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1.出会い

 いつでも空腹だった。


 ほんの少しでもおこぼれをもらいたくて、いくつもの食堂の裏手を意地汚く徘徊していた。それが隼平しゅんぺいの中にある最古の記憶である。


 口寂しさにいつも何かを咀嚼していた。草の根だったり、木の皮だったり、どこでも手に入るものだ。そうすれば口内に唾液が溢れて、それが当時は極上の甘味に感じた。腹におさまるものを入手できなかった日は、決まって湖のほとりで木の下に座り、手近にあるものを湖水で洗って口に入れ、くちゃくちゃと噛みながら、暮れゆく空と向こうの山々を眺めていた。


 親はいない。どんな奴だったかも知らない。


 あの万年雪を頂に冠する山々の向こうにどんな世界があるのか。


 あの冷え冷えとした湖の底に何があるのか。


 他に知らない。


 何も知らない。


 だからずっとここにいた。


 この狭い土地だけで命の糧を探し続けた。



 *


 

 次の記憶は一人の僧侶との会話にまでとぶ。


「さあ坊主、共に来い――」


 これ以上はないというほどの耐えがたい空腹にぼんやりとした視界の中、突如差し出されたその手だけが、やけにまばゆく見えた覚えがある。そして気づけばその寺に住んでいた。


 今なら分かるが寺とは玉石混合で、隼平は運のいいことにもっとも希少な玉を引き当てたのだった。生まれの不運さのつり合いがここでようやくとれたのかもしれない。首都から離れたこの貧素な土地では、ほとんどの寺は、銭儲けに精を出したり政治に介入したりで、人々を救うこととかこの世の理を追及することなどとっくに放棄していた。だが隼平が住むことになったその寺は違った。孤児を養い、飢える者には施しを与え、貧しい者のためにこそ経を唱えるような、模範ともいえる寺だった。


 そしてその寺の僧侶は、世間ではまだ珍しい女人だった。


「隼平や。お前は死ぬのはこわいか?」

「それはこわいです、ぼうさん」


 その夜、なぜか二人だけで縁側に座り語っていた。月は空高くに輝いていたから、おそらく夜中に目が覚めてしまい外に出たところでこの女僧――皆は親しみを込めて呉坊さんと呼ぶ――に出くわしたのだろう。月だけではなく星もきれいな夜だった。向こうに見える湖からその反対側の山々まで、どこもかしこも大粒の星で満ち溢れていた。


 真夜中だというのに、暗黒の空はこれ以上はないほどの光で満ちていた。


 そんな中、この女僧はなぜ幼き拾い子に門答をはじめたのか。


「なぜこわい」

「なぜって、死ぬのは苦しいことだからだよ」

「なぜそれを知っている?」

「だって、何日も食べられないとすごくここが苦しくなるよ」


 隼平はそう言って腹のあたりをさすった。


「苦しいのが嫌だから食べるの。そんでもって、きっと死ぬ直前ってもっと苦しいよ。だから僕、がんばって食べられるものを探すんだ」

「ここに来るまでもそうだったのか?」

「うんそう。ここに来るまで、僕は毎日食べ物を探してた」


 呉坊はやや目を細めて隼平を眺めていたが、やがてほほ笑んだ。


「では隼平や。もしもずっと生き続けることができたらどうする? いつまでも老いることなく生きられるとしたらどうする?」

「食べなくても?」

「そう、食べなくても」


 隼平は縁側で足をぶらぶらとさせながら、それでもこの命の恩人のために一生懸命考えた。だがやがてさじを投げた。


「うーん、分からない」

「なぜ分からない」

「だって僕、いつでも食べ物のことしか考えたことがなかったから。食べ物のことを考えなくてよくなったらどうすればいいのか分からないよ。ねえ呉坊さん、そしたら僕はどうしたらいいと思う?」

「さあ? どうしたらいいんだろうねえ。だがな、生きることも死ぬことも同じだよ。どちらも同じなんだ。食べようが食べまいがかまわないと思うこと、それがお前の中にもきっとある。……なあ、お前にもいつかそれが分かるといいな」


 呉坊はそう言って、そして隼平を抱きしめた。


 そう言って抱きしめてくれたから、隼平はその答えを知った。



 *



 寺には常時二十名近い養い子がいて、誰かが巣立てば別の誰かがやってくるような状況だった。その子供たちのための食糧のほとんどを、唯一の大人である呉坊が自ら畑を耕して育てていた。その顔は常に日に焼けそばかすだらけだった。剃髪した頭は潔いくらいにつるりとしているのに、その両手は乾き荒れ、爪は痛々しくひび割れていた。


 ひもじい経験の反動で誰よりもたくさん食べてしまう隼平に、呉坊は嫌な顔一つしなかった。いつもほほ笑みを絶やさないその女性――年齢は訊いたことがないから分からずじまいだ。


 大食漢の所以だろう、数多い孤児の中でもひときわ巨体となった隼平は、毎日、寺のために、呉坊のために精を出して働いた。畑仕事はもちろん、水汲み、洗濯、掃除、幼児の世話まで。朝から晩まで働きづめ、よく食べた結果、隼平はまだ少年であるというのに大人に近い立派な体躯となっていた。


 その日、寺を訪れた訪問客の女が、庭を掃き清めていた隼平をちらりと見て吐き捨てるように言った。


「なんなのあの子。体ばかりが大きくて頭のほうはてんで駄目ね」


 その女は隼平の足元、落ち葉があちらこちらに散らばっている様を見て笑ったのだった。


 先ほどから隼平は時間をかけて一心不乱に落ち葉をかき集めていた。だがそれらは一向に言うことをきかず、あっちを掃けばこっちが、こっちを掃けばあっちが舞ってしまい、一か所に集まろうとはしなかったのだ。


 思わずへらりと笑ってしまった。


 するとその客はため息をつき、「やっぱり空っぽ」とつぶやいた。そして下手な笑顔を貼りつけたこの少年を残して去っていった。


「おいお前」


 その声があさっての方向から聞こえた。そちらを見ると、廊下の向こう側に、いつの間に現れたのか、隼平と同い年くらいの少年がいた。だがその少年は、隼平をまるで憎むかのように、忌々しげに見つめていた。


「はい何か」


 そう答えた隼平の顔には、いまだ嘘くさい笑顔が残っていた。


「お前、あんなふうに言われてくやしくないのか」

「え?」

「頭が空っぽなんて言われてくやしくないのか」


 一巡し、隼平は頭をぽりぽりと掻いてみせた。


「くやしくなんかないよ。だって本当のことだろ」

「なんで笑ったんだよ」

「だって怒ってるよりも笑ってるほうがいいだろ。呉坊さんはいつでも笑ってるんだ。俺はそういう呉坊さんが好きなんだ」


 その素直な物言いに、鋭利なその少年の瞳が見開かれた。が、やがてしばらくして、はははっと少年が笑い出した。


「お前いいなあ」

「そうですか?」

「お前のことが気にいった。名はなんていうんだ」

「隼平」

「姓は?」

「知らない」

「知らない?」

「うんそう。知らない。あ、そうだ。呉にするよ」

「なんだよ、呉にするって」

「呉坊さんと同じにする。俺は呉坊さんの子供みたいなものだから、これからは呉隼平と名乗ることにする」

「……そうか。私はこう良季りょうきだ」

「良季、様」

「呼び捨てでいい」

「良、季」

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