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5.生活を賭ける相手に恋をする

「ねえ、調印式が無事に済んだんですって!」


 鏡楼の三階の隅のほう、芸事に関わる女人の控える室にその一報が高らかに届いた。誰もの口から、思わずといった感じでほおっとため息が漏れる。職種を問わず皆が一丸となって頑張ってきた、その成果が報われた瞬間だった。


 やがて、わあっと女人らしい明るい歓声があがった。室内に笑顔という名の華が咲き乱れる。


「よおし、じゃああとは宴を完璧にやりきらなくちゃね」

「そうよ。私たちにできることといったら、歌って踊って楽しい場を作ることですもの」

「気合いいれてお化粧しなくちゃ!」

「あんたはもう十分に気合いが入ってるわよ。その唇にさした紅、濃すぎるのよ」

「なんですってえ?」


 なんやかんやと言いながらも、根本には明るい気分が満ちている。この場に己が芸事を披露する権利を有しているような者たちだ、今さら本番を前に緊張で震えるようなことなどない。それどころか、その心の変化をうまく転換して本番を成功させる糧にしてしまうすべを知っている。それは多くの場数を踏んできた彼女達だからこその才能である。


 とはいえ、ここにその才をかけらも有していない者が一人だけいた。それはもちろん、にわか楽士の楊珪己のことだ。珪己の手のひらにはいつの間にかじっとりと汗が浮かんでいた。


(うわあ……本番だって思ったら、なんだか急に不安になってきちゃった。芯国の人たちって耳は肥えているのかしら?)

(ああでも、芯国の人が分からなくても、湖国の上級官吏の方々にはきっと分かってしまうわ。それに龍崇様は琵琶にうるさいっていうし……)

(ああ、もし弾き間違えでもしたら最悪だわ……)


 部屋の隅のほうで椅子に座り縮こまったままでいる珪己に、一人の踊り子が気がついて話しかけてきた。


「あなた、大丈夫?」

「は、はい。大丈夫です!」


 力強い返答とは裏腹に目を泳がせた珪己に、その踊り子がぷっと笑った。そんなちょっとした仕草で、彼女の薄い布でできた衣裳がふわふわと揺れた。珪己よりも年上に見えるその踊り子は、すでに準備万端、舞台映えする特別な化粧を施した顔を妖艶に輝かせていた。


「全然大丈夫じゃないみたいね」


 指摘され、「すみません」とまた背を丸めたところで、その踊り子が珪己の背中をぽんと叩いた。


「ほら、早く化粧をして衣装に着替えないと。髪も結い直さないとだめよ」

「は、はい」


 そばに置いたままの紅の皿を手にとろうとして、震えた指が皿を揺らした。爪が当たって、ちん、と高い音が鳴る。すると、その皿がさっと取り上げられた。


「私がやってあげるわ」

「え」

「そんなに緊張していたら上手に紅もひけないわ。それに、紅の前にまずは白粉でしょ」

「……あ、そうですよね。すみません」


 踊り子が困ったように笑った。


「いいのよ謝らなくって。困ったときはお互い様でしょ? はいはい、お姉さんに任せなさい。あなた名前は?」


 てきぱきと白粉を用意しながらその踊り子に問われ、珪己が名を告げると、


「私は春燕しゅんえん。よろしくね、新人さん」


と、にこっと笑った。それはまさに国を代表する踊り子の一人にふさわしい華のある笑みだった。


 その美しさに心惹かれ、思考も動作も止まったその隙に、踊り子は意気揚々と手を動かし始めた。



 

 春燕の手によって美しい姿に変貌を遂げていく自分を鏡ごしに見ながら、珪己は信じられない思いでいる。昨晩、自室で独り練習した時とは比べ物にならない自分の姿がそこに生まれつつあった。


 隙のない肌の作り方も、幾重にも組み合わされた瞼への色使いも、珪己には思いもよらない手法ばかりだ。それは清照や江春によって女官らしく仕立て上げられた時のものとは随分違った。唇のための紅には珪己の持ってきた淡い色合いのものは用いられず、代わりに春燕の私物である深い赤が使われた。


「さすがにこれは……楽士にしてはやりすぎではないでしょうか」

「やりすぎなんてことはないわ」


 珪己の小さくも心からの抵抗にすら、春燕は手を止めない。化粧を終えるや、珪己の頭の上にささる数本の簪をはずし、髪紐をほどき、一つにまとめていただけの髪をほぐしていく。ほぐしながら器用に髪をいくつかに区分けしていく。それはもはや何かの術のようだった。迷いが一切ない。


