを親族の誰にも言っていなかった。が、今年一次試験に合格したところで、試験会場に貼り出された姓名からその秘密が公のものとなった。あの手この手を使って良季を家へと戻そうと画策されたが、良季はそれらのすべてを無視して隼平とともに開陽へと入った。背水の陣、だが良季は二次試験にも合格し晴れて官吏となる道をひらいてみせた。が、その結果は早馬で家へと伝わり、そして腹いせにこの虐殺が実行されたのだった。


 勘当されるつもりで最後にと、隼平と別れて実家の敷居をまたいだ良季は、そこに意味深な笑みを浮かべる母を見つけた。


「実の息子が母に逆らって生きるなど、この世の理に反する不届き者よ。さあ、あの寺へ行きなさい。己の罪をその目で見てきなさい」


 隼平の母は思い込みが激しく直情的で、しかもやっかいなことに自己欲を満たす財や権力を有する女だった。自己愛ばかりが強いこの母に、良季は一度も愛しさを感じたことはない。息子である良季のことも自分の所有物のごとく扱う母だった。


 跡継ぎを失った原因が、隼平に、この寺にあると良季の母は考えたのだろう。


 だが決定的な証拠はない。


(いつか私自身の手であの女を罰してやる。隼平のためにも、絶対に……絶対にだ!)


 良季はこの夕暮れに染まる景色に誓った。


 この目の前に広がる湖と、連なる山々の頂きと、緋色の空に固く誓った。

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