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7.伝えたいのは、愛だけ

「今度の華殿滞在は一か月くらいになりそうです。ですが菊花姫にお会いするのは楽しみですし、近衛軍将軍との稽古に参加させてもらえるそうですし、以前女官をしていたときよりもよっぽど充実した滞在になるんじゃないかなって思うんです」


 耳に入る珪己の声は明るくはずんでいる。

 それを感じた侑生の胸の内にはじわじわと闇が広がっていく。


(珪己殿はやはり知らされていない……)


 龍崇は言った。珪己が妃候補となったことに本人の意思は無関係であると。そのとおり、龍崇は珪己に余計な情報を与えていないのだ。おそらく少女の父でありこの国の二府の長官の一人である楊玄徳にも、その時がくるまで言うつもりはないのだろう。


 しかし侑生がその事実を漏らしたところで、皇族の決意を打ち砕くことは不可能だ。それが分かっているからこそ、龍崇は侑生にすべてを暴露している。


 今ここで言うべきか。言わざるべきか。


 理性で考えれば……言うべきではない。言ったところで何も変わらない。


 逆に暴露すれば、この少女が必要以上に苦しむことになるだろう。あらがえない道を強要されていると知るよりも、何も知らずに自由にふるまっていると信じていられるほうが、人は幸せに生きられるのではないだろうか。たとえそれが有限の世界、籠の中だったとしても――。


 それに珪己はすでに皇族に気に入られているようである。いわゆる政略結婚ではなく、幸せな生活を送る未来がそこにはあるのかもしれない。もしそうであれば、玄徳も親としてこの件に反対をとなえる理由はなくなる。


 ただ一つ、問題があるとすれば――。


(そうだ、私のこの心だけが問題なのだ。この行き場のなくなった心だけが……)

(であればこの心を押し殺せばいいだけのこと。それですべては丸く収まる……)


 その考えに、侑生の足がぴたりと止まった。


(これではいつもの私と変わらないじゃないか……! 自分以外の何かを優先し、そのために自分自身を削り続けて……それではこれまでと同じじゃないか!)


 玄徳は言った。


『私は君には自由に生きてほしいんだ』

『君は自分の価値をもっと信じなさい』


(……いいのだろうか?)


 ゆっくりと侑生は振り返った。目の前を歩く侑生が突然その足を止めたことに、珪己が驚き口を閉ざしている。こちらの様子をうかがうように見上げてくる愛しい少女を、侑生はその切れ長の瞳でじっと見つめた。


(玄徳様よりも、皇族よりも、国の安寧よりも……この恋を優先してもいいのだろうか?)


 恋とはそれほどに価値のあるものだろうか。

 人はどこまで自由に生きていいものなのだろうか。


 しかし侑生の思索を中断させるがごとく、龍崇の暗黒の声が頭の中で幾重にも響いた。


『皇帝陛下の妃とする』

『これより楊珪己に手を出す者がいれば私が罰する』

『君の不手際は上司である楊枢密使の不手際ともなる』


 ――君にできることはその恋を捨てることだけだ。


(この少女への恋を捨てる?)


「……侑生様?」


 気づけば、侑生は珪己を抱きしめていた。


 先ほど狂おしく望み、しかし打ち消した欲望そのままに、珪己のことを抱きしめていた。


 抱きしめれば、あの道場での夜のようにとたんに迷いが消えていく。この温もりにいつまでも触れていたい、ただその願いだけが胸の内にせりあがってくる。


 感情は動作に正確に反映され、抱擁する侑生の腕に力が込められた。


 珪己は突然のことに驚き、そして痛みと息苦しさを感じた。武芸者として、いや生物としての本能でその腕を振りほどこうとしたが、大の男相手ではまったく緩む気配はない。


「侑生様、く、苦しいです」


 侑生の紫袍に焚き染められた白檀が濃密に香る。あの夜のことを連想させる香りだ。しかし侑生はその顔を珪己の肩に乗せ、頬を寄せ、余計に力を込めただけだった。


「侑生様……!」


 大声を出してはまずいだろうと、小さい声で、しかしできるかぎりきつい口調でその名を呼ぶと、侑生の体が小さく震えた。


「……私はあなたに会いたかったのです」

「え……?」

「あなたに会いたかった……。あ、会いたくて、会いたくて……。どうして今日まで会わずにいられたのだろう……」


 一瞬、力は弱められ、しかしまた込められた。侑生の体の震えが大きくなった。


 侑生は泣いていた。


「あの夜から、あなたのことをずっと考えていました。ずっと……ずっと考えていたのです。あなたになんて言うべきか、どう謝罪すべきか、い、色々、考えていたのです……」

「侑生様……」


 抵抗をやめた珪己に、侑生もまた腕の力を抜き、その涙に濡れた頬をそっと寄せた。


「珪己殿……」


 あなたのことを愛している。


 愛している。


 もうそれしか言葉が浮かばなかった。

 それだけを伝えたかった。


『あなたのことを愛しています』


 その一言を、今、伝えたい――。


 すると、抱きしめられたままの珪己が侑生の背中にそっと触れた。


「侑生様、大丈夫です。父様には言いませんから」

「……え?」


 思わず体を離すと、当の少女は予想だにしていない複雑な表情をしていた。困惑、それに加えてやや怒り、苦笑――なぜか納得したような顔。


 珪己が繰り返した。


「侑生様、大丈夫ですから。父様には言いませんから。安心してくださって大丈夫ですから」

「……え?」

「え、違うんですか? あの晩のことを父様に告げ口されたら困るなあって、それで悩んでいたのですよね。うん、侑生様は父様が大好きですもんね。それに枢密副使ですし、枢密使の父様に怒られでもしたら大変だって怖くなっても当然です」


 珪己は侑生の涙に濡れた瞳、そして頬を見て苦笑した。


「涙を拭いてください。宮城の中だっていうのにそんなふうに泣かれるなんて、よっぽど心配だったんですね。でも本当に大丈夫ですから。絶対に父様には言いません。約束します。……これでもう泣かないでくださいね?」

「珪己殿……!」


 違う、違うんだ、と言い募ろうとして、しかしそれは失態を指摘されてあせる馬鹿者のようにしか見えなかったらしい。


 珪己は侑生の腕から抜け出すと、


「あの日のことは忘れますから、侑生様も忘れてください。今このときをもって忘れましょう。……ここからはもう私一人で行けます。それでは」


 それだけ言うと、さっと侑生のそばから離れ、角を曲がって行ってしまった。曲がった向こう、真っ直ぐ歩けばもう正門は近い。


 侑生は去りゆく少女の背中に思わず手を伸ばしかけ、その指先が珪己の髪を飾る長い細布に当たり――しかしそれだけで震えてしまい、その手を即座に引いた。



 今度こそもう何も言葉が出てこなかった。

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