「舞台ではこれくらいでちょうどいいのよ。大きな部屋で、夜の宴で、しかも楽士はその部屋の隅で演奏するんだから。これくらい濃くしないと誰にも顔を知ってもらえないわよ」

「え。別に知られたくないですし、演奏さえできればそれでもう……」


 すると、指に巻きつけていた髪の一房を、春燕がぐいっと引っ張り上げた。


「いた、痛いです!」

「そんなこと言ってどうするのよ。こんな機会はそうそうないのよ? ここで頑張らずにいつ頑張るっていうのよ!」


 鼻息荒く、その表情、そのままの手つきで髪を結っていく。その結い方もまた珪己の知らないものだった。


「いーい? 私達はいつまでもこういう仕事ができるわけじゃないのよ? いつかは結婚しなくちゃいけないのよ? でもって、できれば素敵な人と結婚したいでしょ。しかもその人が将来性ある文官様だったら素敵でしょうよ!」


 言いながら自分の言葉に酔いしれているようで、鏡ごしの春燕はいつの間にかにこにことしていた。それでも髪を結う手つきが止まることはない。


「でね。もしも……もしもよ? もしも皇族の方に見初められでもしたら、そりゃあもう最高じゃないっ?」


 春燕の熱い意気込みに、珪己は知り合って間もない幾多の女性を自然と思い出していた。清照や果鈴かりんおう美人びじん、他にも後宮にいた数々の女官のことを……。


 一つの恋に長い時を費やし、成就せずとも笑みを浮かべていた人。結婚に夢を見て闇に沈んでいった人。他人の愛をかなえるために命を燃やした人もいた。


 ほんの少しの思い出だけを糧に愛を持続させた人。直接話したことがなくても、遠目からだけでも恋心を抱いた人。一度も会ったことがない人に愛を抱いた人もいた。


 愛を知らないと言った人もいた。


 恋とは、愛とは何なのだろうか。春燕は仕事の次の糧として結婚について語っている。しかし相手は素敵な人がいいと言う。結婚相手に恋も求めているということだろうか。それは単純に見目の良い人と共にいたいということだろうか。心が通い合う人がいいということだろうか。素敵とは、一体何を指した言葉なのだろうか……。


 しかし、地位も財産もある人であれば最高だとも言う。結婚に至る道に、生活の保障と恋と、両方が必要だということだろうか。確かに白話の小説でも、演劇でも、そういった恋愛物はいつでも一定数の人気を博しているようだ。そう、おとぎ話でもきまって最後は『幸せにくらしました』でしめくくられている。


 ああ、でもちょう温忠おんちゅうはこう言っていた。珪己は礼部でのこの同僚の言葉を思い出す。


『恋は落ちるものでしょ』

『けれど、これほど自身を壊してしまうものもないんだ』


 生活を賭けるための結婚相手に恋をするというのは矛盾しているのではないか。珪己はふとそう思った。日々の生活なしで人は生きてはいけない。食べ物と水、そして寝るための住居が生きるためには最低限必要だ。命の原資といってもいい。だが、恋が永遠に続くのであればいいが、人の内面は意図せずして変わるものだ。


 恋をすれば心や体が反応するのは仕方のないことだと温忠は言った。恋がそういう抑えきれない欲求によって生じる産物であるとするならば、一つの恋を持続させる方法などないのではないだろうか。そのような相手に生活を賭けることが果たして最良といえるのか? いや、最良どころか悪手ではないのか?


「ねえ。もっと派手な簪はないの?」


 問われ、この場から意識が飛んでいた珪己は反射的に動いていた。傍に置いていた袋の中身ををざっと机の上に出す。これに春燕が不満げに鼻をならした。



「ふーん、これしかないのね。……まあいいわ」


 それでもそれらを髪に挿し、完成形へと導いていく。


 春燕は最後に、髪の一部に長く細い布を何本も括り付けていった。それらはすべて春燕の手荷物の中にあったものである。多彩な色のその長く細い布は珪己の背の中ほどにまで垂れ、小さな動作で揺れる様が非常に優美だった。自分のことながら胸がときめく。が、すぐにはっとした。


「春燕さんの物までお借りできません!」

「いいっていいって。あとで返してくれたらそれでいいから。それよりも、私、こういうの一度やると凝っちゃうのよね。どうせやるなら完璧な美を究めたいのよ。だから私に任せて、ね?」


 両肩に手を置かれ背後から顔を出してほほ笑まれた。だがそれは絶対に逆らわせないという表情でもあった。鏡越しでも分かる。だからもはや珪己にできることはただ一つ、黙ってうなずくことだけだった。

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