3.これが私だから
今、群衆から離れて、珪己と清照は茶館に来ている。先ほど昼食をとった屋台とは異なり、ここは上品な一級店だ。李家の格式もさておき、今日のように見事な装いをした清照にはこういう店でないと違和感がある。逆に珪己は一般人じみた装いのせいでだいぶ浮いてしまっているが。
この店に来る前に、珪己は浩托と清照にお互いを簡単に紹介した。浩托は清照と目があうや、顔を赤らめ、目を泳がせ、あきらかに挙動不審な様子になっていた。清照のほうは格式ある家の人間らしく、この紹介された一回り年下の少年に対し、余裕のある艶やかな笑みを浮かべていた。
しかしこの後、珪己はやや強引に清照に誘われ、そのため浩托とあわただしく別れるはめになり――そしてこの店へと入ったのである。
座るや否や、清照がはああっと盛大なため息をついた。もうそれは李家でよく知る粗野な清照だった。
「珪己ちゃんはああいう初々しい感じの子が好みなの?」
「え?」
すると清照は机に片肘をつき、両手に顔を載せてじっと珪己を見つめてきた。
「なんか仲よさそうだったじゃない。だけどあの子、私にも見とれちゃってたわよ。そういうさ、女を外見で判断するような男はやめなさいよね」
「ええっ? 違います違います。浩托はただの友達です!」
清照は珪己が力強く否定するのを束の間眺めていたが、やがて安心したように笑った。
「そっか。そうよね。……でも侑生とはどうなってるの?」
その名に珪己の胸がずきっと痛んだ。
珪己の表情の変化に清照がその目をやや細めた。
「あの子、最近帰りが遅いし、たまに顔を合わせてもなんだか思いつめたような暗い顔をしてるのよ」
ため息まじりに清照がそんなことを言い出した。
「侑生が皇帝陛下と珪己ちゃんを奪い合ったって聞いてね、確かにその前後から侑生が楽しそうにしてたから、今度こそは本当に真剣な恋をしているんだなって、そう思ってたの。でもなんだか……」
「今度こそって……やっぱり侑生様は恋多き方なんですね」
思わずといった感じで珪己の口からこぼれ落ちたそれは、本人の予想以上にとげがあった。それに気づき、ぱっと清照が体を起こした。
「もしかして侑生のそういうところが嫌になっちゃったの?」
見つめてくる清照の瞳には、先ほどまでと違い、肉親の素行に対する申し訳なさと女性特有のいたわりがあった。その瞳を見ていたら、珪己は自然と自分の心情を吐露していた。
「……侑生様がすることが私には理解できないんです。手慣れているし、何かあったらそういう雰囲気を作ってごまかそうとするし。だって侑生様ったら、自分の失敗をごまかすために、あんなこと……!」
つい激高のまま話してしまいそうになった口を急いで両手で押さえ、そして珪己は恥ずかしい思いで頭を垂れた。
「……その、つまり、そういうことを簡単にできるところとか、私の気持ちを全然考慮してくれないところとか。……そう、私のことを全然大切だと思っていないような、そういう軽い扱いがなんだかすごく嫌で……」
保身のためにあの夜の件について口止めを望むのは、まあ仕方ないことだとは思う。けれど、謝罪をするのなら、真摯にそれだけを実行すればいいのだ。わざわざ抱きしめたりしなくてもいいのだ。
だが、その行動を選択した理由もなんとなく察しがつく。つまり、自分がそういうことに初心であると、あの夜の口づけで侑生が気づいているからだ。そうに決まっている。それはつまり、自分のことを軽んじているということだ。
もう一度珪己はため息をついた。なんだかもう侑生との嘘の関係を維持することが馬鹿らしく思える。もとは龍崇の提案だというが、さすがにこの侑生の姉に対しては撤回してもいいように思えてきた。
(今度華殿で会ったら龍崇様に報告しよう。……そのほうが侑生様も喜ぶだろうし)
「だから侑生様とはもう、そういう関係でありません」
覚悟を決めて断言すると、清照が悲しげにその柳眉をひそめた。
「……そうなんだ。うん……そうね。そう思うのが当然よね。……でもちょっと残念だな」
「え?」
「姉の私が言うのもなんだけど、侑生ってとってもいい奴なのよ? すごく真面目だし、優しいし。うん、確かに女の子には本当の意味で優しくないし誠実でもないけど、でもそれはきっと本物の恋をしていないからだって、そう思ってたの。だから珪己ちゃんとの恋は、絶対に侑生を変えるし、そうなったら侑生は誠心誠意珪己ちゃんに尽くす、そう信じてたのよ……」
最後は消え入りそうな声でそれだけ言うと、清照は弟によく似たその切れ長の目を伏せた。
「なんでこんなふうになっちゃったのかなあ、あいつ……」
深いため息とともに、清照はこの弟について思いを馳せていった。
武芸が好きな活発な少年――それが清照がずっと見てきた侑生の姿だった。
