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3.二府の上級官吏の登場

 芸事担当者全員での最後の練習が、いつものごとく鏡楼きょうろうの椿の間で行われている。今日が当日、本番とあって、部屋の中には独特のぴりぴりとした空気が流れている。だがそこは湖国一とうたわれる名手達のこと、芸事の質には何ら影響はなく、昨日までと同様に完璧な業を誰もが披露していた。


 そこに一人の侍従が室内に入ってきた。彼はちょう龍顕りゅうけんにそっと近づくと耳元で何やらささやいた。龍顕は一つ大きくうなずくと晴れやかな表情となった。


「さあ、皆の者」


 晴れやかな表情で全員の顔を見渡す龍顕のことを、誰もが手を止めて注視している。


「先ほど芯国の一向が宮城に入ったそうだ。もうしばらくすればこの鏡楼に入るであろう。それから一刻ほど休憩され、牡丹の間に場をうつして調印式が執り行われる。であるから我らの練習もあと一刻ほどで終了とする」


 龍顕の言うその理屈が分からず、珪己が隣の奏者に尋ねたところ、それはこういうことだった。


 一つはこの部屋と牡丹の間は隣にあるため、万が一音が漏れて式を妨害するようなことがあっては困るため。それほどこの式は重要なのである。


 また、調印式の間、会場付近は関係者以外は人払いし立入禁止となるとのこと。芸事に関わる者などは式においては無用の長物なのだ。


 さらに言うと、芸事関係者の休憩のためでもあるという。宴の直前には楽器を調律したり小道具や衣装等を確認する時間が必要だし、一度宴が始まれば、誰もが簡単に座を退くことなどできなくなる。今夜の宴は二、三刻は続く予定となっている。芸事に関わる者にとってはこのような状況はよくあることであり、耐え抜く体力は十分有してはいるが、まあ可能なかぎり休息をとっておくにこしたことはない。


 龍顕が全員を見渡してさっと両手を掲げた。


「よし、それでは最後に一度通しでやろう」


 誰もの顔がきゅっと引き締まる。


 龍顕の手が空で翻るや、室内に音が生まれた。紡ぎ出された曲にのせ、歌が、踊りが順に始まっていった。



 *



 弦をつまびきすぎて指がしびれている。その指をさすりつつ珪己が椿の間を出たところで、向こうから紫の袍衣に身を包む上級官吏の集団がやってくるのが見えた。先頭を歩くのは楊玄徳ただ一人、その後ろに複数人で構成された列があり、最前列には李侑生の姿もあった。この集団は明らかに枢密院所属の文官である。


 玄徳は娘の姿に気づくと、一瞬顔をほころばせかけた。が、むりやり唇をきゅっと引き締め、それからほとんど間をおかずに枢密使たる毅然とした表情へと戻した。


 玄徳が今この場でどうふるまうつもりであるのか、珪己には即座に分かった。それは珪己が願ったとおり、親子の関係であることを悟られたくないというもの、いや、悟られる必要がないということだろう。玄徳は必要とは思わないことを不必要であると認識する傾向がある。


 珪己は上級官吏に対する当然の礼として、廊下の壁際に移動し両手を腹の前で合わせ、そして小さく頭を下げた。ともにいた楽士の面々も同様に珪己のそばに並んで礼をとる。


 玄徳はそんな楽士らの前を、珪己の前を、当然のごとく何の感慨もなく通り過ぎた。枢密使にとって楽士とはその程度の存在でしかない。


 珪己は頭を下げながらも、目線は通り過ぎる官吏らの足元を見ていた。


(今のくつは父様、そして次は枢密副使の誰かね。あ、これは侑生様の沓かしら)


 侑生らしき足は大きな歩幅で颯爽と珪己の前を進み、そして消えていった。こつこつと鳴る沓の音が、誰も会話するもののいない廊下に鳴る。その響きはこれから始まる調印式への、上級官吏の意気込みを表すかのように重厚だ。沓の音と音の間に存在する心響くような静寂は、戦いの前のひと時を示唆するようでもある。


 やがて向こう側で重々しく扉が開く音が聞こえ、そこに沓の音が吸い込まれていった。扉が閉められ、漂う気配から高位の者の残り香が立ち消えたのを感じてから、誰ともなく礼を解いて立ち上がった。


 ほっとした空気が流れたのもつかの間、珪己の隣の楽士があわてて再度礼をとった。つられて廊下の向こうをみると、そこには新たな紫袍の集団が出現していた。先頭は齢五十近い女性ただ一人、そして連なる官吏の中に馬祥歌が見えた。次の集団は中書省所属の文官だ。


 中書省と枢密院、この二府の上級官吏の通行にこうも連続して立ち会うことなどめったにない。珪己が楽士でなければ、鏡楼での滞在を許されていなければ、このような稀少な機会に遭遇することはなかっただろう。


 楽士全員揃って礼をとり直し、先ほどの一行のように通り過ぎるのを待つ。


 と、先頭を歩く女官吏の沓が珪己の前でぴたりと止まった。思いがけない状況に珪己は思わず小さく息を飲んだ。


 先頭を歩く女官吏は、まず間違いなく中書省長官である中書令だ。父と同じ高位にあり、同じ二府の長官であるとはいえ、なぜか彼女からは痛いほどの迫力を感じる。彼女が意図してそうしているのか、それとも無意識で発しているものなのか。


 頭上から中書令の低い声がした。


礼部れいぶ侍郎じろう。この者が例の?」

「……はっ」


 いつもの自信の塊のような祥歌とは打って変わった返答の仕方は、珪己の考える中書令像をより強固にした。直接顔を合わせずとも、この女官吏の放つ圧倒的な存在感はまさに中書令そのものである。


 例えば彼女と父・玄徳、二人が逆の任に就いているほうが自然なくらいだ。父の誰をも包みこむような温かさは文政のほうが向いていると常々思っているし、逆にこの女性はただそこにいるだけで畏怖を感じ従いたくなるような、力でもって人を制する指導者のように感じられる。


 下げた頭の裏にはいまだに痛いくらいの視線が突き刺さっている。頭の中まで透かし見ようとするような視線に、珪己の額にじわりと汗が浮かんできた。


 しかし、中書令がそこにいたのはほんの少しの間だけだった。視線をはずすと、あとは黙って枢密院の官吏らと同じほうへと歩き出す。その後ろを付き従う官吏らの沓を見ながら、珪己は黙って礼をとり続けた。

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