4.二府の長官の密談
中書令・柳公蘭は先に入室していた枢密院の官吏の中に目的の人物を見つけると、自ら近づいた。
「楊枢密使、少しいいですか」
「ええ。いいですよ」
気負うことなく答え、玄徳は公蘭に導かれるまま室の隅へと移動していった。二人が離れていく様に、枢密院の官吏らは、その海千山千ともいえる豊富な経験をもってすら驚きを隠せないでいる。
「どういうことでしょうね」
扇で顔を隠しつつ侑生の耳元でささやいたのは同じ枢密副使の段亨明である。彼は先日、朝議の場で昏倒する失態を犯したばかりであったが、体調も回復し、すでに通常任務に戻っている。侑生に近づけたその顔色も悪くない。が、今その顔には明らかに心配の色が見えた。
「……さあ、皆目見当もつきません。ですが良い話ではないでしょうね」
ぎり、と腰に挿す扇子に沿えた侑生の手に力が入るさまを、亨明が不安そうに見やった。
公蘭と玄徳、この二人が今これから和やかに団らんするなどということはありえない。朝議での公蘭はいつも玄徳の失敗を嗅ぎまわり、どのような話も表から裏までつぶさに観察してくる。少なくとも公蘭のほうには玄徳、いや枢密院とともに協調して政治を執り行うつもりは毛頭ない。枢密院の上級官吏は誰もがそう思っていた。
公蘭は玄徳と共に窓のそばに寄ると、背後を見ることもなく慇懃に笑った。
「ほほほ。あなたの部下はよく調教されていますね」
薄い青の扇子をぱらりと開く。顔を隠してはいるが、その目は恐ろしいほどに公蘭の愉快な内面を物語っていた。
玄徳も公蘭にならって窓のほうに顔を向けた。しかしその眉は下げられていた。両手を腰の後ろに回し、ほおっとため息をつく。
「本当にあなたには困ったものです。もう少し言い方というものがあるでしょう」
「おや、調教という言葉は適切ではないと? あの者らのあなたへの感情は、信頼を通り越して崇拝に近いではないですか」
「ふむ、あなたにそのように見えるのだとしたら、それは真実なのかもしれませんね。では私がまだまだだということです」
「おやまあ、本当にあなたはいつでも生真面目なことです。いえいえ、あなたのその資質が彼らに影響するのは仕方のないこと。親に似ない子供などいないのですから」
「ほお、あなたの子供はあなたにちっとも似ていないではないですか」
「……玄徳!」
ぱちん、と音も高らかに薄い青の扇子が閉じられた。その音に、特に中書省の官吏がびくりと反応した。離れた場所にいるというのに、だ。彼らにとってそれはもっとも聞いてはいけない音なのである。
事実、公蘭のその声音も表情も、彼らが予想する、いや、予想以上の険しいものに変貌していた。しかし運の良いことに、傍にいる玄徳以外には公蘭のその変化は見えていなかった。
再度、公蘭の扇子がゆるりと開かれた。その扇子の奥、小さく息を整える気配がする。
「……先ほどあなたの娘を見ました。楊珪己、姿かたちは蔡蘭に似ていますが、礼部の報告を聞くかぎりではやはりあなたの娘でもありますね」
「それは親としては非常にうれしい言葉ですね」
公蘭のほうを向いてにこりと笑ってみせる玄徳の横顔が、遠くから見守る部下らにも確認できた。
「……今のところ玄徳様の勝ちってところでしょうか」
「そのように見えますが……」
侑生は亨明と言葉を交わしながら、今この時、二人が何を語っているのかまったく予想ができていなかった。それは侑生に不安をもたらし、だから亨明のように単純に安堵することができずにいる。
少なくとも公蘭は玄徳に何やらいら立ちを感じているようだ。そう侑生は思った。常の公蘭であれば、己に分があること、そして正しきことには真向からその怒りを示す。もしも自分に都合の悪いことが生じたら、その時はのらりくらりとかわして逃げおおせる。そのどちらでもなく抑えきれない怒りを持て余すさまは、侑生に一つの推測をさせた。
(玄徳様に逆らえない何かが柳中書令にはあるのか?)
背後の部下のわずかな気配の変化に気づき、玄徳はまた顔を窓のほうへと戻した。
「……今日は天気がいいですねえ」
窓の下のほうには多数の武官の姿が見える。近衛軍第一隊だ。彼らを統率するべく独特の動きを見せているのはまぎれもなく隊長の袁仁威だろう。芯国の関係者が乗ってきた馬車もその近くに見える。いつもとは違った景色がそこにはある。音はこの室にまで届かなくても、そこに緊張の糸が張りめぐらされているのが確かに見える。
「さあ、今日は中書省と枢密院でともに頑張りましょうね」
のんきともいえる玄徳の発言に公蘭が盛大に眉をひそめた。そして口を開きかけたその時、それは玄徳の次の発言によって遮られた。
「公蘭、これが終わったらその話をしましょう。あなたが何を語りたいのか、私はおそらく分かっています。そしてそれを聞く準備もできている」
それを聞くや公蘭の目が細められた。目尻の皺がいっそう深く濃くなる。そんな彼女を横目で見つつ、玄徳は窓に背を向け、そして部下の待つほうへと歩いていった。
公蘭は数回深く息を吸い、そして吐いた。そして腹に力を入れると、玄徳と同じように自身の部下のほうへと向かった。そこにはもはや中書令としての姿しかなかった。