黙って家族の談笑に付き合うことも得意な反面、じっとしていることは苦痛だったようで、武芸書を読む以外のことでは机に向かう姿を見た記憶がない。それゆえ勉強面に関しては親ですら早々にさじを投げていた。
当時の色恋は、女の方から誘われればついていく、そんな程度のものだったはずだ。だがそれは李家の格をもってすれば、世を謳歌するための男の嗜みとも言えた。
だから、武官を志すほどに武芸に心酔したことは予想外だったが、このまま成長して『そういう一般的な大人』になるのだろうと、誰もがそう予想していた。それが李侑生という少年だった。
しかし八年前の夏を境に侑生は変わってしまった。突然武官を辞し、科挙を受けるなどと無謀なことを言い出し、しかし短期間の勉強で一位及第してみせるという超人的な結果を叩き出して周囲を心の底から驚かせ――。
それからは緑袍、緋袍、紫袍と、とんとん拍子に出世していった。それとともに、少年らしい雰囲気は影をひそめていき、入れ替わるように成熟した男へと変貌していった。物腰は洗練された落ち着きのあるものとなり、仕事にあけくれ、官吏の鏡の如き男となった。
さらに、侑生は幾多の不特定の女人と関係を持ち始めた。姉の清照ですら、ふとした仕草に垣間見えるこの弟の色香にどきりとするほど、その方面の素質までもが一気に開花したのだ。侑生は流した浮名の数々を恥ずかしることなく、また姉である清照にも隠すことはなかった。
そんな弟を、しかし清照は黙認、いや、放置してきた。男が成長するということはこういうものなのかもしれないと思っていたし、また、自分にとっての切実で大きな問題を抱えていたためでもある。幸い、実家はここ開陽から遠く離れており、親兄弟の誰もいまだこの弟の素行を耳にしていないようだが……。
と、珪己がつとめて明るい声をかけてきた。
「ところで清照さんは今日はどうされたんですか? とっても素敵ですね」
「そう? いつも素敵だとは思うんだけど。でも今日は特別だったから」
「というと?」
「ふふ、仁がさっきの参列に同伴してたの」
「……ええっ! 仁さんが?」
珪己は必死で思い返した。確か前に侑生が言っていたことによると、その仁という男は今は土にまみれるような仕事をしているはずだ。であれば工部の官吏かと思っていたのだが……違っていたのか。だが今日の参列に工部の出番などあるわけがない。
仁さんは今はどこの部に所属しているんですか、と尋ねようとして、それは物想う清照によって遮られた。
「でも、昨日の入城の様子も見に行ったんだけど、何度呼びかけても無視するし、ようやくこっちを見てくれたと思ったらなんだかすごく嫌そうにされたのよね。……まあでも仕方ないのよ。もうこの恋は終わりにするって、そう本人にも言ったのに、いまだに未練たらたらで……こんな恰好までして」
清照がややおどけるように両の袖を持ち上げた。鮮やかな紅の華が、目も覚めるような水色の絹の上で凛と咲き誇っている。見るからに特別な仕立てによる衣だ。
「自分でもよく分かってるのよ。もうこの恋はかなわない、あきらめるべきだってね。私ももう疲れたし、仁は私のことは好きじゃない。この先も好きになってもらえるとは思えない。この恋に未来なんてないのよ。……だけど、気づけば胸の中に仁への想いがあふれてくるの。それを詩にして、何編も詩にして、それでも飽き足らずに想いがどっとあふれてくるの。詩集もね、ようやく完成のめどがついたのよ。ぜんぶ仁への恋心をつづった詩なの。そしたら次はどうしても仁に会いたくなったの。仁の姿を見れるって知って、そしたら遠くから一目でも見たいって思った。もしも私の姿を見て少しでも心を動かしてくれたらって……」
清照が袖を降ろし、膝の上でぎゅっとその細く白い指を握った。
「……でもだめだった。元々、仁は女の見かけに惑わされるような男じゃないし、そういうところを私は好きになったんだから。……でも、そういう男だって分かってても、私が誇れるところなんてこれくらいしかないし。……これが私だし」
「清照さん……」
「……ああ。仁が振り向いてくれるのなら、いくらだって宝石を身に着けるのに」
清照の指が、手首に幾連もはめられた腕輪をつつっとなでた。その一つを飾る大粒の翡翠が、店内に差し込む一筋の陽光に淡く照り輝いた。
「でも、今日なんて姿を見ることもできなかったわ。だって、いくら着飾っても心配だったのよ。それで家であれやこれやとやってたら、来るのが遅れちゃってこのざま」
自虐的な笑みを浮かべた清照が、「ああ、でも!」と大きな声をあげた。
「もうこれでおしまいにしろって、そう神様が言っているのかも。私が何をしても駄目なのよ。きっとそう。そうなのよ」
そう言う清照の表情が、なぜか昨夜の侑生に重なって見えた。珪己はその考えを振り払った。気づきたくない、そう思った。……そう思ってしまった。
すると、清照が珪己ににっこりと笑ってみせた。
「はい、これでもう湿った話はおしまい!」




